天使、夕凪を歌う

如月 神流

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一章「伯爵令嬢と海賊船」

二話「貴族の誇りと海賊と」

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 朝――といっても、太陽がもう少しで真上に差し掛かろうという時間だ。ヴェルトラードの現領主であるジョエル伯爵の邸宅に、不釣り合いな男が一人来ていた。この立派な邸宅には些か相応しくない服装で、少々げんなりとした表情を浮かべて立っている彼。名を、スコット=ヴェルフレムといった。
 彼は、邸宅の主ジェフリーの直々の招待を受けてここへとやってきたわけだが、これまでにも何度か同じように招待されたことがある。毎度毎度、家に入るなり出迎えるのは無愛想なメイドで、同じ顔のところを見ると一番口が堅く信頼されている使用人なのだろう。人目をはばかるように寄こされた迎えの馬車といい、その後に通された裏口といい、歓迎されていないのは明白だ。事実、現在この書斎らしき部屋で重厚な机を前にいるジェフリーは、入口に背を向けるように座っていて声をかけるどころかスコットの方を見ようともしなかった。
 寝ているのか、そもそも不在なのか。そう思わせる沈黙ぶりだったが、耳を澄ませていれば本のページをめくる音が時々微かに聞こえる。どうやら起きているし、ちゃんとそこにいるらしい。机を挟んで二人、何とも居心地の悪い沈黙だけが流れていた。
 この部屋に案内されてから、かれこれ十五分くらいはこうしているだろうか。だが、素知らぬ顔で読書を続けるジェフリーを、スコットは急かすでも咎めるでもなく黙って待った。ジェフリーがこの手の迎え方をするのは、何もこれが初めてというわけではないからだ。急かせば咎められるし、咎めれば無視をされる――。スコットが彼と出逢ってからというもの、歓迎の意志を示されたことなど一度たりともない。だから、スコットは経験上無駄だと知っていたのだった。
 だが、スコットとて人間だ。沈黙したまま何分間も放置されれば流石に暇を持て余すというもの。この状況では体を動かす事も出来ないし、人払いをされた空間では世間話をする相手もいない。スコットの思考は、必然的に別の方向へと向けられることとなった。
 例えば、重い空気しか流れていないこの部屋のことや、ジェフリー自身のことなど。伯爵との面会では大体この部屋に通されるが、いつも短時間な上に事務的な内容のやりとりしかしないために普段ならば会話内容以外に興味を抱くこともなかった。しかし、スコットのような身分の者には貴族にお目にかかるどころかこのような邸宅に招かれることも稀なことだ。今のように持てあます時間があれば興味の矛先などいくらでも存在する。ジェフリー……は、椅子の背もたれによって横顔すら見えないため、スコットは唯一自由である視線を巡らせてそれとなく部屋の中を観察してみることにした。
 明るく清潔な部屋だが、雰囲気からして全くすがすがしくも何ともない。いるのはスコットとジェフリーの二人のみで、執事などの使用人もいないというのは伯爵という身分を考えれば少々不用心ではなかろうか。部屋の奥にはスコットから見て正面の壁に大きな窓があり、そこから差し込む朝日に抱かれて重厚な造りの書斎机が堂々と鎮座している。もちろんジェフリーはその机に座っているわけだが、彼の纏う雰囲気は光に包まれてなお全く明るく見えないから不思議だ。むしろ照らされたことにより荘厳さが加わったような気さえした。
 机の周りには同じような造りをした本棚が机を囲むように置いてあり、中には大量の本。足元には毛足の長い豪奢な絨毯が敷かれ、それは無駄に豪華な部屋の調度品たちと相俟ってここがまさに伯爵邸であるという品格を醸し出しているようだった。
 他の部屋もやはり同じように凝られた部屋ばかりなのだろうか……と、そんなどうでもいいとすら言える興味まで湧いてきた頃、ふいにジェフリーが読書をやめて振り返った。スコットは、慌てて崩れてきていた姿勢を正す。これでやっと話を始められると、そう思いきや――。
「お前は本当にぶれることを知らないな」
 スコットを見るなり、ジェフリーはその意思の強そうな太い眉をあからさまにひそめてきたのだった。
「……と、申しますと……?」
 突然の言葉に面喰ったスコットは曖昧な笑みを浮かべて問い返す。
 スコットとて善人ではないが、今はジェフリーに呼びつけられてわざわざここへと来ているのだ。呼びつけて待たせた上に開口一番その台詞とは……この男もなかなかに恐れ入る性格をしている。
 しかしそんなことはお構いなしに、ジェフリーは説明してやらなければそんなことも理解出来ないのかと言わんばかりの様子でこう答えた。
「私が何のためにお前をこの家に出入りさせていると思っている? いくらお前が肩書を持たない気楽な身でも、ここは伯爵邸だ。毎回毎回……もう少し考えてから来い」
 何とまあ上から見下した体の台詞であろうか。いくら身分が違えど一応二人の立場を考えるとそれほど差はなく、今はむしろ対等だというのに。
「ああ……そういうことですか」
 呆れを通り越して最早笑いたくなってくるが、それを薄く笑みを浮かべる程度に留めスコットは代わりに優雅に低頭して見せた。
「私なりの正装を選んできたつもりでしたが、お気に召さないとあればそれは大変な失礼を致しました」
 と、いっても、今のスコットの服装も本人としてみれば至極まともなものであったが。生成りのシャツに濃い茶のズボン、金の刺繍が施された色褪せたような赤色の上着。別に派手な服装ではない。目を引くといえば、真紅の腰布くらいだった。下町ならばこれでも十分溶け込めるであろう服装だが、スコットがここにいることこそが、そもそも異様――場違いなだけである。それでも、ジェフリーにしてみれば普段着にも劣るものといえるもの。ジェフリーも、指摘しておいても一応は理解してくれてはいるのだろう。溜め息には諦めも混ざっているようだった。
「お前に正装など期待するか。気に入らないのは、お前のその人を舐めたような態度と笑い顔だ」
 ジェフリーは、ふんと鼻を鳴らして吐き捨てる。そして、椅子の背もたれへと寄りかかると溜め息をついた。
「やはり、お前たちとは相容れぬものなのかな。それとも単にお前がふてぶてしいだけか? お前に目を付けたのが誤りだったというのならば、滑稽だ。この私も耄碌したものだな」
 目を付けた――。そう、ジェフリーの言うようにスコットは何の地位も肩書きも持たない。では、何故そんなスコットが貴族の彼と言葉を交わせる状況にまでなっているのであろうか。それは、二人がとある契約関係にあるからだった。
 ジェフリーは、この町ヴェルトラードの領主である。この町は代々港町として栄えてきた町で、彼の先祖が爵位を頂いてから今まで当主が貴族の義務として守り続けてきた土地だ。それは、この現領主ジェフリー=ジョエルにとっても同じこと。彼にとっても、この町は守らねばならない大切な存在であった。
 しかし、最近になってこのヴェルトラードはとある脅威に晒されるようになっていた。――いや、この町だけではない。この町と同じような規模の町全てに言えることだ。ヴェルトラードではまだ問題の提起だけで済んでおり実害は出ていないが、国全体で見ればその被害は酷いもの。こういった"小規模でそれなりに豊か"という肩書の町が次々と襲撃を受けるという事件が、前にもまして頻発し始めたのだった。しかも、最近になって突然。
 ただ、そうなった原因については、各領主たちも理解していた。隣国との仲の悪化に伴い国が導入した対策の一環、私掠船である。私掠船とは簡単に言えば国から許可を得て、敵対する国の商船などを襲って掠奪する船のことだ。法に適っているはずのそれが何故原因になるのかというと、その襲撃事件の犯人が同じ海をゆく無法者……海賊であるからだった。
 私掠船も、対象の制限はあれど船からの掠奪行為に及ぶため、やっていることはそこらの海賊と大差はない。だが、扱いは一応海軍の下っ端ということになるので、色々と海賊にはない制限や決まりがあったり必要とあれば戦力として戦争に駆り出されたりすることもあった。海賊たちが気に入らないのは、どうやらその軍に籍を置く肩書きらしい。自由を謳う海賊たちにとって、私掠船は軍に尻尾を振った犬。それも軍の後押しがなければ何もできない臆病犬となるらしい。そんなものに我が物顔で獲物を掠め取られるなど、煩わしいことでしかない……というか、むしろ屈辱的なことであると捉えるのだった。
 スコットは、そういった海賊たちから町を守る立場にいた。相手は法の通じない無法者。目には目をという言葉があるが、スコットとて声を大にして明言できるような存在では決してない。むしろ、誰よりも彼らに近い存在だ。
「仕方ないですよ」
 と、スコットは薄く笑みを浮かべる。
「今この町を危険に曝しているのは、言うなれば私どもの同胞……。いくら話が出来るといっても、結局は私も同じ海の無法者です。伯爵様と意気投合するのは、いささか難しいのかと」
 そう、スコットもそこらを荒らしまわっている荒くれたちの同胞、海賊だった。
「自由を売りにしている我々海賊の中にも、二通りの人種がいます。ひとつは、掠奪、殺戮などしか能のない危険人種。もうひとつは、それよりも夢や冒険、一攫千金に活動の重きを置く……言わば冒険家に近い存在ですか。法に縛られない我々ですから明確な違いはないですし、どちらが良いも悪いもないのですが……」
 そう言いかけたスコットが、一度口をつぐむ。先の言葉を探るような沈黙ではあったが、その唇からは束の間笑みが消えた。思わず、その心の内が漏れ出たように――。ジェフリーが黙って聞いているのをちらりと目で窺うと、スコットは再び不敵な笑みを浮かべた。
「獲物を掠め取られたからといって近隣の町などに当たり散らすなど、伯爵様に言わせればいかにも海賊らしい……ですかね?」
 言って、ついでにおどけたように肩も竦めてみたが、その言葉はまるで木霊のようにスコットの内へと撥ね返って反響した。そう、同胞なのだ。考えは違っても、同じ――。払拭できない後味の悪さに、スコットは内心舌打ちしていた。
 そのスコットの内を知ってか知らずか、伯爵も眉間の皺を更に濃く刻んで頷く。
「そうだな。私も、こんな状況でなければお前たちと手など取らん。……だが、私は領主だ。この地と、領民たちの平和を守る義務がある。そう、異常なのだ。お前との契約も、この国も……今の状況、それ自体がな」
 襲撃事件を起こす海賊たちは、大海に名を馳せているような大海賊ではなくそこらにいるありふれた者たち。軍の下っ端である私掠船は、軍や国の援助を元にある程度武装をしていた。大海賊ならともかくとして、武力に乏しいその辺の海賊が手を出せば当然の如く返り討ちに遭う可能性がある。それでもし捕まりでもすれば、その末路は役割に関係なく否応なしの極刑だ。もどかしい怒りは海賊たちの内に燻り、それは別の方向へと向けられる。自分たちが返り討ちに遭うことのない、弱者へと――。
 軍も、この状況に気付いていないわけではない。しかし、対策を打つ余裕がないのだ。急に悪くなった国同士の情勢のせいで、私掠船だの何だのとてんてこ舞い。ただでさえ人が足りずに慌ただしさの極みだというのに、こんな小さな町のいつ来るとも分からない危機に人員を割いている場合ではないだろう。
 ジェフリーは、深い溜め息をついた。
「国王陛下にとっては、今の隣国との情勢こそ大事……。いち領主の意見など、取るに足らないこととなっておられるのだろう。こんな町の領主の私兵など、高が知れている。治安を守る程度なら役に立っても、海からの侵略者となれば……それはもう軍隊規模の領域だ」
 追い詰められた領主たちは、危険な賭けに出た。その燻っている海賊たちに両者に利があるような契約を持ち掛け、逆に利用しようと考えたのである。それが、スコットとジェフリーが結んだ契約と同じものだ。その契約とは、拠点と物資の援助を与える代わりに他の海賊たちへの抑止力となってもらうというもの。一歩間違えればとんでもないことになる暴挙とも言える手段だったが、仕方がない。それほどに、理不尽に繰り返される襲撃は領主たちを震え上がらせていたのだから。
 領主から持ち掛けられた契約は海賊たちにとっても困惑するもので、最初こそ警戒され受け入れる海賊も少なかった。しかし、契約自体は悪い内容ではない。時を重ねることで上手く成立する契約も出てきた。苦労無く拠点と補給の当てが得られ、更には限度はあるとはいえ自分たちの悪行にも目を瞑ってもらえるのだから当然といえば当然かもしれない。
 と、なればそこは海賊、話が広まるのも早い。その情報は酒場を通してみるみる広まってゆき、今では何と航海の足がかりとして進んで契約先を探す海賊も現れるほどに定着した。スコットの言ったように掠奪や殺戮だけを目的とする海賊ならば事態を悪化させるだけだったが、後者の海賊であれば義理も人情も通じるというわけだ。やがては各町の酒場を拠点とし契約者同士を結び付ける手助けをする仲介役まで現れることとなり、もはや中小規模の町では常識とも言える暗黙の仕組みとなったのである。
 スコットはこの仕組みが定着したために現れた、自ら契約を希望する海賊の頭の一人だった。両者の利害は一致しており、だからこそ対等な立場であるとスコットは思っているのだが……まあ、ジェフリーは認めようとしないだろう。しかし、彼の町を守らんとするその気持ちは本物だ。
「統治者が藁などに縋って何が守れる。私には守るべき土地も、領民もある。今更、なりふりなど構っていられるものか」
 いつも通り冷静な口調を保とうとはしているものの、そう呟いたジェフリーの語尾にはどことなく力が入っていた。
 彼のような誇り高い貴族にとって、違法な輩を頼らねばならないことがどれ程の苦渋か。しかしその貴族としての誇りこそが、その契約を断行させたのであった。その性格はともかくとして、領主としてならば彼は信頼するに足る人物であろう。富を持つことは人間を狂わせる原因にもなる。財に溺れ財に沈んでゆく貴族も数多くいる中、それに驕らず真摯に領地を守ろうとするその姿勢は領民からの確かな信頼も勝ち得ていた。スコットは、ジェフリーのそういうところを評価して契約を申し出たのだった。
「私ども海賊にも、言わずとも守る暗黙の決まりが存在します」
 スコットは、そう言ってジェフリーを見た。
「本来、海賊は掟などの決まりに厳しい集団ですからね。法で裁けない分、それを破った時裁きを下すのも……我々、同胞なんですよ」
 スコットも、ルールを破って好き勝手する面汚したちを面白く思ってなどいない。そう言ったスコットの顔には笑みが浮かびはしていたものの、その目には鋭い眼光が宿っていた。
 ジェフリーもその光に気付いているのか、今はスコットを邪険にせず言葉を交わす。先程と同じように、彼はそうだなと静かに頷いた。
「小規模で豊かな町を狙うというのは、いかにも無法者らしいが……お前のその海賊としての誇りは、私も評価しよう。法を無視する限り、賛同はしないがな。理解も示せん」
 そして、椅子の背もたれに寄りかかると息を吐いた。
「いや……法を破るというならば、お前とこうして話をしている私も同じか。全く、本当に争いというものは碌な事態を招かん」
 そう言って、ジェフリーは額を抑えて目を閉じる。スコットが同意すると、彼は疲れたように再び溜め息をついたのだった。
 溜め息をつくと幸せが逃げるとスコットも何処かで聞いたことがあるが、この伯爵はどれ程自分の幸せというものに重きを置いているのだろうか。状況が状況だからか、会うたび会うたびしかめっ面で彼が本気で笑っているところなど見たことがない。
 スコット自身は国の政治的な問題に口を出すつもりも首を突っ込む気も毛頭ないため、あえて何も言うことはなかった。しかし、貴族というものは何と面倒くさいものなのだろうか。スコットは、俯くと静かに笑みを零した。
 
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