悪役令嬢は、婚約破棄を「無期限の有給休暇」と解釈する。

恋の箱庭

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翌朝。

私は小鳥のさえずりではなく、窓ガラスが風でガタつく音で目を覚ました。

「……ふあ」

大きくあくびをして、伸びをする。

枕はカビ臭く、布団は湿気ていたが、不思議と気分は悪くない。

何しろ、今は朝の十時。

王宮時代なら、すでに起床から六時間が経過し、三つの会議をこなし、昼食のメニューチェック(毒味ではない、予算的な意味で)をしている時間だ。

それがどうだ。

私は今、二度寝をするか、三度寝をするかという、人生で最も贅沢な選択権を手にしている。

「……幸せ」

私は布団の中で芋虫のように丸まり、至福の時を噛み締めた。

しかし。

その至福は、ふと天井を見上げた瞬間に粉々に砕け散った。

「……汚い」

天井の四隅に張り巡らされた、立派すぎる蜘蛛の巣。

そこからぶら下がる、埃の塊。

朝日(と言っても、瘴気の霧で薄暗いが)が差し込むと、空気中を舞う無数の塵がキラキラと光っているのが見えた。

私の脳内で、警報が鳴り響く。

『警告。ハウスダスト濃度、許容値を突破。このままでは快適な睡眠環境が阻害されます』

「……許せない」

私はガバッと布団を跳ね除けた。

私は怠けたいのだ。

全力で、心置きなく、死ぬほど怠けたいのだ。

だが、埃っぽい部屋で怠けるのは「怠惰」ではなく「不潔」である。

私の美学がそれを許さない。

「掃除……ですね」

私は決意の炎を目に宿し、トランクから着替えを取り出した。

王都から持ってきたドレスの中でも、一番動きやすいシンプルなものを選び、スカートの裾をまくり上げて紐で縛る。

長い髪は高い位置でポニーテールに。

袖は肩までまくり上げる。

そして、ハンカチを三角巾のように頭に巻き、口元にも布を巻いてマスクにする。

鏡に映った自分を見て、私は満足げに頷いた。

「よし。公爵令嬢改め、戦闘的清掃員の誕生です」

私は部屋を出て、まずは武器(掃除道具)の調達に向かった。

廊下に出ると、そこは魔窟だった。

床には正体不明のシミ。

壁には苔。

彫像の頭の上には、なぜかキノコが生えている。

「ふふふ……やりがいがありますね。燃えてきました」

私は厨房と思しき場所へ向かい、奇跡的に残っていたバケツと、ボロボロの布切れを発見した。

布切れは洗浄し、雑巾にする。

長い棒を見つけ、先に布を巻きつけてハタキを作成。

準備は整った。

「さて、まずは玄関ホールから攻め落としますか」

私がバケツとハタキを手に、勇ましく廊下を歩いていると。

前方から、ゆらりと黒い影が現れた。

ギルバート様だ。

彼は寝起きなのか、昨日以上に髪がボサボサで、目の下のクマも濃い。

全身から漂う「ダルい」「帰りたい(自宅なのに)」というオーラが凄まじい。

「……おい。朝から何をしている」

彼は私を見るなり、怪訝そうに眉をひそめた。

「その奇妙な格好はなんだ。新しい呪いか?」

「おはようございます、公爵様。これは掃除スタイルです。見ての通り、この屋敷は汚染レベルが高すぎますので、浄化作戦を決行します」

「掃除……? 勝手にしろと言ったが、貴様、本当にやる気か?」

「ええ。埃の中で寝るのは肌に悪いですから」

私は言いながら、彼に近づいた。

そして、持っていた予備の雑巾を、すっと彼の目の前に差し出す。

「……なんだ、これは」

「雑巾です」

「見ればわかる。なぜ私に向ける」

「公爵様。その身長、推定百八十五センチとお見受けします」

「百八十八だ」

「素晴らしい。高身長は掃除における最強の才能です」

私はニッコリと笑った(マスクの下で)。

「私では届かないシャンデリアや窓の上部の埃を、その恵まれたリーチで拭き取っていただきたいのです」

時が止まった。

ギルバート様は、自分の手にある雑巾と、私の顔を交互に見つめた。

「……貴様、私に掃除をしろと言うのか? このドラグニル公爵にか?」

「はい。他に誰がいるのです?」

「私は呪われているのだぞ! 私の手に触れたものは朽ち果て、私の魔力は周囲を破壊する! そんな人間に家事を頼むなど、正気の沙汰ではない!」

彼は声を荒らげ、威嚇するように魔力を放出した。

廊下の空気がビリビリと震え、窓ガラスがガタガタと鳴る。

普通の人間なら腰を抜かす場面だ。

しかし、私は感心して手を叩いた。

「おお、素晴らしい!」

「……は?」

「その『風』です! 今の魔力の風圧、すごくいいです! その風を使って、天井の埃を一気に吹き飛ばせませんか?」

「……」

「ハタキで落とすと埃が舞って大変なんです。でも、公爵様のその『魔力・サーキュレーター』があれば、一瞬で換気が完了します! さあ、あそこの隅に向けてもう一発お願いします!」

私は天井の隅を指差した。

ギルバート様は口をポカンと開けている。

怒る気力が失せたのか、それともあまりの非常識さに脳の処理が追いつかないのか。

「……貴様、本当に私のことを怖くないのか?」

「怖いのは埃とカビと、終わらない残業だけです。さあ公爵様、右上の蜘蛛の巣が気になります。あそこを『ウィンドカッター』的な何かで薙ぎ払ってください」

私は彼の背中をグイグイと押した。

「……はぁ」

深く、重い溜息。

ギルバート様は諦めたように、ダルそうに手を上げた。

「……『風よ』」

ヒュンッ!!

彼が指先を振るうと、カマイタチのような鋭い風が発生し、天井の蜘蛛の巣を綺麗に削ぎ落とした。

しかも、壁には傷ひとつつけない絶妙なコントロール。

「ブラボー!!」

私は拍手喝采を送った。

「完璧です! まさかこれほど繊細な魔力操作が可能とは! 公爵様、あなたは掃除の天才ですよ!」

「……掃除の天才などと言われて、喜ぶ公爵がどこにいる」

彼は不貞腐れたように呟いたが、その表情はどこか満更でもなさそうだ。

たぶん、褒められ慣れていないのだろう。

可愛い人だ。

「さあ、この調子でエントランスの窓も行きましょう! 外側の汚れは、水属性の魔法で高圧洗浄できたりしませんか?」

「……できるが、水浸しになるぞ」

「排水は私がやります! お願いします、ケルヒャー……いえ、ギルバート様!」

「誰がケルヒャーだ」

文句を言いながらも、彼は私の指示に従って歩き出した。

それから数時間。

ドラグニル公爵邸では、前代未聞の光景が繰り広げられた。

「公爵様、そこの拭き残し!」

「……チッ」

「公爵様、家具を浮遊魔法で持ち上げてください。その下が掃けません」

「……注文が多いぞ」

「公爵様、庭の枯葉を竜巻で集めておいてください」

「……私は便利屋ではない」

文句を言いつつも、ギルバート様は驚くほど働き者だった。

彼の魔力は万能で、高所の清掃、重い家具の移動、頑固な汚れの分解まで、あらゆる場面で活躍した。

彼がいれば、清掃業者など不要だ。

昼過ぎには、エントランスホールは見違えるように綺麗になっていた。

床の大理石は本来の輝きを取り戻し、窓ガラスは曇りなく透き通っている。

「……終わった」

ギルバート様が、玄関の階段にへたり込んだ。

額には汗が滲んでいる。

「どうして私が、こんな……」

「お疲れ様でした。ご覧ください、この輝きを」

私はピカピカになった床を指し示した。

「空気が美味しいとは思いませんか?」

「……まあ、確かにカビ臭さは消えたが」

「これで安眠できます。公爵様も、綺麗な部屋の方が寝心地が良いはずです」

私は用意しておいた冷たい水(井戸から汲んできた)を差し出した。

「どうぞ。労働の後の、最高の一杯です」

ギルバート様は疑わしそうにコップを受け取り、一口飲んだ。

そして、ふぅ、と息を吐く。

「……悪くない」

「でしょう?」

私は隣に腰を下ろした。

「公爵様。私、気づいたんです。あなたのその『呪い』と呼ばれる魔力、使い方次第では最強の生活魔法になりますよ」

「生活魔法……?」

「ええ。世界を滅ぼす力も、ゴミを消滅させる力も、原理は同じです。要は出力調整の問題です」

私は彼のアイスブルーの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「あなたは化け物ではありません。ただの『ハイスペックすぎて持て余している不器用な人』です。私がプロデュースすれば、あなたは快適なスローライフの覇者になれます」

「……意味がわからん」

彼は顔を背けたが、その耳が少し赤くなっているのを私は見逃さなかった。

「さて、お腹が空きましたね。厨房の掃除も終わりましたし、何か作りましょうか」

「食材などないぞ」

「庭に生えていた変な色のキノコと、野草があります。鑑定スキルはありませんが、私の直感が『食べられる』と告げています」

「待て。それは自殺行為だ」

「大丈夫です。王宮の食堂の『謎肉シチュー』で鍛えられた私の胃袋は、鉄をも溶かします」

私は立ち上がり、エプロンの紐を締め直した。

こうして、公爵邸の改革初日は、大掃除の完了と共に幕を閉じた。

悪役令嬢メアモリ。

彼女の辞書に「不可能」という文字はない。

あるのは「効率化」と「安眠」のみである。

そして、恐怖の象徴であるはずの呪われ公爵が、私の手足となって(文句を言いながら)働く未来が、確実に見え始めていた。
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