パラレル・ライフ・シミュレーター

本歌取安

文字の大きさ
5 / 12

第5話 記憶の軌跡

しおりを挟む
―ふっと光が収まり、暗転。

次の瞬間、スクリーンのように開いた空間に、ある少女の後ろ姿が浮かび上がった。

画面の右隅に、電子的なフォントで表示が現れる。

 Simulation Start : Subject MATSUDIRA NAOKO
 Environment : Original Timeline / No Alteration

少女の名は中代尚子。
広島の山あいにある小さな町で、母と二人きりで暮らしていた。

暮らしは貧しかった。
市営住宅の一角、薄暗い六畳一間。
ガスコンロも古び、夏は熱気がこもり、冬は窓際の結露が凍る。
だが、その空間には一つだけ、眩しいほどの輝きがあった――尚子の目だ。

彼女は黙々と机に向かい、鉛筆の芯を何度も削りながら、教科書に線を引いていた。
外で遊ぶ声にも振り向かず、母の作った薄い味噌汁をすすり、静かに夜を過ごす。

中学進学後の最初の宿題提出日。
数学担当教師の坂本 鉄矢が、尚子のノートを見て目を輝かせながら褒めた。

「中代君は、問題の解き方がきちんとしている。真面目に勉強している証拠だ。これからも一緒に頑張ろう!」

その言葉が、初めて“誰かに認められた”瞬間だった。

坂本は教育熱心な教師で、塾に行けない生徒に対して放課後補講を行っており、尚子も積極的に受講した。
坂本はそのことを誰よりも喜び、何かにつけて励ましたことにより、尚子は勉学にのめり込む。
そのため、成績は学年トップはおろか県内でもトップクラスとなり、高校は奨学金と特待制度を受け、中国地方有数の有名私立進学校への入学を果たす。

有名私立進学校だけあって、周囲は名家や裕福な家庭の子どもばかりだった。
バッグも靴も、彼女のものとはどこか違う。
だが尚子は、そのようなものに興味はなく、ひたすら勉学に励み、机上の努力で周りの学力を凌駕していった。

――努力は報われる。学びこそが、貧困からの出口だ。

この信念が、彼女の中に静かに根を張り始めた。

高校3年の進路希望調査で、尚子は「経済学部」と書いた。
理由は明白だった。
 “なぜ貧困が生まれるのか?”
 “なぜ、努力しても抜け出せない人がいるのか?”
 それを、理論で解き明かしたかった。

経済学分野における世界的な名門校、田安大学経済学部に進学後、彼女は初めて、周囲の“怠惰”に違和感を覚え始めた。

「奨学金を借りてまで進学したのに、授業に出ていない人がいる。」

「貧困家庭出身者が、なぜ努力しようとしないのか?」

その違和感は、やがて疑念に変わり、やがて断定へと変わる。

――貧困は、努力しない人間が自ら招いているのではないか。

大学院進学後、尚子は指導教授となったレイナード・スミス教授の推薦でMITに渡る。
そこで出会ったのが、陽気で知的で、どこか破天荒なマリア・ヴァンダービルトだった。

研究に没頭する日々。
異国の地で交わした夜食と議論。
そして、ある日、研究資料を印刷しようとした大学のコピー室で、彼女は一人の青年と出会う。

松平定征――端正な顔立ちと落ち着いた物腰。
聞けば、財団研究員として留学中の、名門旧家の出身だという。

二人は自然と惹かれ合い、定征の帰国に合わせて尚子も日本へ戻る。
文久大学に准教授として採用され、やがて二人は結婚。
翌年、息子・定頼が生まれる。

その後の尚子の人生は、まさに“上昇の連続”だった。

教授職を得て、政府の経済財政諮問会議の委員に選任されると、彼女は農業改革の場で辣腕を振るった。
反発する野党議員や農家に対し、冷静かつ鋭利な論理で切り返す。

「生活ができないのではなく、“変化を恐れている”だけです。」

「農家の皆さんに問いたい。本当に必要なのは保護ですか? それとも、未来ですか?」

それは、現場の反感を買いつつも、確実に国の政策を動かしていった。

委員退任後、民間の農業系企業の取締役に就任。
ストックオプションで得た資産は莫大だった。
テレビ出演も始まり、その辛辣なコメントは一部でカリスマ視されるようになった。
 
さらには、一人息子の定頼も順調に育ち、今年度からハーバード大学へと進学のため渡米した。

そして今――彼女の家庭は、誰が見ても“理想”の形を保っていた。

文久大学教授。
社会的成功。
敬意ある家庭。
エリート大学に進学した息子。

記憶の再生が終わり、画面は静かにフェードアウトする。

シミュレーションルームの扉の向こう、モニターを見つめるマリアの目がわずかに潤んでいた。

「昔、話には聞いてはいたけど、これが……あなたの歩んできた人生なのね、尚子」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

アガルタ・クライシス ―接点―

来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。 九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。 同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。 不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。 古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

キメラスキルオンライン 【設定集】

百々 五十六
SF
キメラスキルオンラインの設定や、構想などを保存しておくための設定集。 設定を考えたなら、それを保存しておく必要がある。 ここはそういう場だ。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜

かの
ファンタジー
 世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。  スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。  偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。  スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!  冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...