4 / 45
名前を持つということ
立ち上がるという行為が、こんなにも大仕事だとは思わなかった。
床は遠い。
手を伸ばしても支えがなければすぐに傾き、体は信じられないほど簡単に裏切る。それでも何度も挑戦しているうちに、筋肉が少しずつ言うことを聞くようになった。
最初に成功したのは、窓辺だった。
光の差し込む場所で、俺は必死に縁へ手をかけ、震える足に体重を乗せる。ぐらりと揺れた視界の向こうで庭が見えた。
立っている。
理解した瞬間、胸が高鳴った。
世界の高さが変わるだけで、景色はまるで別物だった。
「……立ったな」
背後から声が落ちる。
振り向こうとして失敗し、危うく倒れかけたところを大きな腕が支えた。公爵だった。いつから見ていたのか分からないが、表情には隠しきれない驚きが浮かんでいる。
俺は得意げに声を出す。
「た」
言葉になっていない。
それでも公爵は真剣に頷いた。
「そうだ。立った」
まるで重大な成果を認めるように言う。
次の瞬間、屋敷の空気がざわついた。使用人たちが次々と集まり、誰かが涙ぐみ、誰かが拍手をしている。
大げさすぎる。
そう思いながらも、悪い気はしなかった。
誰かに喜ばれるというのは、思った以上に心地いい。
歩くことは、さらに難しかった。
一歩踏み出すたびに世界が傾く。それでも手を引かれ、何度も転び、何度も起き上がるうちに、距離は少しずつ伸びていった。
公爵は決して急がせなかった。
俺が転んでも、すぐには抱き上げない。ただ近くで見ている。自分で立ち上がるのを待つ。その静かな信頼が、妙に嬉しかった。
ある日、俺は彼のもとへ歩いた。
部屋の端から端まで。
足は震え、何度も止まりかけたが、最後まで転ばずに辿り着いた。公爵の前でバランスを崩し、その胸へ倒れ込む。
大きな腕が受け止める。
「よく来たな」
低い声が、誇らしそうに響いた。
頭を撫でられる。
その瞬間、胸の奥がいっぱいになった。
認められた。
たったそれだけのことが、世界を明るくする。
そしてその日、俺は名前をもらった。
「お前の名は、レオンだ」
公爵は真っ直ぐ俺を見て言った。
意味は完全には分からない。それでも音の響きは心に残る。何度も口の中で転がし、真似しようとして失敗する。
「れ……お」
公爵の目が細まる。
「そうだ、レオン」
自分を指差す。
「レオン」
名前を持つというのは、不思議な感覚だった。
ただ存在しているだけだった自分に、輪郭が与えられる。呼ばれるたび、ここにいていいのだと確認される気がした。
俺は何度もその音を繰り返した。
「れお」
公爵はそのたびに頷く。
部屋の空気が温かくなる。
この世界での俺は、レオンだ。
耳も尾もない、人族の子供。
それでも、公爵家の一員。
その事実が、胸の奥で静かに根を下ろしていくのを感じていた。
床は遠い。
手を伸ばしても支えがなければすぐに傾き、体は信じられないほど簡単に裏切る。それでも何度も挑戦しているうちに、筋肉が少しずつ言うことを聞くようになった。
最初に成功したのは、窓辺だった。
光の差し込む場所で、俺は必死に縁へ手をかけ、震える足に体重を乗せる。ぐらりと揺れた視界の向こうで庭が見えた。
立っている。
理解した瞬間、胸が高鳴った。
世界の高さが変わるだけで、景色はまるで別物だった。
「……立ったな」
背後から声が落ちる。
振り向こうとして失敗し、危うく倒れかけたところを大きな腕が支えた。公爵だった。いつから見ていたのか分からないが、表情には隠しきれない驚きが浮かんでいる。
俺は得意げに声を出す。
「た」
言葉になっていない。
それでも公爵は真剣に頷いた。
「そうだ。立った」
まるで重大な成果を認めるように言う。
次の瞬間、屋敷の空気がざわついた。使用人たちが次々と集まり、誰かが涙ぐみ、誰かが拍手をしている。
大げさすぎる。
そう思いながらも、悪い気はしなかった。
誰かに喜ばれるというのは、思った以上に心地いい。
歩くことは、さらに難しかった。
一歩踏み出すたびに世界が傾く。それでも手を引かれ、何度も転び、何度も起き上がるうちに、距離は少しずつ伸びていった。
公爵は決して急がせなかった。
俺が転んでも、すぐには抱き上げない。ただ近くで見ている。自分で立ち上がるのを待つ。その静かな信頼が、妙に嬉しかった。
ある日、俺は彼のもとへ歩いた。
部屋の端から端まで。
足は震え、何度も止まりかけたが、最後まで転ばずに辿り着いた。公爵の前でバランスを崩し、その胸へ倒れ込む。
大きな腕が受け止める。
「よく来たな」
低い声が、誇らしそうに響いた。
頭を撫でられる。
その瞬間、胸の奥がいっぱいになった。
認められた。
たったそれだけのことが、世界を明るくする。
そしてその日、俺は名前をもらった。
「お前の名は、レオンだ」
公爵は真っ直ぐ俺を見て言った。
意味は完全には分からない。それでも音の響きは心に残る。何度も口の中で転がし、真似しようとして失敗する。
「れ……お」
公爵の目が細まる。
「そうだ、レオン」
自分を指差す。
「レオン」
名前を持つというのは、不思議な感覚だった。
ただ存在しているだけだった自分に、輪郭が与えられる。呼ばれるたび、ここにいていいのだと確認される気がした。
俺は何度もその音を繰り返した。
「れお」
公爵はそのたびに頷く。
部屋の空気が温かくなる。
この世界での俺は、レオンだ。
耳も尾もない、人族の子供。
それでも、公爵家の一員。
その事実が、胸の奥で静かに根を下ろしていくのを感じていた。
あなたにおすすめの小説
最弱白魔導士(♂)ですが最強魔王の奥様になりました。
はやしかわともえ
BL
のんびり書いていきます。
2023.04.03
閲覧、お気に入り、栞、ありがとうございます。m(_ _)m
お待たせしています。
お待ちくださると幸いです。
2023.04.15
閲覧、栞、お気に入りありがとうございます。
m(_ _)m
更新頻度が遅く、申し訳ないです。
今月中には完結できたらと思っています。
2023.04.17
完結しました。
閲覧、栞、お気に入りありがとうございます!
すずり様にてこの物語の短編を0円配信しています。よろしければご覧下さい。
呪われた辺境伯は、異世界転生者を手放さない
波崎 亨璃
BL
ーーー呪われた辺境伯に捕まったのは、俺の方だった。
異世界に迷い込んだ駆真は「呪われた辺境伯」と呼ばれるレオニスの領地に落ちてしまう。
強すぎる魔力のせいで、人を近づけることができないレオニス。
彼に触れれば衰弱し、最悪の場合、命を落とす。
しかしカルマだけはなぜかその影響を一切受けなかった。その事実に気づいたレオニスは次第にカルマを手放さなくなっていく。
「俺に触れられるのは、お前だけだ」
呪いよりも重い執着と孤独から始まる、救済BL。
となります。
ひ弱な竜人 ~周りより弱い身体に転生して、たまに面倒くさい事にも出会うけど家族・仲間・植物に囲まれて二度目の人生を楽しんでます~
白黒 キリン
ファンタジー
前世で重度の病人だった少年が、普人と変わらないくらい貧弱な身体に生まれた竜人族の少年ヤーウェルトとして転生する。ひたすらにマイペースに前世で諦めていたささやかな幸せを噛み締め、面倒くさい奴に絡まれたら鋼の精神力と図太い神経と植物の力を借りて圧倒し、面倒事に巻き込まれたら頼れる家族や仲間と植物の力を借りて撃破して、時に周囲を振り回しながら生きていく。
タイトルロゴは美風慶伍 様作で副題無し版です。
小説家になろうでも公開しています。
https://ncode.syosetu.com/n5715cb/
カクヨムでも公開してします。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054887026500
●現状あれこれ
・2021/02/21 完結
・2020/12/16 累計1000000ポイント達成
・2020/12/15 300話達成
・2020/10/05 お気に入り700達成
・2020/09/02 累計ポイント900000達成
・2020/04/26 累計ポイント800000達成
・2019/11/16 累計ポイント700000達成
・2019/10/12 200話達成
・2019/08/25 お気に入り登録者数600達成
・2019/06/08 累計ポイント600000達成
・2019/04/20 累計ポイント550000達成
・2019/02/14 累計ポイント500000達成
・2019/02/04 ブックマーク500達成
もふもふ聖獣様に拾われた不遇オメガは、空に浮かぶ島で運命の番として極上の溺愛を注がれる
水凪しおん
BL
「オメガがいるから、村に災いが降りかかったのだ」
理不尽な理由で村人たちから忌み嫌われ、深い雪の森へと生贄として捨てられた十九歳の青年、ルカ。
凍える寒さの中、絶望に目を閉じた彼の前に現れたのは、見上げるほど巨大で美しい「白銀の狼」だった。
伝説の聖獣である狼に拾われたルカが目を覚ましたのは、下界の汚れから切り離された雲海に浮かぶ美しい島。
狼は人間の姿——流れるような銀髪と黄金の瞳を持つ壮麗なアルファの偉丈夫、レオンへと変化し、ルカにこう告げる。
「君は、俺の運命の番だ」
これまで虐げられ、自分を穢れた存在だと思い込んでいたルカは、レオンの甘く深いアルファの香りと、恐ろしいほどの優しさに戸惑うばかり。
温かい食事、美しい庭園、そして決して自分を傷つけない大きな手。
極上の溺愛に包まれるうち、ルカの心に固く巻きついていた冷たい恐怖の糸は、少しずつほどけていく。
そして、ルカを捨てた村人たちが強欲にも島へ足を踏み入れたとき、ルカは自らの意志とオメガとしての本当の力に目覚める——。
これは、孤独だった不遇のオメガが、伝説の聖獣の番として永遠の幸せと自分の居場所を見つけるまでの、心温まる溺愛ファンタジー。
異世界オークションで売られた俺、落札したのは昔助けた狼でした
うんとこどっこいしょ
BL
異世界の闇オークションで商品として目覚めた青年・アキラ。
獣人族たちに値踏みされ、競りにかけられる恐怖の中、彼を千枚の金貨で落札したのは、銀灰色の髪を持つ狼の獣人・ロウだった。
怯えるアキラに、ロウは思いがけない言葉を告げる。
「やっと会えた。お前は俺の命の恩人だ」
戸惑うアキラの脳裏に蘇るのは、かつて雨の日に助けた一匹の子狼との記憶。
獣人世界を舞台に、命の恩人であるアキラと、一途に想い続けた狼獣人が紡ぐ、執着と溺愛の異世界BLロマンス。
第一章 完結
第二章 完結
第三章 完結