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第二章 青い薔薇
謙虚な金持ちの老人
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輝は、たった一人の親友と別れ、英国のヒースロー行きの飛行機に乗った。一緒に搭乗した町子にはしっかりと朝美と友子がくっついてきた。それを見た時、輝は明らかに不公平だと感じたが、それを大きな声で言うのは諦めた。隣には、母がいた。客室乗務員と流暢な英語で話している。不思議なことに、輝にもそれができた。どうして今までできなかったのだろう。英語の授業だって勉強しなければできなかったのに。
長いフライトを経て、ヒースローの空港に着くと、時間は夜だった。夕食どきにちょうどいい時間帯だった。輝たちより少し前に送り出した家具や大きな荷物は二、三日後にロンドン郊外の新しい家に届く。それまでは町子の祖父が手配したホテルで宿泊して過ごすことになった。
その日のディナーは町子の祖父が席を作っていて、ロンドン市内のレストランでの食事となった。町子の祖父が、何か伝えたいことがあるのだという。
タクシーを呼んでそれに乗り込み、運転手にレストランの名前を告げると、輝と芳江、町子と友人たちにそれぞれ分かれて二台のタクシーに乗った。タクシーはすぐに発車し、レストランに向かった。ロンドンの街並みはそれぞれの区画で違った色を見せて、見飽きることがなかった。
タクシーは、新しいビルが多く立ち並ぶ新市街の中心あたりまできて、大きなビルの前で輝たちを降ろした。レストランはこのビルの最上階だ。ビルに入り、自分たちの服装を確かめてからエレベーターに乗った。
最上階に着いて、町子の祖父からの招待状をそれぞれが出すと、案内係の男性が来て、輝たちを窓際の、夜景のよく見える席に案内した。
「こんなの、初めてだわ。町子さんのおじいさん、お金持ちなのね」
芳江は、つい我慢できずに小さな声で輝に告げた。輝は、苦笑いを返して応えた。
案内された席に着くと、そこには、先に一人の老人が座って待っていた。初老の男性で、上品な髭をたたえて、上品な所作で立ち上がって輝たちを迎えた。
「私のわがままに付き合わせてしまったね。輝くん、町子から話は聞いた。私はまず、君に詫びなければならない」
そう言って頭を下げたので、輝は少し困惑して、それを止めた。
「いいんです。そりゃ、あの時は怒りが湧いたけど、今はもう、納得できたっていうか、なるようになるんじゃないかって」
輝が焦っていると、町子の祖父は顔をあげた。
「そう言ってもらえるとありがたい。だが無理をしてはいけない。嫌なことは嫌だと言って良いんだよ。さあ、せっかく席を用意したのだから、皆、座っておくれ」
老人は輝の背中を押して、席に案内した。それぞれ座る席が決まっていて、名札が立っていた。
「それぞれに料理の好みはあるだろう?」
そう言って、老人は笑った。
料理は、老人が言った通り、各々の好みに応じて違う物が出てきた。英国の料理は微妙な味のものが多いと聞いたが、このレストランは例外だった。
「森高のお爺さんってさ」
出された料理を口にしながら輝は町子に話しかけた。町子がこちらをチラリと見るのを確認して続ける。
「意外と腰が低いんだな。強引だから偉そうな人だと思っていたよ」
すると、町子はふと笑った。
「手紙の文面でわかるでしょ普通。おじいちゃんは、息子である私の伯父のために、意地悪な医者に土下座し続けたことがあるんだから」
町子は、そう言って胸を張って輝を見た。
食事が終わって、食後のコーヒーや紅茶を愉しんでいると、町子の祖父は接客係を呼んで、何かを取りに行かせた。
「この食事会の目的なのだが、特別なものを君たちに見せようと思ってね」
老人の瞳が、一瞬真剣な色を帯びた。町子はそれを見ていたのか、見ていないのか、黙ってお茶を飲んでいた。輝は先程の老人の表情の変化が気になっていた。これから来るものは一体何なのだろう。
そんなことを考えていると、接客係が、白い布に包まれた何かを持ってきた。老人はそれを受けとると、大きな皿の上に置いて、布を取った。
現れたのは、大きな水晶だった。だが、ただの水晶ではなく、その中には凍てついたように水晶の中で微動だにしない真っ青なバラが一輪、咲いていた。
「水晶の中に青いバラ? おじいちゃん、これ一体?」
町子が驚いて祖父に尋ねた。すると老人は、少し悲しそうな顔をした。
「これは、アフリカにいる私の友人が、私に託したものだ。人工着色以外で、このように鮮やかな青を出すバラは現在のところ存在しない。だが、このバラは自然界で生まれたものだ。それがこの水晶の中に入っている。これを私に託した友人の話によると、都市開発によってなくなってしまった村を追われたある女性の心が凍った結果なのだという」
「心が凍って、クリスタルに青いバラが?」
輝が問いかけると、老人は頷いた。
「この女性について、輝くんや町子たちに調べてきてほしいのだよ。ちょうど、君たちの家に荷物が届く頃にはこの仕事も終わっているだろうから。老人の頼みを聞いてはもらえないだろうか?」
老人が頭を下げたので、輝は再びそれを止めた。この老人は、今までこうやって人にあたってきたのだろうか。だとしたら、相当な苦労があったはずだ。
この老人を責めるのはもうやめよう。
輝はそう思って、席を立って町子の祖父の頭を上げさせた。
「アフリカに行くんだ」
お茶を飲み終わった町子が、カップをソーサーの上に静かに置いた。目は床に落としている。だがそれも少しの間で、すぐに笑顔を取り戻して祖父を見た。
「これからは輝が一緒なんだよね。じゃあ、大丈夫かな。私、もう独りぼっちは嫌だから」
「ひとりぼっち?」
輝は、町子の言葉を聞いて、急に怒りが込み上げてきた。ひとりぼっちとはどういうことだろう。こんなにお金持ちの祖父がいて、友人も家族も揃っているのに。
「森高の考えていること、分かんないわ」
少し力のこもった口調で言うと、町子はため息をついて顔を手で覆った。
「輝には、わかんないよね。ずっとずっとひとりぼっちだったんだよ。誰にも言えなくて。輝になら言えるかもって思ってた。ねえ」
町子は声を震わせている。誰もが彼女に注目している。
「町子って呼んで」
突然そのようなことを言われたものだから、輝は面食らってしまった。自分のことを一人ぼっちだと言う町子の気持ちはよく分からなかった。しかし、なんとなく彼女の嘆きの原因がわかったような気がした。
「それって、朝美さんにも、友子さんにも言っていないのか」
町子は、頷いた。手を顔から離してハンカチで涙を拭く。その様子を見ていた町子の祖父が、輝を見た。
「親しいからこそ、言えないこともある。町子のことを受け入れてはくれないかね? この子は、そんなに強くないんだ」
輝には、町子の祖父が何を言っているのか理解できなかった。しかし、それが大人の理屈であれ、町子の事情であれ、すでにここまで足を突っ込んでしまっている輝には他人事ではなくなってきていた。
「俺一人が森高のことをなんとかできるとは思えない。でも、とりあえずは彼女のこと、町子って呼べるようになってみます」
その場にいた全員が、ほっとした表情をした。この場の空気が収まらないと、せっかくの食事の席が台無しになってしまうからだ。
町子の祖父は、話をそこで切り上げ、解散とした。食事が終わった人間から会場を去って行く。最後に町子と、町子の祖父を残して、輝も母と共に去った。あのあと町子と町子の祖父が何を話したのかはわからないが、きっと、何かの慰みがあったのだろう。ホテルに着き、ベッドに横になると、輝は、あの時、町子が泣いた理由を想像して、そのまま眠ってしまった。
長いフライトを経て、ヒースローの空港に着くと、時間は夜だった。夕食どきにちょうどいい時間帯だった。輝たちより少し前に送り出した家具や大きな荷物は二、三日後にロンドン郊外の新しい家に届く。それまでは町子の祖父が手配したホテルで宿泊して過ごすことになった。
その日のディナーは町子の祖父が席を作っていて、ロンドン市内のレストランでの食事となった。町子の祖父が、何か伝えたいことがあるのだという。
タクシーを呼んでそれに乗り込み、運転手にレストランの名前を告げると、輝と芳江、町子と友人たちにそれぞれ分かれて二台のタクシーに乗った。タクシーはすぐに発車し、レストランに向かった。ロンドンの街並みはそれぞれの区画で違った色を見せて、見飽きることがなかった。
タクシーは、新しいビルが多く立ち並ぶ新市街の中心あたりまできて、大きなビルの前で輝たちを降ろした。レストランはこのビルの最上階だ。ビルに入り、自分たちの服装を確かめてからエレベーターに乗った。
最上階に着いて、町子の祖父からの招待状をそれぞれが出すと、案内係の男性が来て、輝たちを窓際の、夜景のよく見える席に案内した。
「こんなの、初めてだわ。町子さんのおじいさん、お金持ちなのね」
芳江は、つい我慢できずに小さな声で輝に告げた。輝は、苦笑いを返して応えた。
案内された席に着くと、そこには、先に一人の老人が座って待っていた。初老の男性で、上品な髭をたたえて、上品な所作で立ち上がって輝たちを迎えた。
「私のわがままに付き合わせてしまったね。輝くん、町子から話は聞いた。私はまず、君に詫びなければならない」
そう言って頭を下げたので、輝は少し困惑して、それを止めた。
「いいんです。そりゃ、あの時は怒りが湧いたけど、今はもう、納得できたっていうか、なるようになるんじゃないかって」
輝が焦っていると、町子の祖父は顔をあげた。
「そう言ってもらえるとありがたい。だが無理をしてはいけない。嫌なことは嫌だと言って良いんだよ。さあ、せっかく席を用意したのだから、皆、座っておくれ」
老人は輝の背中を押して、席に案内した。それぞれ座る席が決まっていて、名札が立っていた。
「それぞれに料理の好みはあるだろう?」
そう言って、老人は笑った。
料理は、老人が言った通り、各々の好みに応じて違う物が出てきた。英国の料理は微妙な味のものが多いと聞いたが、このレストランは例外だった。
「森高のお爺さんってさ」
出された料理を口にしながら輝は町子に話しかけた。町子がこちらをチラリと見るのを確認して続ける。
「意外と腰が低いんだな。強引だから偉そうな人だと思っていたよ」
すると、町子はふと笑った。
「手紙の文面でわかるでしょ普通。おじいちゃんは、息子である私の伯父のために、意地悪な医者に土下座し続けたことがあるんだから」
町子は、そう言って胸を張って輝を見た。
食事が終わって、食後のコーヒーや紅茶を愉しんでいると、町子の祖父は接客係を呼んで、何かを取りに行かせた。
「この食事会の目的なのだが、特別なものを君たちに見せようと思ってね」
老人の瞳が、一瞬真剣な色を帯びた。町子はそれを見ていたのか、見ていないのか、黙ってお茶を飲んでいた。輝は先程の老人の表情の変化が気になっていた。これから来るものは一体何なのだろう。
そんなことを考えていると、接客係が、白い布に包まれた何かを持ってきた。老人はそれを受けとると、大きな皿の上に置いて、布を取った。
現れたのは、大きな水晶だった。だが、ただの水晶ではなく、その中には凍てついたように水晶の中で微動だにしない真っ青なバラが一輪、咲いていた。
「水晶の中に青いバラ? おじいちゃん、これ一体?」
町子が驚いて祖父に尋ねた。すると老人は、少し悲しそうな顔をした。
「これは、アフリカにいる私の友人が、私に託したものだ。人工着色以外で、このように鮮やかな青を出すバラは現在のところ存在しない。だが、このバラは自然界で生まれたものだ。それがこの水晶の中に入っている。これを私に託した友人の話によると、都市開発によってなくなってしまった村を追われたある女性の心が凍った結果なのだという」
「心が凍って、クリスタルに青いバラが?」
輝が問いかけると、老人は頷いた。
「この女性について、輝くんや町子たちに調べてきてほしいのだよ。ちょうど、君たちの家に荷物が届く頃にはこの仕事も終わっているだろうから。老人の頼みを聞いてはもらえないだろうか?」
老人が頭を下げたので、輝は再びそれを止めた。この老人は、今までこうやって人にあたってきたのだろうか。だとしたら、相当な苦労があったはずだ。
この老人を責めるのはもうやめよう。
輝はそう思って、席を立って町子の祖父の頭を上げさせた。
「アフリカに行くんだ」
お茶を飲み終わった町子が、カップをソーサーの上に静かに置いた。目は床に落としている。だがそれも少しの間で、すぐに笑顔を取り戻して祖父を見た。
「これからは輝が一緒なんだよね。じゃあ、大丈夫かな。私、もう独りぼっちは嫌だから」
「ひとりぼっち?」
輝は、町子の言葉を聞いて、急に怒りが込み上げてきた。ひとりぼっちとはどういうことだろう。こんなにお金持ちの祖父がいて、友人も家族も揃っているのに。
「森高の考えていること、分かんないわ」
少し力のこもった口調で言うと、町子はため息をついて顔を手で覆った。
「輝には、わかんないよね。ずっとずっとひとりぼっちだったんだよ。誰にも言えなくて。輝になら言えるかもって思ってた。ねえ」
町子は声を震わせている。誰もが彼女に注目している。
「町子って呼んで」
突然そのようなことを言われたものだから、輝は面食らってしまった。自分のことを一人ぼっちだと言う町子の気持ちはよく分からなかった。しかし、なんとなく彼女の嘆きの原因がわかったような気がした。
「それって、朝美さんにも、友子さんにも言っていないのか」
町子は、頷いた。手を顔から離してハンカチで涙を拭く。その様子を見ていた町子の祖父が、輝を見た。
「親しいからこそ、言えないこともある。町子のことを受け入れてはくれないかね? この子は、そんなに強くないんだ」
輝には、町子の祖父が何を言っているのか理解できなかった。しかし、それが大人の理屈であれ、町子の事情であれ、すでにここまで足を突っ込んでしまっている輝には他人事ではなくなってきていた。
「俺一人が森高のことをなんとかできるとは思えない。でも、とりあえずは彼女のこと、町子って呼べるようになってみます」
その場にいた全員が、ほっとした表情をした。この場の空気が収まらないと、せっかくの食事の席が台無しになってしまうからだ。
町子の祖父は、話をそこで切り上げ、解散とした。食事が終わった人間から会場を去って行く。最後に町子と、町子の祖父を残して、輝も母と共に去った。あのあと町子と町子の祖父が何を話したのかはわからないが、きっと、何かの慰みがあったのだろう。ホテルに着き、ベッドに横になると、輝は、あの時、町子が泣いた理由を想像して、そのまま眠ってしまった。
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