1 / 7
1
しおりを挟む
青々とした蓮の葉に覆われた不忍池を背景に、ふたりの剣士は、じっと相対していた。
ともに、手にしているのは抜き身の刀だ。無論、明治も十年を過ぎた今の世においては、すでに禁制品となっている。ときは昼過ぎ、ところは上野の公園地だ。それでいて騒ぎにならぬのは、かれらがともに、濃紺の制服を身につけているからに他ならない。決闘の場に現れた場違いなものたちは、怪訝な顔こそ浮かべるが、二人が警官であることを認識すると、深く関わろうとはせず足早に立ち去っていく。──否。場違いなのはむしろ、かれらの方であろう。明治十一年、一八七八年には上野公園はすでに人々のあつまる場となっている。上野戦争で一度は戦地となった上野の山だが、元々が景勝地として有名であった土地である。明治に入り江戸期の禁足令も解かれ、先年には内務卿大久保利道の肝いりで万国博ならぬ内国勧業博覧会の会場ともなった。そしてこの陽天気である。五メートルばかりはなれて殺気を交流させる男らが居なければ、今頃の時刻には遅めの昼飯にありつくべく、池の畔には人の姿があったことだろう。
日常を壊して対峙するふたりの間にある距離は、互いの間合いにあと一歩、といったところである。
「引いては、いただけませんか。捻木警部」
「聞けない相談だね、藤田警部補」
捻木の構えは、正眼。ごくふつうの構えでありながら、どのような切り込みにも対処するという余裕がそこには見て取れる。故に、対峙する藤田は踏み込むにためらっている。
対する藤田の構えは、おなじ正眼に見えてやや左に傾いている。それは、かれが身につけているはずの流派の構えではない。故に、対峙する捻木は出方を決めかねている。
ときは五月、すでに桜は葉桜となり、陽光は初夏の気配をまとっている。対峙する剣士らの肌には汗が浮かび、柄糸をぬらす。だが、どちらも動くことはできない。
動きが生まれたのは、捻木が再び口を開いたときだった。
「動くな、藤田五郎」
鈴を転がしたような、鉄を打つような、奇妙な響きを伴った声が藤田の耳へと届き、声は刹那、藤田を縛る鎖となる。その技がいかなる種類のものであるか、藤田は預かり知らない。二階堂平法にあるという、敵手の刀を膠着さしめる技か、はたまた敵手に暗示をかける忍法の類か。ともかく、常道の技ではあるまい。
だが、声が藤田を縛っていたのは、ほんのわずかのことであった。藤田が動きを止めていると思いこんでいる敵手は、まだ何歩も踏み込んではいない。
「一度見た技が通じると思うか!」
拘束が解けるや、藤田は鬼神丸の銘を持つ愛刀を構え、そのまま駆けた。駆けるとともに、刀身は完全に横倒しとなり、左脇へと引き寄せられる。刺突へと転じる動作である。その所作は、藤田が自分の流派として他言している無外流のものではない。かれが人生の中でもっとも多くの人を斬ったころに身につけた技術だった。
一歩、斜めに構えていた刀身は完全に地面と平行になり、二歩、その切っ先は刺突として敵手の腹に迫り──
「── 動くな、斉藤一」
あと一寸だった。あと一寸、それで鬼神丸は、かれが今までにしてきたのと同じように、敵手の肌を裂き、臓腑を刺し貫き、命を絶つはずだった。
陽光が、葉桜を青々と照らし出している。空は抜けるように青い。あと一寸足らずですべての動作を制止させられた藤田は、なぜかそんなことを今更に認識していた。激しい運動をしていたところから急にすべての動きを封じられた藤田の前進からは一挙に汗が噴き出し、息が細切れになる。
刀を引っ提げた男がゆっくりと近づいてくるのを、固定された視界が捉えている。捉えているのに、動けない。藤田五郎の名を呼ばれたときとは、妖術の効き目は大違いだった。
(一体、どこで)
藤田は、自身が獲物を追うものであると認識していた。ゆえに、自身が得物として追われたと言うことに理解が及ばず、ただ目前に迫る死を前に、走馬燈にも似た異常な回転で、思考が巡る。
「やあ、俺のことを分かったつもりだったようだが──
いかんせん、付け焼き刃の知識じゃあ一寸、俺を殺すには及ばなかったらしいな」
捻木の声も、水底から響くかのごとくに遠い。――否。音だけではない。あらゆるものが、藤田の周りから遠ざかるようであった。思考が、次第に藤田の周囲の現実を浸食し始めているのだ。
ともに、手にしているのは抜き身の刀だ。無論、明治も十年を過ぎた今の世においては、すでに禁制品となっている。ときは昼過ぎ、ところは上野の公園地だ。それでいて騒ぎにならぬのは、かれらがともに、濃紺の制服を身につけているからに他ならない。決闘の場に現れた場違いなものたちは、怪訝な顔こそ浮かべるが、二人が警官であることを認識すると、深く関わろうとはせず足早に立ち去っていく。──否。場違いなのはむしろ、かれらの方であろう。明治十一年、一八七八年には上野公園はすでに人々のあつまる場となっている。上野戦争で一度は戦地となった上野の山だが、元々が景勝地として有名であった土地である。明治に入り江戸期の禁足令も解かれ、先年には内務卿大久保利道の肝いりで万国博ならぬ内国勧業博覧会の会場ともなった。そしてこの陽天気である。五メートルばかりはなれて殺気を交流させる男らが居なければ、今頃の時刻には遅めの昼飯にありつくべく、池の畔には人の姿があったことだろう。
日常を壊して対峙するふたりの間にある距離は、互いの間合いにあと一歩、といったところである。
「引いては、いただけませんか。捻木警部」
「聞けない相談だね、藤田警部補」
捻木の構えは、正眼。ごくふつうの構えでありながら、どのような切り込みにも対処するという余裕がそこには見て取れる。故に、対峙する藤田は踏み込むにためらっている。
対する藤田の構えは、おなじ正眼に見えてやや左に傾いている。それは、かれが身につけているはずの流派の構えではない。故に、対峙する捻木は出方を決めかねている。
ときは五月、すでに桜は葉桜となり、陽光は初夏の気配をまとっている。対峙する剣士らの肌には汗が浮かび、柄糸をぬらす。だが、どちらも動くことはできない。
動きが生まれたのは、捻木が再び口を開いたときだった。
「動くな、藤田五郎」
鈴を転がしたような、鉄を打つような、奇妙な響きを伴った声が藤田の耳へと届き、声は刹那、藤田を縛る鎖となる。その技がいかなる種類のものであるか、藤田は預かり知らない。二階堂平法にあるという、敵手の刀を膠着さしめる技か、はたまた敵手に暗示をかける忍法の類か。ともかく、常道の技ではあるまい。
だが、声が藤田を縛っていたのは、ほんのわずかのことであった。藤田が動きを止めていると思いこんでいる敵手は、まだ何歩も踏み込んではいない。
「一度見た技が通じると思うか!」
拘束が解けるや、藤田は鬼神丸の銘を持つ愛刀を構え、そのまま駆けた。駆けるとともに、刀身は完全に横倒しとなり、左脇へと引き寄せられる。刺突へと転じる動作である。その所作は、藤田が自分の流派として他言している無外流のものではない。かれが人生の中でもっとも多くの人を斬ったころに身につけた技術だった。
一歩、斜めに構えていた刀身は完全に地面と平行になり、二歩、その切っ先は刺突として敵手の腹に迫り──
「── 動くな、斉藤一」
あと一寸だった。あと一寸、それで鬼神丸は、かれが今までにしてきたのと同じように、敵手の肌を裂き、臓腑を刺し貫き、命を絶つはずだった。
陽光が、葉桜を青々と照らし出している。空は抜けるように青い。あと一寸足らずですべての動作を制止させられた藤田は、なぜかそんなことを今更に認識していた。激しい運動をしていたところから急にすべての動きを封じられた藤田の前進からは一挙に汗が噴き出し、息が細切れになる。
刀を引っ提げた男がゆっくりと近づいてくるのを、固定された視界が捉えている。捉えているのに、動けない。藤田五郎の名を呼ばれたときとは、妖術の効き目は大違いだった。
(一体、どこで)
藤田は、自身が獲物を追うものであると認識していた。ゆえに、自身が得物として追われたと言うことに理解が及ばず、ただ目前に迫る死を前に、走馬燈にも似た異常な回転で、思考が巡る。
「やあ、俺のことを分かったつもりだったようだが──
いかんせん、付け焼き刃の知識じゃあ一寸、俺を殺すには及ばなかったらしいな」
捻木の声も、水底から響くかのごとくに遠い。――否。音だけではない。あらゆるものが、藤田の周りから遠ざかるようであった。思考が、次第に藤田の周囲の現実を浸食し始めているのだ。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる