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第5話 ローマ人の書斎
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その夜、タウンミーティングの反省を夜遅くまでしていたデネブは、疲れ果ててそのままデスクに突っ伏す形で眠りについた。
すると、彼女の意識はまたしても、あの静謐な夢の中へと導かれていく。
気づくと、彼女は再びあの庭園にいた。
遠くにはやはり同じ樹々、空には雲ひとつない青が広がっている。
そして、石のベンチには、例の男――クラウディウスが何か思索に耽っているような顔つきをして座っていた。
「また会ったわね」
デネブが声をかけると、クラウディウスは顔を上げ、うっすら笑みを浮かべた。
「おお、フォスターか。ずいぶんと浮かぬ顔だな。何かでうまくいかなかったという顔付きだ。」
「……図星よ。演説しても手ごたえがないし、誰の心にも届かない。やっぱり、私は政治家に向いてないのかも」
クラウディウスは小さく唸るようにしてから、身を乗り出すように言った。
「ほう、フォスターよ、君は政治家なのか…。ならば聞くが、おぬしは何を語った? どんな言葉で民に訴えた?」
「理屈よ。政策の矛盾や、制度の欠陥について。私は、正しいことは言えていた。でも、伝えることができなかった」
「ふむ、理論は――か」
クラウディウスはゆっくりと天を仰いだ。
「儂がいたローマも、民の心は理屈では動かなかった。アグリッパの演説に始まり、キケロ、――彼らは皆、言葉に“炎”を宿していた」
「“炎”?」
「人の心に火をつける言葉だ。単なる情報ではない。そこには、聞く者が自分のこととして感じられる“物語”と、“誇り”と、“恐れ”がある。理屈は後からついてくる」
デネブはしばし黙った。
確かに、演説が終わった後に何も残らなかった。
政策は正しくとも、熱がなかった。
「……そういえば前に会った後少し調べたけど、クラウディウスって政治家だったわよね?ローマ元老院で演説をしたりしてた?」
「君は、私を誰だと思っているのだ?」
クラウディウスは胸を張った。
「私は、議員達に嘲られながらも、その拙い演説と知識で元老院に席を有していた男。アテネの雄弁家たちの言葉を学び、キケロの書を丸暗記し、奴隷たちに議論の訓練をさせていた」
「でも、メッサリナやアグリッピナといった奥さんに振り回されて、挙句の果てにその奥さんに毒殺されて、同じ時代の人からはダメな政治家と言われていたんじゃなかったの?」
「……。その通りだ。否定はできない……」
いささか苦虫を噛み潰したような表情をしつつも、クラウディウスは真摯に演説のレクチャーを申し入れた。
「だが、そんな私でも知る限りの優れた演説家たちの名演説について語ってやれるが、どうする?」
―そういえば、クラウディウスってもともと歴史学者だったのよね。それに、政治家にもなっていない私が、詳しい事情も知らないのにダメ政治家というのもおかしいしいわね。それこそデモス党の連中と同じになっちゃう。―
そう思い直したデネブは、笑顔を浮かべうなずいた。
「では、お願いするわ。クラウディウス。・・・・・・それにしても、ローマ皇帝が演説の家庭教師ね。ふふふ、なんだかおかしい」
「「皇帝」と聞くと何やら僭主のような響きがあるな。私は僭主ではない。元老院を尊重するローマ第一の市民で、市民の擁護者なのだが…。まあ、いい。教師にはなってやろう」
気を取り直すように手を叩くと、クラウディウスは冗談めかして話を始めた。
「では、フォスター。まずはアテネのデモステネスから始めるとしよう。舌足らずを克服するため、彼は石を口に含んで波打ち際で演説を繰り返したと言われている。君もやってみるか?」
「遠慮しとくわ。それと、今度からフォスターじゃなくて、デネブって呼んで。その方が気楽だわ」
くすくすと笑いながら、デネブは肩の力を抜いた。
その夜の夢は、静かで、そして奇妙に心があたたかくなる夢だった。
彼女はまだ迷っていたが、確かに何かが変わり始めていた。
すると、彼女の意識はまたしても、あの静謐な夢の中へと導かれていく。
気づくと、彼女は再びあの庭園にいた。
遠くにはやはり同じ樹々、空には雲ひとつない青が広がっている。
そして、石のベンチには、例の男――クラウディウスが何か思索に耽っているような顔つきをして座っていた。
「また会ったわね」
デネブが声をかけると、クラウディウスは顔を上げ、うっすら笑みを浮かべた。
「おお、フォスターか。ずいぶんと浮かぬ顔だな。何かでうまくいかなかったという顔付きだ。」
「……図星よ。演説しても手ごたえがないし、誰の心にも届かない。やっぱり、私は政治家に向いてないのかも」
クラウディウスは小さく唸るようにしてから、身を乗り出すように言った。
「ほう、フォスターよ、君は政治家なのか…。ならば聞くが、おぬしは何を語った? どんな言葉で民に訴えた?」
「理屈よ。政策の矛盾や、制度の欠陥について。私は、正しいことは言えていた。でも、伝えることができなかった」
「ふむ、理論は――か」
クラウディウスはゆっくりと天を仰いだ。
「儂がいたローマも、民の心は理屈では動かなかった。アグリッパの演説に始まり、キケロ、――彼らは皆、言葉に“炎”を宿していた」
「“炎”?」
「人の心に火をつける言葉だ。単なる情報ではない。そこには、聞く者が自分のこととして感じられる“物語”と、“誇り”と、“恐れ”がある。理屈は後からついてくる」
デネブはしばし黙った。
確かに、演説が終わった後に何も残らなかった。
政策は正しくとも、熱がなかった。
「……そういえば前に会った後少し調べたけど、クラウディウスって政治家だったわよね?ローマ元老院で演説をしたりしてた?」
「君は、私を誰だと思っているのだ?」
クラウディウスは胸を張った。
「私は、議員達に嘲られながらも、その拙い演説と知識で元老院に席を有していた男。アテネの雄弁家たちの言葉を学び、キケロの書を丸暗記し、奴隷たちに議論の訓練をさせていた」
「でも、メッサリナやアグリッピナといった奥さんに振り回されて、挙句の果てにその奥さんに毒殺されて、同じ時代の人からはダメな政治家と言われていたんじゃなかったの?」
「……。その通りだ。否定はできない……」
いささか苦虫を噛み潰したような表情をしつつも、クラウディウスは真摯に演説のレクチャーを申し入れた。
「だが、そんな私でも知る限りの優れた演説家たちの名演説について語ってやれるが、どうする?」
―そういえば、クラウディウスってもともと歴史学者だったのよね。それに、政治家にもなっていない私が、詳しい事情も知らないのにダメ政治家というのもおかしいしいわね。それこそデモス党の連中と同じになっちゃう。―
そう思い直したデネブは、笑顔を浮かべうなずいた。
「では、お願いするわ。クラウディウス。・・・・・・それにしても、ローマ皇帝が演説の家庭教師ね。ふふふ、なんだかおかしい」
「「皇帝」と聞くと何やら僭主のような響きがあるな。私は僭主ではない。元老院を尊重するローマ第一の市民で、市民の擁護者なのだが…。まあ、いい。教師にはなってやろう」
気を取り直すように手を叩くと、クラウディウスは冗談めかして話を始めた。
「では、フォスター。まずはアテネのデモステネスから始めるとしよう。舌足らずを克服するため、彼は石を口に含んで波打ち際で演説を繰り返したと言われている。君もやってみるか?」
「遠慮しとくわ。それと、今度からフォスターじゃなくて、デネブって呼んで。その方が気楽だわ」
くすくすと笑いながら、デネブは肩の力を抜いた。
その夜の夢は、静かで、そして奇妙に心があたたかくなる夢だった。
彼女はまだ迷っていたが、確かに何かが変わり始めていた。
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