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第二章・馬鹿は死んでも治らない
「今日」の終わりにて
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「傷、全部無くして貰ったから」
少しわざとらしく綺麗になった腕を見せつけてやると、夜狐は少し驚いたような顔をした。
「無くして貰った…って、全部?」
「うん、全部」
首筋や手などの目立つところは勿論、背中や肩などの普段は隠れるところまで。押しつけられたタバコの痕から原因も覚えていないような小さな傷痕に至るまで。
施術はあやめさんの言うとおり、簡単で一瞬で全く痛くないものであった。あやめさんは私の身体の中で、全く傷のついていない部分──具体的に言えば右の二の腕の内側である──に、三センチ平方の湿布のようなものを貼り付けた。
あとは一瞬だ──全身の傷が瞬く間に無くなって、その三センチ平方の部分、そこの肌がひどく黒ずんだ。例えるなら、全身の傷をそこに集結させたかのように。
原理は反転よ、とあやめさんはそれだけ言ったが、私には理解できるようで理解できない話だった。その三センチ四方の黒ずんだ部分は、これまた別の道具…例えるなら永遠に定着する化粧品のようなもので綺麗になった。なるほど確かに一瞬だし、これなら傷の見落としだってないだろう。
勿論だけれど、局所的な火傷の痛みは覚えているし、ヒステリックに叫ぶ母親の声も覚えているし、流れた血の感覚も覚えている。
無くなっただけ。
亡くなっただけ。
何も傷痕は私の存在証明ではないし、脳の海馬であるわけでもないのだから──
当たり前の話だ。
「…いいと思うよ、これで服も選び放題だ」
「うん」
「なぁに、何の話?」
「別に~」
「二人だけの秘密ってこと?やっぱアンタらそういう関係」
「違う」「違うってんだろ!」
重複した声を半笑いで聞き流した羽海さんは、もう、何よ、と頬を膨らませて言いながら同時にまとめ上げていた私の髪をついっと解いた。そのまま私の横に腰掛けたと思ったら、いつの間にか髪はハーフアップに戻っている。なんたる速度。
と、そこに、襖の向こうから何やら人の動くような気配。
「ん、制服できたのかな」
「そうでしょうね。カスミ、私がデザインしたのよ!私が!たった今!ものの数分でね!」
「まともなやつなんだろうな」
「はぁ!?何よ、当然でしょ!疑ってるなら先にアンタが着てみたらいいじゃない!」
「どういう理論だよ!」
流石に私向けに作られた服を百八十センチ相当の男性に着用されるのは困る。つーか着れないだろ。
まずい想像してしまう、夜狐が明らかにサイズの合っていないスカートに足を通している姿を…いやだめだ事案すぎる。そこいらの露出狂よりタチが悪い。
そんな私の今すぐ消し去りたい妄想を横に押し流すように、襖が開いた。
「お待たせ!カスミちゃん、君の制服ができたよ」
店長の腕には、夜狐や羽海さんのものと同じような青い生地の服が大事そうに抱えられている。
はい、どうぞ、と渡されたそれは生地がしっかりしている割に軽く、店長曰く薄いものではあるが守護の呪いがかけられていて、羽海さん曰く通気性もよく、夜狐曰く血などの汚れも落ちやすいらしい。できれば最後のはあまり実感したくないけれど。
「それ、フリーサイズなんだ。持ち主によって服の大きさが変わるから、ブカブカとかきついとか、そういうことはないと思うけれど、もし何かあったら遠慮なく言ってね」
わぁ。すごい。原理は聞かないことにしよう。
まじまじと制服をひっくり返したり灯りにすかしてみたりする私をみて少し微笑んだ後、店長はさらに袂からいろいろなものを出し始めた。
「それじゃあ、まずはこれね。銃のホルダー。これを制服の腰──ベルト部分につければ持ち運びも楽だし安全面もバッチリだと思うよ」
「あ、ありがとうございま──」
「それからこれは銃弾の予備とか、恨みの核をしまっておく時のためのポーチ。一応これも腰にさせるようになってるからね」
「ありがとうござ」
「こっちは靴ね。一応普通の靴とかよりも動きやすいように作っているんだけど、使いづらかったら、まあデザインは悪くないと思ってるから普段使い用とかよそ行き用にしてくれると嬉しいな」
「靴を袂から…?」
「こっちはみかんのお裾分け。みかん好き?」
「好きです。ありが」
「よかった!じゃあこれは、連絡用の携帯。現世でいうスマートフォンと同等の機能を持ってるから、こっちも普段使いしてくれて全然おっけーだよ」
「まだあった…」
みかんで終わりかと思ってた。
「それ、本当に普段使い用にして大丈夫だよ。店長連絡用とか言っておいて結局連絡事項は全部呪具で対応するから。多分スマホの使い方わかってない」
夜狐がこっそり耳打ちをしてきた。店長、あなたがまるで気のいいおじいちゃんに思えてならない。
「それと、これはぼくからの贈り物。入職おめでとう」
そう言っておそらく最後のものを取り出した店長は、そっと私の抱える荷物の上にそれを置いた。
「…ネクタイ?」
「あまり凝ったデザインじゃなくてごめんね。シンプルイズベストかと思って」
照れくさそうに頭を掻く店長。そのネクタイは確かに、そんなに特別なものではなさそうな、黒一色のシンプルなものだった。…とは言ってもこれまでのことを鑑みるに、何かしらの呪いはかけられていそうなものだけど。
純粋に嬉しかった。
理由のあるプレゼントというのは、これまであまり受け取ったことがないものだったから。
その理由が私への祝辞だというのなら、尚更。
「…ありがとうございます、本当に」
「どういたしまして。じゃあ最後に、これ」
ネクタイの上に、さらにまた別の何かが置かれた。
封筒だ。
そして、それなりに厚みがある。
今片方でも腕を離せば、腕に抱えた大量の荷物、というか頂いたものは全て雪崩のように崩れ落ちていくだろう。つまり、私にこの封筒の中身を確認する術はない。
「あの、これは」
「それはぼくからの個人的なプレゼント第二弾だよ」
「第二弾…」
そう呟いて気づく。一旦荷物を下ろせばいい。
こんな簡単なことを見落としていた自分に多少の恥ずかしさを覚えつつ、私はつい今し方まで座っていたソファに一旦荷物を下ろし、封筒を開けてみることにした。見た目は、特に何の変哲もない、普通の封筒だ。
さて。ネクタイの次は何をくださるのか。正直、もうこれ以上はありがたさと申し訳なさの競り合いが始まるあたりまで来ている。これからたくさん働いて、店長に恩を返さなくては。
紙が身をよじる音とともに中身が私と目を合わす。
封筒から出てきたのは万札の束だった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「受け取れません」
諭吉からの視線に耐えきれず、札束を封筒に再び仕舞い込んだ。
この厚みなら、相当な額がある。私の一ヶ月のバイト代が大体これよりも半分薄いぐらいだったから、おそらく十万円…いいや、十五万はくだらない。
受け取れるはずがない。
「いやいや、カスミちゃん、受け取っておいた方がいいって」
「でっ、でも…」
「僕もここに入った時もらったけどね。押し返すと倍になって帰ってくるよ」
夜狐が遠い目をして言った。
「ふっふっふ。素直に受け取らないなら次は封筒じゃあ済まさないよ…」
「…と…言いますと?」
「金庫!!」
「ありがたく受け取らせて頂きます」
倍どころではなかった。
「現実的な話、ただの就職ってわけではないしね。だってカスミ、あなた、ここで働くだけが生活の全てじゃあないんだし。普段の生活で嫌でもお金は必要になるもの。今カスミは無一文なのよ?」
たしかに!
言われてみれば、私はお金を持っていないし、六文銭なんてものもないし。現世味の溢れるあの世では、経済も回っているのだろう。
それならむしろ、貰わないという選択肢は取れないのか。
「まっ、早めのボーナスだと思っておいてよ。それか親からの仕送り。そもそもこれから生活体制を整えるって言ったらその額でも足りないくらいでしょう、若い女の子だし…まあ、今月はお給料も早めに渡すよ、ねっ」
「そうよカスミ、あとで私のお下がりでよければ服、あげるわ。少しは助かるでしょ?」
「ご飯ぐらいなら僕用意してあげるよ。どうせ作り置きとかもしてるし」
「あ、ありがとう…」
むしろそこまでしてもらったら、このお金の使い道は無くなる気もする。
…なんか、なんていうか、これは。
こそばゆいというか、そういうのとはまたちょっと違うような。
ちょっとだけ、憧れていた家族像に、似ている気がした。
「さて。じゃあ今日はカスミちゃんも疲れてるだろうし、式神の儀式とか歓迎会はまた今度にしよう。そろそろ店じまいの時間だし、ちょうどいいよ」
式神、と聞いて藍玉の顔が浮かんだ。なるほど、私もあんなふうに動物…とは限らないかもしれないけれど、式神とパートナーになれるのか。
藍玉のもふもふとした体躯が脳裏をよぎる。
…うん、なるほど、これはなかなか楽しみだ。
「じゃあ、今日はこれでかいさーん。お疲れ様、気をつけて帰ってね」
「お疲れ様で~す。じゃあね、夜狐、カスミ。私は着替えてから帰るわ」
「お疲れ様~…店長、なんか紙袋とかありません?」
夜狐が私の大荷物を見ながら言った。抱えて帰るつもりだった。
「あぁたしかに、カスミちゃん大変だもんね…んー……」
「あやめなら持ってるんじゃなーい?」
おそらく更衣室のドアの前から羽海さんが言った。それだけ言ってそそくさと更衣室に入って行ってしまう。
「たしかにそうかも…ねぇ、紙袋持ってる?いらないやつ」
「あっ、ノック…」
無遠慮に開けられたドアの向こうからあやめさんのため息が聞こえた。
「アンタにノックって概念はないわけ?…あらっ、カスミちゃんったら大荷物ね~!何だかいよいよここの一員って感じだわ──待ってね、確かここに…ほらっあった、これに入るかしら?」
「十分だと思います…ありがとうございます」
「いいえ~。白墨ちゃん、今日はもう店じまい?」
「うん、いつも通り裏口は開けておくから、帰る時はそこからお願いしますね」
「えぇ、アタシはもう少し作業してから帰るわ。じゃあね、これからよろしく、カスミちゃん。できれば、あまりアタシと関わる機会がないように業務をして欲しいところではあるけれどね」
あやめさんは冗談っぽくそう言って手を振った。
「…よろしくお願いします」
多分無理だ。お世話になりっぱなしだろう、きっと。
「じゃ、行こっかカスミちゃん」
「うん」
さて、荷物の持ち運びも楽になった。帰るとしよう。
………。
あれっ。
どこに帰ればいいんだろう。
「あっ、いけないいけない」
店長が何やら再び袂を探りながらこちらに駆け寄ってきた。まさかまだ何かくれるのかと身構えたが、店長が持っているソレは、ずいぶん小さい。彼の手の中にすっぽり入ってしまって見えないほどに。
「一番大事なもの渡すの忘れてたよ。はい」
一度紙袋を肩で固定して、差し出された手の下にこちらも両手を差し出す。
ちゃりん。
──鍵。
一緒についているプレートには数字が書かれていた。102……102号室?
「社員寮、みたいなものかな。一応四部屋あるんだけど、今の所入居者はカスミちゃんを含めて二人しかいなくって…人が増える予定もあんまりないし、まあ永住するつもりで使ってよ。それなりに広さもあるし」
家。
「ありがとうございます…」
何だか自分の城を手に入れたかのような、高揚した気分だ。
広かろうが狭かろうが構うものではない。少なくともそこは、痛みと罵声と空腹だけのあの空間と同じではない。
…本音を言えば、生きている時にここまで──一人暮らしをする段階までいければ良かったんだけれど。
生ければ良かったんだけれど。
まあいいさ。今はもう、生きているのも死んでいるのも変わらない気がしているし。肉体の有無がどうでもいいくらい、今は嬉しい。
「カスミちゃんにとっては初めての一人暮らしだよね。一応家具全般は揃ってるから、そこは安心して。もし壊れたら経費で落ちるし──何かあったら隣人さんを頼るといいよ、ね」
「…隣人さん」
ご近所づきあいというやつだ。うまくやっていけるだろうか。
もしかしてその人は、今日ここにはいない人だったりするんだろうか──
「ってわけで、よろしくね、お隣さん」
声のした方を向くといつものへらへらした笑顔が写った。
「……」
悪い気はしていない。むしろああ良かったと安心しているくらいだ。夜狐が隣人なら私も何かと気兼ねなく過ごせるだろうし、うん、嬉しい。言葉を選ばずに言うなら都合もいい。
その上で、もしかしたらこれは私の照れ隠しかもしれないけど、率直にいおう。せーのっ。
またお前かよ。
少しわざとらしく綺麗になった腕を見せつけてやると、夜狐は少し驚いたような顔をした。
「無くして貰った…って、全部?」
「うん、全部」
首筋や手などの目立つところは勿論、背中や肩などの普段は隠れるところまで。押しつけられたタバコの痕から原因も覚えていないような小さな傷痕に至るまで。
施術はあやめさんの言うとおり、簡単で一瞬で全く痛くないものであった。あやめさんは私の身体の中で、全く傷のついていない部分──具体的に言えば右の二の腕の内側である──に、三センチ平方の湿布のようなものを貼り付けた。
あとは一瞬だ──全身の傷が瞬く間に無くなって、その三センチ平方の部分、そこの肌がひどく黒ずんだ。例えるなら、全身の傷をそこに集結させたかのように。
原理は反転よ、とあやめさんはそれだけ言ったが、私には理解できるようで理解できない話だった。その三センチ四方の黒ずんだ部分は、これまた別の道具…例えるなら永遠に定着する化粧品のようなもので綺麗になった。なるほど確かに一瞬だし、これなら傷の見落としだってないだろう。
勿論だけれど、局所的な火傷の痛みは覚えているし、ヒステリックに叫ぶ母親の声も覚えているし、流れた血の感覚も覚えている。
無くなっただけ。
亡くなっただけ。
何も傷痕は私の存在証明ではないし、脳の海馬であるわけでもないのだから──
当たり前の話だ。
「…いいと思うよ、これで服も選び放題だ」
「うん」
「なぁに、何の話?」
「別に~」
「二人だけの秘密ってこと?やっぱアンタらそういう関係」
「違う」「違うってんだろ!」
重複した声を半笑いで聞き流した羽海さんは、もう、何よ、と頬を膨らませて言いながら同時にまとめ上げていた私の髪をついっと解いた。そのまま私の横に腰掛けたと思ったら、いつの間にか髪はハーフアップに戻っている。なんたる速度。
と、そこに、襖の向こうから何やら人の動くような気配。
「ん、制服できたのかな」
「そうでしょうね。カスミ、私がデザインしたのよ!私が!たった今!ものの数分でね!」
「まともなやつなんだろうな」
「はぁ!?何よ、当然でしょ!疑ってるなら先にアンタが着てみたらいいじゃない!」
「どういう理論だよ!」
流石に私向けに作られた服を百八十センチ相当の男性に着用されるのは困る。つーか着れないだろ。
まずい想像してしまう、夜狐が明らかにサイズの合っていないスカートに足を通している姿を…いやだめだ事案すぎる。そこいらの露出狂よりタチが悪い。
そんな私の今すぐ消し去りたい妄想を横に押し流すように、襖が開いた。
「お待たせ!カスミちゃん、君の制服ができたよ」
店長の腕には、夜狐や羽海さんのものと同じような青い生地の服が大事そうに抱えられている。
はい、どうぞ、と渡されたそれは生地がしっかりしている割に軽く、店長曰く薄いものではあるが守護の呪いがかけられていて、羽海さん曰く通気性もよく、夜狐曰く血などの汚れも落ちやすいらしい。できれば最後のはあまり実感したくないけれど。
「それ、フリーサイズなんだ。持ち主によって服の大きさが変わるから、ブカブカとかきついとか、そういうことはないと思うけれど、もし何かあったら遠慮なく言ってね」
わぁ。すごい。原理は聞かないことにしよう。
まじまじと制服をひっくり返したり灯りにすかしてみたりする私をみて少し微笑んだ後、店長はさらに袂からいろいろなものを出し始めた。
「それじゃあ、まずはこれね。銃のホルダー。これを制服の腰──ベルト部分につければ持ち運びも楽だし安全面もバッチリだと思うよ」
「あ、ありがとうございま──」
「それからこれは銃弾の予備とか、恨みの核をしまっておく時のためのポーチ。一応これも腰にさせるようになってるからね」
「ありがとうござ」
「こっちは靴ね。一応普通の靴とかよりも動きやすいように作っているんだけど、使いづらかったら、まあデザインは悪くないと思ってるから普段使い用とかよそ行き用にしてくれると嬉しいな」
「靴を袂から…?」
「こっちはみかんのお裾分け。みかん好き?」
「好きです。ありが」
「よかった!じゃあこれは、連絡用の携帯。現世でいうスマートフォンと同等の機能を持ってるから、こっちも普段使いしてくれて全然おっけーだよ」
「まだあった…」
みかんで終わりかと思ってた。
「それ、本当に普段使い用にして大丈夫だよ。店長連絡用とか言っておいて結局連絡事項は全部呪具で対応するから。多分スマホの使い方わかってない」
夜狐がこっそり耳打ちをしてきた。店長、あなたがまるで気のいいおじいちゃんに思えてならない。
「それと、これはぼくからの贈り物。入職おめでとう」
そう言っておそらく最後のものを取り出した店長は、そっと私の抱える荷物の上にそれを置いた。
「…ネクタイ?」
「あまり凝ったデザインじゃなくてごめんね。シンプルイズベストかと思って」
照れくさそうに頭を掻く店長。そのネクタイは確かに、そんなに特別なものではなさそうな、黒一色のシンプルなものだった。…とは言ってもこれまでのことを鑑みるに、何かしらの呪いはかけられていそうなものだけど。
純粋に嬉しかった。
理由のあるプレゼントというのは、これまであまり受け取ったことがないものだったから。
その理由が私への祝辞だというのなら、尚更。
「…ありがとうございます、本当に」
「どういたしまして。じゃあ最後に、これ」
ネクタイの上に、さらにまた別の何かが置かれた。
封筒だ。
そして、それなりに厚みがある。
今片方でも腕を離せば、腕に抱えた大量の荷物、というか頂いたものは全て雪崩のように崩れ落ちていくだろう。つまり、私にこの封筒の中身を確認する術はない。
「あの、これは」
「それはぼくからの個人的なプレゼント第二弾だよ」
「第二弾…」
そう呟いて気づく。一旦荷物を下ろせばいい。
こんな簡単なことを見落としていた自分に多少の恥ずかしさを覚えつつ、私はつい今し方まで座っていたソファに一旦荷物を下ろし、封筒を開けてみることにした。見た目は、特に何の変哲もない、普通の封筒だ。
さて。ネクタイの次は何をくださるのか。正直、もうこれ以上はありがたさと申し訳なさの競り合いが始まるあたりまで来ている。これからたくさん働いて、店長に恩を返さなくては。
紙が身をよじる音とともに中身が私と目を合わす。
封筒から出てきたのは万札の束だった。
▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「受け取れません」
諭吉からの視線に耐えきれず、札束を封筒に再び仕舞い込んだ。
この厚みなら、相当な額がある。私の一ヶ月のバイト代が大体これよりも半分薄いぐらいだったから、おそらく十万円…いいや、十五万はくだらない。
受け取れるはずがない。
「いやいや、カスミちゃん、受け取っておいた方がいいって」
「でっ、でも…」
「僕もここに入った時もらったけどね。押し返すと倍になって帰ってくるよ」
夜狐が遠い目をして言った。
「ふっふっふ。素直に受け取らないなら次は封筒じゃあ済まさないよ…」
「…と…言いますと?」
「金庫!!」
「ありがたく受け取らせて頂きます」
倍どころではなかった。
「現実的な話、ただの就職ってわけではないしね。だってカスミ、あなた、ここで働くだけが生活の全てじゃあないんだし。普段の生活で嫌でもお金は必要になるもの。今カスミは無一文なのよ?」
たしかに!
言われてみれば、私はお金を持っていないし、六文銭なんてものもないし。現世味の溢れるあの世では、経済も回っているのだろう。
それならむしろ、貰わないという選択肢は取れないのか。
「まっ、早めのボーナスだと思っておいてよ。それか親からの仕送り。そもそもこれから生活体制を整えるって言ったらその額でも足りないくらいでしょう、若い女の子だし…まあ、今月はお給料も早めに渡すよ、ねっ」
「そうよカスミ、あとで私のお下がりでよければ服、あげるわ。少しは助かるでしょ?」
「ご飯ぐらいなら僕用意してあげるよ。どうせ作り置きとかもしてるし」
「あ、ありがとう…」
むしろそこまでしてもらったら、このお金の使い道は無くなる気もする。
…なんか、なんていうか、これは。
こそばゆいというか、そういうのとはまたちょっと違うような。
ちょっとだけ、憧れていた家族像に、似ている気がした。
「さて。じゃあ今日はカスミちゃんも疲れてるだろうし、式神の儀式とか歓迎会はまた今度にしよう。そろそろ店じまいの時間だし、ちょうどいいよ」
式神、と聞いて藍玉の顔が浮かんだ。なるほど、私もあんなふうに動物…とは限らないかもしれないけれど、式神とパートナーになれるのか。
藍玉のもふもふとした体躯が脳裏をよぎる。
…うん、なるほど、これはなかなか楽しみだ。
「じゃあ、今日はこれでかいさーん。お疲れ様、気をつけて帰ってね」
「お疲れ様で~す。じゃあね、夜狐、カスミ。私は着替えてから帰るわ」
「お疲れ様~…店長、なんか紙袋とかありません?」
夜狐が私の大荷物を見ながら言った。抱えて帰るつもりだった。
「あぁたしかに、カスミちゃん大変だもんね…んー……」
「あやめなら持ってるんじゃなーい?」
おそらく更衣室のドアの前から羽海さんが言った。それだけ言ってそそくさと更衣室に入って行ってしまう。
「たしかにそうかも…ねぇ、紙袋持ってる?いらないやつ」
「あっ、ノック…」
無遠慮に開けられたドアの向こうからあやめさんのため息が聞こえた。
「アンタにノックって概念はないわけ?…あらっ、カスミちゃんったら大荷物ね~!何だかいよいよここの一員って感じだわ──待ってね、確かここに…ほらっあった、これに入るかしら?」
「十分だと思います…ありがとうございます」
「いいえ~。白墨ちゃん、今日はもう店じまい?」
「うん、いつも通り裏口は開けておくから、帰る時はそこからお願いしますね」
「えぇ、アタシはもう少し作業してから帰るわ。じゃあね、これからよろしく、カスミちゃん。できれば、あまりアタシと関わる機会がないように業務をして欲しいところではあるけれどね」
あやめさんは冗談っぽくそう言って手を振った。
「…よろしくお願いします」
多分無理だ。お世話になりっぱなしだろう、きっと。
「じゃ、行こっかカスミちゃん」
「うん」
さて、荷物の持ち運びも楽になった。帰るとしよう。
………。
あれっ。
どこに帰ればいいんだろう。
「あっ、いけないいけない」
店長が何やら再び袂を探りながらこちらに駆け寄ってきた。まさかまだ何かくれるのかと身構えたが、店長が持っているソレは、ずいぶん小さい。彼の手の中にすっぽり入ってしまって見えないほどに。
「一番大事なもの渡すの忘れてたよ。はい」
一度紙袋を肩で固定して、差し出された手の下にこちらも両手を差し出す。
ちゃりん。
──鍵。
一緒についているプレートには数字が書かれていた。102……102号室?
「社員寮、みたいなものかな。一応四部屋あるんだけど、今の所入居者はカスミちゃんを含めて二人しかいなくって…人が増える予定もあんまりないし、まあ永住するつもりで使ってよ。それなりに広さもあるし」
家。
「ありがとうございます…」
何だか自分の城を手に入れたかのような、高揚した気分だ。
広かろうが狭かろうが構うものではない。少なくともそこは、痛みと罵声と空腹だけのあの空間と同じではない。
…本音を言えば、生きている時にここまで──一人暮らしをする段階までいければ良かったんだけれど。
生ければ良かったんだけれど。
まあいいさ。今はもう、生きているのも死んでいるのも変わらない気がしているし。肉体の有無がどうでもいいくらい、今は嬉しい。
「カスミちゃんにとっては初めての一人暮らしだよね。一応家具全般は揃ってるから、そこは安心して。もし壊れたら経費で落ちるし──何かあったら隣人さんを頼るといいよ、ね」
「…隣人さん」
ご近所づきあいというやつだ。うまくやっていけるだろうか。
もしかしてその人は、今日ここにはいない人だったりするんだろうか──
「ってわけで、よろしくね、お隣さん」
声のした方を向くといつものへらへらした笑顔が写った。
「……」
悪い気はしていない。むしろああ良かったと安心しているくらいだ。夜狐が隣人なら私も何かと気兼ねなく過ごせるだろうし、うん、嬉しい。言葉を選ばずに言うなら都合もいい。
その上で、もしかしたらこれは私の照れ隠しかもしれないけど、率直にいおう。せーのっ。
またお前かよ。
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