夜に咲く花

増黒 豊

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第八章 戦乱のはじまり

意地と見栄

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 慶応三年、十二月九日、王政復古の大号令の発布。これにより、名実共に二百六十年以上続いた徳川幕府の支配は終わりを迎える。
 政治は、朝廷を中心にしたものに変わった。それにより、幕府の、いや、旧幕府の全ての役職が解かれる。会津藩の京都守護職も、桑名藩の京都所司代も、同じ日に廃止になった。
 新撰組も、新遊撃隊しんゆうげきたいというあたらしい名に変わった。この後、すぐに新撰組(あるいは新撰隊)に名を戻すのだが、この年の間、新撰組はとかく名を変えたり、変えさせられたりしがちであった。おそらく、それほどまでに、新撰組の名は、立場を越えてこの時代の人々に鮮烈な印象を与えていたのであろう。

 その新撰組は、伏見に詰めることになった。不動堂村の新しい屯所が出来上がって、まだ半年ほどのことである。薩摩や長州は、王政復古が成ったとはいえ、徳川家がある限り、再びそこに薩摩や長州に反感を持つ者が集まるであろうことを警戒し、何としても戦に持ち込みたかった。
 そのため、あらゆることをした。江戸では徳川家や徳川に同調する諸藩に対し考えうる限りの嫌がらせをし、ついに、怒りに震えた者が、江戸の薩摩屋敷を焼き討ちにしてしまった。
 薩摩からすれば、好機である。朝廷に背く者を討つとして、戦を仕掛ける大義名分が出来たわけである。
 新撰組は、前将軍の命で、急遽、京の市中に攻め込んで来る者を撃退するよう、伏見に布陣することとなった。
 久二郎は、そのことを、春に告げた。
「少しの間、留守にする」
「戻って、くるのでしょう」
 春は、察しがいい。久二郎の手を、強く握って離さない。
「春、よく聞きなさい」
 久二郎が、その小さな手に、自分のそれを重ねた。
「世は、覆った。徳川幕府も無ければ、京都守護職もない。我々は、そういう意味では、負けたのだ。だから、俺は――」
 春が、ちょっとたじろいでしまうくらい、久二郎の眼が、強くなった。
「――俺たちは、勝ち負けではないもののために、戦おうと思う。勿論、薩摩や長州どもから、政権を奪い返すためでもある。しかし、それは、お上や、局長らの間での話だ」
 久二郎は、少し笑った。春も、つられて同じようにした。
「春。俺は、俺が斬った者が守ってきたものを、守ってゆきたいのだ。分かってくれるか」
 春の眼から、今にも涙がこぼれそうになっている。それを、久二郎は、指でそっと拭ってやった。
「芹沢さんと仲の良かった、平山。池田屋で戦った、過激な考えの浪士ども。それに、山南さん。松原さんに、谷、武田――」
 久二郎は、その続きを言うことができないようだった。
「――樋口さんも」
 春が、代わりに言ってやった。
「そして、瀬尾瞬太郎」
 今度は、久二郎の眼に、涙が溜まっている。
「あらゆる戦いに、あらゆる場所に、俺はいた。そして、眼の前の敵を斬り倒し、ここまで生き延びてきた。しかし、俺が斬った者の中にも、死んでいった者の中にも、誠の心はあったのだ」
 久二郎は、金を、畳の上にばら蒔いた。
「副長が、隊の蓄えを開き、金を皆に配った。おそらく、もう、戻れぬということだ」
「久二郎さん」
「俺は、これから、途方もない戦いの旅に出ることになる。俺が斬った全員分、生きるつもりだ。だから、春、お前も、生きろ。お前がどこにいようとも、必ず、迎えに来る」
 はじめ、そっと。次に、強く。久二郎は、春の薄い肩を抱いた。
「京を離れろ。俺の縁者であると分かれば、薩摩や長州の者どもから、何をされるか分かったものではない。そして、できれば、俺の妹のことを、気にかけてやって欲しい」
「千さん、でしたね。分かりました」
「俺の唯一の肉親であり、そして、俺が好きだった男の愛した女だ」
 春は、答えの代わりに、にっこりと笑った。小さな、白い花が咲いた。
「重ねて、言う。そのようなことは無いが、万一、俺がこの道の先に倒れたとしても、お前には、生きていてほしい。このようにして生きていた男がいたということを、お前が決めた誰かに、伝えてほしい」
 春は、明るく顔を上げた。そうすると、涙が一筋、頬を伝った。
「俺は、ゆく」
 久二郎は、立ち上がった。春も、誘われるようにして、立ち上がった。
 しっかりと、抱き合う。
 いつまでも、いつまでも、こうしていたかった。
 いつまでも、いつまでも。
「では」
 久二郎は、猪熊通松原の借家を後にした。そして、二度と、戻ってくることはなかった。

 久二郎が伏見に着いてから、わずか二日後、事件があった。
 局長近藤勇が、二条城からの帰りに狙撃されたという。狙撃したのは、篠原ら、御陵衛士の残党。
 近藤が二条城に向かうのを、なんでもないことのように一同は見送ったが、それが帰ってきたときは、同行していた島田に支えるのを振りほどくようにしながら、右半身を血に染めていた。血相を変えた土方が、近藤に駆け寄る。
「近藤さん!何があった」
 近藤は、額に汗を浮かべながら、笑った。立ち止まろうとはせず、廊下を歩いている。
「歳。やられたよ」
 そのまま、薪でも放り出すかのように、倒れた。
「山崎を呼べ!」
 鍼医の倅である監察の山崎が、信じられないほどの速さで駆けてきた。医術の心得があるというので、幕府召し抱えの医師から西洋流の外科手当の手解きを受けたりもしていた。
 いかいn山崎が鍼医の倅で、なおかつ西洋流の外科手当の心得を持っていたとしても、局長近藤勇の体内の肩甲骨かいがらぼねに当たって砕けた弾丸を摘出することなど、はじめてである。無論、麻酔もない。近藤は、声一つ立てず、山崎に体内をほじくらせている。恐るべき気力と言ってよい。
 余談であるが、侍とは、意地っ張りなものである。意地と見栄に目鼻をつけたような生き物と言ってよい。美しくあることのために、そして人に恥じぬ自分であるために、彼らは日頃から自らを律し、ときに人を、自らの腹を斬り、そして体内をほじくり回され弾丸を摘出されても、苦痛の声を上げることはない。特に、近藤などは、もともとが正規の武士階級の出ではないだけに、余計に、侍であるのかもしれぬ。
 鉛の破片が、あらかた摘出された。近藤は、大坂城にいる山崎に西洋医術の手解きをした旧幕府の典医にきちんと診てもらうため、下坂することになった。
 このとき、ほとんど起き上がれぬようになっている沖田を、自らの護衛という名目で、大坂に連れて行っている。
 この少し前、沖田は、療養していた近藤の別宅で、白昼、浪士に襲われている。新撰組の一番組組長、鬼と恐れられた沖田は肺を患い、起き上がれぬようになっており、近藤の別宅で寝たきりであるという噂が流れ、その場所がどうも割れたらしい。
 沖田は、息をするたび、自分の中で何者かが土足で暴れているのを感じていた。それは、はじめ、目に見えぬほど小さく、今は、例えようもなく大きく。
 自らの呼吸に合わせて足踏みをすると語り合うことが、寝たきりで暇を持て余しているこの天才の日課になっている。その何者かが、来訪者の存在を告げた。沖田は、枕元に寝かせている白鞘の刀を取り、我ながら悲しくなるほど痩せ細っているくせに、鉛のように重く感じる身体を起こした。
 息を殺そうにも、殺すほど、息をしていないことに気付いた。
 足音。
 聞き覚えのある訛りであったが、それは、沖田の中では、の者によくある訛りではなく、のそれであった。もう、時流は沖田の知らぬところに流れ去ってしまっていて、この見栄っ張りの痩せた男は、ぽつりと一人で置き忘れられたようにしてここに起居している。
 敵。
 多分、生涯で、この愛刀の鯉口を切るのは、最後になるかもしれぬ。と沖田は思った。
 自分の前に立つであろう最後の敵を、焦がれるように待った。
「畳の上でなんて」
 言ったが、声にはならない。ただ、微笑わらうことはできた。
 戦って、戦って、誠の旗の下、死ぬのだ。そう沖田は願っていた。それが、馬鹿な病魔などに取り憑かれ、畳の上で血を吐いている。斬られたわけでもないのに、血を吐いて死ぬなど、沖田にしてみれば、まっぴらごめんだった。
「ここじゃ」
 庭に、足音。
 沖田は、布団から立ち上がった。
 やはり、意地と、見栄である。
 新撰組一番組組長沖田総司が、布団で弱っている所など、見せられるか。
 それだけのことだった。
「やれ、沖田じゃ」
 庭で抜刀する男どもが何人なのか数えられぬほどの目眩に、沖田は襲われた。
 それでも、抜いた刀を、正眼に置いた。その重い刀を握った。刀が、これほど重かったことなどなかった。これでは、まともに振ることもできぬ。やっぱり、自分は、ここで斬られて死ぬのだ。そう思った。
 しかし、一人目の斬撃を、払うことができた。阿呆面をして身体を無遠慮に開く浪士の急所が見えた。
 畳がしなるほどの、踏み込み。
 沖田の腕は、刀ごと蛇のように伸び、貫いたと思ったら、もう手元に引き戻されていた。
「よかった、遊びに来てくれて」
 自らを蝕む闇を、外には出さない。沖田は、このような状態でも、明るい青年だった。
「私を、殺しに来たんでしょう」
 とんとん、と畳を足で鳴らした。
「やれ。奴は、死にかけの病人じゃ」
 浪士の声に、明らかに怖れがあった。斬りかかってきた男の斬撃は、とても緩慢であった。また、畳が鳴る。
 血で遊ぶ、鬼。沖田は、眩暈で揺れる視界の中、正確に、男の急所を突いた。
「退屈をしていたのです。もっと、遊んでいきましょうよ」
 やぶれかぶれで繰り出してくる一人の斬撃をいなし、骨をも断ち斬って背を割ると、一人は逃げ出そうとした。
 とても、澄んだ時間だった。ゆっくりと、楽しむように、慈しむように、敵の背に刀を伸ばし、それを葬った。
 静かになってしまった。どこも斬られてはいないし、死んでもいない。
 しかし、沖田は、斬られた。身体の、どこか大事な部分を。それは喉を伝い、口から鮮やかな血となって噴き出た。畳を濡らす浪士どもの黒っぽい血とは、別のもののようだった。
 畳の目をすぐ前に見ながら、沖田は、それらが混じってゆくのを見ていた。最も愛すべき敵は、敵たりえなかった。最も憎むべき敵が、沖田を屠ろうとしている。
 ――私は、お前には、勝てぬのか。
 言おうとしたが、言葉にはならぬ。さっきと同じように、微笑おうとしたが、それもできぬ。
 ただ、眼を閉じた。

 それ以来、沖田は、全く起き上がることもできぬようになった。近藤の護衛に、といって大坂に行けば、もう二度と前線に復帰することはないということを知っている。いや、誰よりも死に詳しいこの男は、大坂に行かずとも、自分がもう二度と前線に復帰することなどありえぬということを、とっくに知っていた。だから、
「局長を、大坂に移す。お前、その護衛をしろ。まだ、御陵衛士の残党どもが、うろついているかもしれぬのだ」
 と、土方がぶっきらぼうに言ったときも、見栄っぱりの沖田のことを気遣うその優しさに涙を流すことはなく、
「近藤さんも、しょうがないですね」
 と微笑ってやった。
 そして、近藤も沖田も不在のまま、年が明けた。
 慶応四年、一月三日。戊辰戦争最初の戦役、鳥羽伏見の戦いが、はじまった。
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