天使、夕凪を歌う

如月 神流

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一章「伯爵令嬢と海賊船」

一話「恋人たちのプレリュード」

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 月が微笑み始めた浜辺――。寂々と澄み渡った夜に包まれるそこは、月の魔力で昼間とは全く別の顔を見せる。ただ打ち寄せる波の音のみが響いているだけだというのにそれはまるで計算されたような耳触りの良い調べとなり、淡い光に浮かび上がった浜辺は幻想的な雰囲気すら備えていた。夢か現か、進めば進むほどに別の世界へと誘われるような錯覚を覚える。そんな中を、少女アイリーンは足早に歩いていた。
 今は春の終わり、初夏に差し掛かろうとしている頃だが、彼女は頭からすっぽりと厚手のショールを被っている。見る者がいたならば、さぞ異様な姿に映ったことだろう。何かを警戒しているのか、弱々しくも芯の通った翡翠の瞳が忙しなく辺りを確認している。浜辺を歩くのに適した靴など持っていなかったため、不安定な足元はそんな彼女の足取りを邪魔した。しかし、何度砂に足を取られ転びそうになろうとも、それでも彼女には先を急がねばならない理由があったのだった。誰にもその素性を知られてはならないが、闘志の如く携えた意志は揺らぐことを知らなかった。
 だが、いくら目立つな見つかるなと自分に言い聞かせたところで、傍から見れば自分が明らかに不審人物であろうことは彼女自身が良く分かっていた。彼女が身に付けている服こそが忍ぶには不向きだからだ。一応はなるべく地味な服をと選んできたるもりだったが、色は地味でもその見るからに上質そうな生地が見事に彼女の身分を物語ってしまっている。しかし、それでも彼女は先を急ぐのだった。
 アイリーンがひたすらに進んだ浜辺の先、切り立った岩の隙間をくぐるとひっそり佇む入り江があった。ここも柔らかな光に包まれ、何とも神秘的な雰囲気を備えている。彼女は、一度足を止めて小さく息をついた。緊張で早まった鼓動を整えながら、被っていたショールを外す。ふわりと広がった栗色の神は熱気を帯び、アイリーンは鬱陶しげに頭を振った。ここまで来れば大丈夫。ここが、彼女の目的地であった。
「アイリーン」
 ふと、前方から男性と思われる声で名を呼ばれた。弾かれたように顔を上げれば、一人の男が立っているのが目に入る。彼はアイリーンが慣れ親しんだ人物で、彼女がここへ来た目的そのものでもあった。
「フランク!」
 アイリーンは、嬉しそうに声を輝かせて男のもとへと駆けだした。フランクと呼ばれた男は、それを腕を広げて抱きとめる。半ば飛びつくようなその力を利用してくるりと一回転すると、二人はお互いの存在を確かめるように見つめ合った。
 久々の再会だからか、喜びに染まるフランクの表情はいつにも増して魅力的だ。青く透き通る瞳は愛おしそうにアイリーンを見つめ、癖のない金髪は月の光を受けて輝いている。容姿に全く自身のないアイリーンにとって、フランクが何故自分などに興味を持ったのかが未だに不思議だ。それほどに、彼は美男子と呼べる容姿をしていた。――釣り合わないのは、容姿だけではないのだが。
 しばらく二人でうっとりと見つめ合っていると、ふとアイリーンが身を離した。先程の様子とは打って変わって、黙ったまま目を伏せる。その瞳は、悲しそうに揺らいでいた。
「アイリーン? どうかしたの?」
 フランクも、急に黙り込んだ恋人の異変に気付いて首を傾げる。アイリーンは、フランクを見つめると、こう切り出した。
「フランク……。私、貴方に言わなければならないことがあるの」
 自分の恋人から、思い詰めたような表情でこんなことを言われたら誰だって不安になる。フランクも、怪訝そうに眉をひそめてアイリーンを見つめ返した。
「何か……よくないことかい?」
 その言葉にアイリーンは一度フランクから目を逸らしたが、覚悟を決めたように再び視線を彼に戻してこう告げた。 
「お父様がね、私に……縁談をもちかけてきたの」
 そう、アイリーンは縁談が来るような家柄の娘――即ち、貴族であった。
 この町、ヴェルトラードを治める領主の名は、ジェフリー=ジョエルといった。身分は伯爵。アイリーンはそのジョエル伯爵の次女で、歳は今年の秋で十七となる。伯爵家ともなれば、年頃になった息女に縁談の話が舞い込んでくるのは当然のことだ。むしろ、十七という年齢では遅いくらいである。しかし、ジェフリーには子息がおらず、年齢的に見た長女も愛人の娘。正妻の娘であるアイリーンがいる限り愛人の娘の方には相続権がないため、次期領主を望めない次男の令息などからはまだまだ引く手数多なのであった。
 アイリーンに許嫁や婚約中の恋人がいれば話は違ってくるが、それには相手の身分が貴族であることが絶対条件。この世界の貴族社会において、家柄の優劣というものは非常に重要な意味を持つからだった。その優劣ひとつが、その者の一生の生き方はおろか価値まで決めてしまう。そういう世界だった。もちろん、身分違いの恋など論外。身分違いの相手との交際が発覚し、身分の低い方の相手が突然行方不明になる――などという話もよく聞く話だ。――そう、アイリーンとフランクが、まさにそれだった。だから二人はあえて夜中という時間帯を選び、わざわざこんな人気のない場所で逢瀬を重ねているというわけだ。
 フランクは、町で一番と評判の硝子職人の弟子で、アイリーンの家にも時々業者として出入りしていた男だった。そこで彼はアイリーンを見初めたという。しかし、まだ一人前とすら認めてもらえていない彼が名立たるアイリーンの求婚者たちと張り合えるはずもなく、それはもし彼が一人前の職人であったとしても覆らない宿命だ。職人と貴族では世界が違う。身分違いの相手に恋心を抱くことこそが、貴族の世界では罪になるのだから仕方がなかった。
 どうにも出来ない悲しみからか、アイリーンは自嘲めいた笑みを漏らす。
「こんな女でも……欲しがる男はいるものね」
 そう項垂れる彼女を抱き寄せ、フランクは首を振った。
「アイリーン……謙虚なのが君の素晴らしいところだけど、そんな風に自分を卑下するものじゃないよ。僕はこんなにも君を思っているというのに、僕が、君を欲していないとでも?」
 アイリーンも、その言葉にいいえとしきりに首を振った。
「私は貴方を信じているわ! でも……縁談を承知しなければ修道院に入れるって、お父様が……」
 恐らく、家にとって条件の良い縁談が来たのだろう。修道院に入ることでその運命から逃れられるというのならそうしてもいいのだが、実の娘であるアイリーンが思うに、それはない。終身的に入るわけではなく、花嫁修業などとこじつけられて頭を冷やさせるのが目的なのだろうから。戻ればまた同じことの繰り返し。いや、繰り返すどころか戻った時にはもう縁談が成立してしまっているかもしれないのだ。親とはいえ、あたりまえのように生き方を押し付けられるなんて――。アイリーンにとっては、縁談の事実よりもそちらの方が何より嫌なものだった。
 アイリーンは、何とかならないものかともう一度打開の手立てを思案する。しかし、ふとフランクの口から告げられた言葉に、その思考は中断させられたのだった。
「実はその話……僕も知っているんだ……」
「え……?」
 思いもしなかった告白に、アイリーンは眉を寄せてフランクを見る。彼の顔は、言いにくそうに顰められていた。
「とある貴族の家に納品に行った時……ジョエル伯爵のご令嬢が、結婚するって……」
 そう言って、彼はアイリーンから視線を逸らす。
「そう……なの……」
 アイリーンはそう呟いて目を伏せた。
「もう、広まっているのね……」
 これは、いよいよ逃げられない――。彼女は悔しさに唇を噛んだ。
「お父様が本気なら、私にはどうしようも……」
 言って、自分の手を握り締めるが、その手は微かに震えていた。
――と、フランクが突然アイリーンの手を取る。驚いてアイリーンが彼を見やると、彼は何か考えるように彼女を見つめていた。きょとんとしてアイリーンもフランクを見つめ返せば、彼は居住まいを正して真剣な眼差しで口を開いたのだった。
「アイリーン。僕は、君の求婚者として名乗り出られる身分じゃない。それは僕もよく分かってる。――でも、君と離れるのは死んだって嫌なんだ、分かるだろ?」
 いつにも増して真摯な口調と、手を握りしめてくる汗ばんだ手のひら。彼が緊張しているであろうことが、嫌でも伝わって来る。一体何を言われるのだろうかとアイリーンが黙って彼を見つめていると、フランクはごくりと唾を飲み込んで思い切ったように告げた。
「だから――僕と、遠くの町へ……行かないか? 二人で、僕らを誰も知らない町へ」
「フランク……!!」
 ひゅっと息を飲んで、アイリーンは目を見開く。
「嫌……かな?」
 フランクが照れたように問うてくるが、嫌なはずがない。アイリーンは嬉しさのあまり顔を綻ばせ、何度も何度も首を振っていた。
「いいえ……いいえ! ――行くわ! フランク、私を一緒に連れて行って!」
 これで、自分の理不尽な境遇から抜け出せるかもしれない。そして、何より愛する恋人と一緒になれる。アイリーンの心は今や喜びと期待に満ちていた。しかし、この時はアイリーンも知らなかったのだ。この一世一代の約束が、後の自分の運命を大きく変えることになるきっかけだったとは……。
 月明かりのような淡い期待を込めて、二人は固く抱き合った。空で、月だけが笑っている。彼女が後にこのことを思い出すとき、その胸に抱いているのは希望か、絶望か。それはもちろん神のみぞ知ることであろう――。
 
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