嘘はいっていない

コーヤダーイ

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23別れ

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 マティアスが帰宅してすぐに、ムスタが狼人タルブと共に北へ向かうらしいという話をした。聞いたサキは顔を真っ青にして僕のせいなの、とだけ言った。詳しいことは聞いていないから自分で聞いておいでと言われて、サキは走って館を飛び出した。外は夜である、王城の敷地内ではあるが先日攫われた件もある、それでもサキはムスタに直接聞いて確認したかった。

 息を切らしてムスタの住む館に辿り着けば、館は明かりのひとつも灯っておらず真っ暗であった。

(嘘……もしかして、もういないの?そんなの嫌だ)

「ムスタ師匠ーっ!サキです、ムスタ師匠ーっ」

 焦って玄関扉をどんどんと拳で叩けば、すぐに扉がガチャリと内側に開いた。

「ど、どうしたサキ。何かあったか」
「ムスタ師匠っ」

 暗闇でも目の見えるムスタに夜の明かりは必要ないものだから館が暗いのはいつものことである。しかしそれを知らぬサキはムスタが既にいなくなったのかと焦り、焦ったサキが夜に尋ねてきたことに焦ったムスタは人間に夜目が利かぬことなど、もちろん気づかない。
 
 そんなムスタにサキは体当たりして抱きついた。危なげなく受け止めたムスタはサキの身体を優しく支えてくれるが、この間のような熱い抱擁とは明らかに違う抱き方である。

「ムスタ師匠お願い、いなくならないでください!」
「!!」
「僕のせいなんでしょう」
「……サキ……」

 しがみついたまま顔を上げたサキの必死の顔は思っていたよりも近くにあって、ムスタは金瞳を怯ませる。サキは力いっぱいムスタに抱きついて言い募る。

「僕ムスタ師匠がここにいないなんて耐えられないです」
「……」
「僕ムスタ師匠が大好きなんです」
「そういう事を軽々しく言うでない」

 ムスタは諦めた。どうしたってサキには勝てない。サキのいう大好きは獣人が好き、イェルハルドが好き、ひろきが好きと同じ類のものであろう。己の気づいたばかりの愛とは違う種類のものなのだ。それでもムスタの心には歓喜が湧きあがった。

「お前はまだこれからの子供なのだ」
「もう子供じゃない!」

 伸び上がり飛んでムスタの肩に掴みかかったサキが、そのままの勢いでムスタに口づけた。唇が乱暴に合わさってゴツリと歯まで当たり、互いが怯む。一瞬ののちムスタが立ち直り主導をとってサキの腰ごと自分にぐいと抱き寄せると、唇をむさぼるように重ね合わせた。

 熱く抱擁を受け合わさった唇からは心地良い精気を流し込まれて、サキははくはくと空気を欲する。

「僕……こないだムスタ師匠の精気を吸うようになって……すぐ気持ちよくなっちゃうの」
「ではここまでにするか」
「僕自分が自分じゃなくなっちゃうみたいで、怖くて」

 抱き上げていたサキを床にそっと降ろして、髪を撫でてやる。そういえば人間は暗闇では物が見えぬのかと気づき、まだ玄関で部屋にも入れてやっていないことにも気づいた。明かりを点けてから、そういえば狼人タルブが今宵はいなくて助かったと思う。いれば今頃うるさいに違いない。

「でも僕、初めてはムスタ師匠がいい」

 あまりの破壊力に驚いたムスタは獣耳も尻尾も逆立てて金瞳の瞳孔を開いた。サキはまだムスタにぴたりと身体を擦り付けており、胸元に顔を寄せている。ムスタの素肌に直接当たる体温は高く、酷く大きく聞こえるどくどくいう音が己の心臓を打つ音だと気づいて、ムスタはぶるりと一度震えた。

「お前の身体はまだ幼い」

 ムスタの断りの言葉が続くのだと気づいてサキが首を横に振る。そんなサキを宥めるようにムスタがサキの髪を撫でる。

「だがその気持ちは、とても嬉しく思う。ありがとうサキ」

 サキが顔を上げる、柔らかな明かりを受けてサキの黒瞳がうるりと輝いて見える。

「わしはずっと知らなんだことをサキに教わった。わしはサキのことを誰よりも愛しておる」
「……でも駄目なんでしょう」

 サキがつと涙を流した、あまりに美しすぎて胸が痛い。ムスタは指でそっと雫を拭う。

「4年待つ。成人までなどとは言わぬ。4年経ってそれでもわしが良ければもらってやろう」
「ん……約束して」
「約束じゃ」

 身体を屈めサキの鼻に自分の鼻を付けてすりすりと擦り合わせた。

「サキ、武術もよく励めよ」
「はい」
「もう遅い、館まで送ろう」
「はい」

 言葉少なに二人は歩き、ほどなくしてサキの住む館に辿り着いてしまった。妙に離れがたい気がしてサキは足を止めたが、ムスタは苦笑するとサキの髪を撫でるに留めた。

(ここで何かすればマティアスに殺されそうじゃの)

「ではまたの」
「おやすみなさい、ムスタ師匠」

 翌日からいつも通りサキは武術の鍛錬へと出掛けるようになった。ムスタとサキは今まで通りの師弟関係に戻ったが、サキがエーヴェルト邸の浴室を使うことはなくなった。





「のうサキ、わしは待つと言ったな」 
「はい、言いました。待ってくれて僕とっても嬉しいです」
「それでどうしてこうなる?」

 サキは現在エプロンを付けて、ムスタの館で昼食を作っていた。サキが打った手打ち麺のボロネーゼである。ボロネーゼソースは自邸で仕込み家族にも食べてもらおうと置いてきたから、ここへは三人前程度の量を持ってきている。

「ムスタ師匠が戻ってくるまで僕のこと忘れないように、胃袋を掴んでおこうと思いまして」

 茹で上がったパスタを素早くソースと絡めるとチーズを振りかけ、笑顔でムスタに皿を差し出した。憮然とした表情で皿を二つ受け取ったムスタは、サキが置いたランチョンマットの上に皿を置きため息をつきながらも、グラスに水を注いだ。

「いただきます」
「頂こう」

 パスタを口に運んだムスタが金瞳を光らせた、尻尾が揺れている。サキは気に入ったようで良かったと自分のパスタを口にした。美味いなとすぐに平らげおかわりをしたムスタは満足そうに尻尾を揺らした。

 ムスタの館の談話室の中にはこの国と違って、ソファーのない部屋がある。絨毯を敷きクッションを敷いてゴロゴロ寛ぐのである。サキとムスタは今その部屋のクッションにもたれて絨毯に寝そべり、二人して寛いでいた。サキがムスタの胸あたりに頭を乗せて身体も半分ムスタに預けている。

(色気がないのう)

 サキはとても愛らしいが、そのように甘えられてもそこは子供。ムスタに預けて力を抜いた身体は小さく、そんなに安心しきった顔で目を閉じられてはつまみ食いもできぬ。そもそも長寿の獣人とその半分しか生きられぬ短命な人間とを比較するのもおかしいが、それでも己との年の差を考えてこっそり息を吐くムスタである。

(4年待つとは言ったが、長いのう)

 4年経ってもサキはまだほんの14歳である。人間の十代だ、4年の間にたくさんの出会いもあるだろう。次に会うときには大人への憧れから始まったムスタへの気持ちなど、薄れているかもしれない。それを諦められるだろうか、人の心の移り変わりは仕方のことなのだと心を割り切れるだろうか。 

 そのまま寝入ってしまったサキの頭をよしよしと撫でる。髪を撫で頬を指先で辿り、零れた髪を耳にかけてやる。いっそその晒された首筋に己の牙で痕を付け、約束を確実なものにしてしまいたい衝動に駆られる。

 首筋を指でなぞればサキがくすぐったそうにふにゃりと笑った。

「早く大人になれよ」

 

 やがて涼しい風が吹くようになりサキは10歳の誕生日を迎え、本格的な冬を迎えては雪で往生するからその前に、と狼人タルブたちと共にムスタが北へと旅立って行った。





「サキは元気だね」
「そう?」

 雪のチラつくなか相変わらずサキはひろきとイェルハルドと共に、武術の鍛錬をしている。ムスタに励めよと言われれば4年間励まざるを得ない。それはサキにとって苦ではなく楽しみの方が近い感情であったが、おそらく待たねばならぬムスタにとっては長い辛抱の期間であろう。
 
 何も言わずともひろきには気づかれていたらしい。ムスタが旅立ってしまった朝、サキが鍛錬の後ひっそりと泣いているところへやって来ると長いこと黙ってただ傍にいてくれた。
 サキの涙が納まると、ひろきは小さな袋を手渡してくれた。

「ムスタにも同じものを渡したんだけどサキも持っていて、俺が作ったお守りだよ」
「お守り……ありがとう、ひろき」

 一度しゃくり上げて手の中の小さな袋を見れば、ひろきの手製なのだろう「御守」と刺繍が入っている。上手くはないそれがひろきらしくて、大事にするねとひろきに微笑んだ。

「中はお札じゃないけど、ちゃんとした良いものが入っているから困ったときには開けてね」
「うん、わかった」

 サキはいつも下げている守りのペンダントと一緒にまとめると、ひろきの守り袋も首から下げた。





 ヴァスコーネス王国の城下街へと北の方で起こった戦の話がようやく伝わってきたのは、山の雪もすっかり溶けて外気に当たれば汗ばむほどの陽気になったころであった。
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