悪役令嬢は、婚約破棄を「無期限の有給休暇」と解釈する。

恋の箱庭

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「……うまい」

ボロボロのダイニングテーブルで、ギルバート様が呟いた。

彼の前にあるのは、私が庭で採取した「紫色のキノコ」と「根っこが人の形をした野菜」を煮込んだスープである。

見た目は魔女の鍋そのものだが、味はコンソメ風味だ。

「よかったです。毒味係がいなかったので少し不安でしたが、公爵様が一口食べて即死しなかったので、安全だと確信しました」

「……貴様、私を毒味に使ったのか」

「まさか。信頼です。『公爵様の強靭な胃袋なら、未知の毒素も分解できる』という信頼の証です」

「言葉の選び方が詐欺師のそれだぞ」

ギルバート様は呆れつつも、スプーンを止めない。

どうやら、久しぶりのまともな温かい食事が嬉しいらしい。

彼がパン(これは私が王都から持参した保存食)をスープに浸しているのを見て、私は満足げに頷いた。

衣食住の「食」と「住」は確保した。

あとは、この生活を維持するためのセキュリティ問題だ。

その時だった。

ガサササササッ!!!

窓の外、庭の茂みが激しく揺れる音がした。

同時に、先ほどまでの穏やかな空気が一変する。

『グルルルルル……』

地響きのような唸り声。

ギルバート様の顔色が変わり、スプーンを置いた。

「……来たか」

彼は立ち上がり、鋭い眼光で窓の外を睨んだ。

「下がっていろ、メアモリ。森の魔獣だ」

「魔獣?」

「ああ。この『帰らずの森』に棲む高ランクの魔物たちだ。私の魔力に惹かれて、定期的に襲撃してくる」

ギルバート様の右手に、青白い稲妻のような魔力が収束していく。

「奴らは凶暴で、言葉など通じない。私が片付ける。……家の中が汚れるかもしれんが、我慢しろ」

シリアスな展開だ。

魔法バトル勃発の予感。

しかし、私は窓からそっと外を覗き込み、首を傾げた。

「……あれですか?」

そこにいたのは、巨大な犬だった。

ただし、頭が三つある。

体長は馬車ほどもあり、全身が黒い炎のような毛並みで覆われている。

伝説の魔獣、ケルベロスだ。

三つの頭がそれぞれ涎を垂らし、凶悪な牙を剥き出しにしている。

普通なら悲鳴を上げて失神するレベルの怪物だ。

だが、私の目には違って見えた。

(……毛並みがボサボサね)

(爪も伸び放題。あれじゃ歩きにくそう)

(何より……あんなにお腹を空かせて、ガリガリじゃないの)

職業病だろうか。

私には、それが「凶悪な魔獣」というより、「管理が行き届いていない可哀想な大型犬」に見えてしまったのだ。

「公爵様、魔法を待ってください」

私は制止した。

「なんだ? 早く離れろ! 結界を破ってくるぞ!」

「いいえ。あれは敵対行動ではありません。見てください、真ん中の頭の視線を」

私は指差した。

「完全に、私たちが食べているスープの鍋をロックオンしています」

「は?」

「ただの空腹です。倒す必要はありません。餌付け……いえ、交渉します」

「交渉だと!? 相手はケルベロスだぞ! 地獄の番犬だ!」

「地獄だろうが王宮だろうが、犬は犬です。そして私は、実家でドーベルマンを三匹飼っていました。躾には自信があります」

私は台所へ戻り、鍋の残りと、古くなったパンをボウル山盛りに詰め込んだ。

そして、勝手口のドアを開ける。

「おい待て! 死ぬぞ!」

ギルバート様の制止を振り切り、私は庭へ出た。

ケルベロスが私に気づく。

『グルアァァァァァッ!!』

三つの頭が一斉に吠えた。

鼓膜が破れそうな咆哮。

殺気と獣臭が押し寄せる。

ケルベロスが後脚に力を溜め、今にも飛びかかろうとした――その瞬間。

私はスッと右手を挙げ、低く、ドスの効いた声で言い放った。

「お座りッ!!!!」

王妃教育で培った、腹式呼吸による発声。

王宮の衛兵たちを一喝して黙らせてきた、絶対的な命令口調。

その声の圧力に、ケルベロスがビクッとした。

『……?』

「聞こえませんでしたか? お・す・わ・り。Sit down.」

私は一歩も引かずに睨みつけた。

目力(めぢから)だけなら、私は王太子にも負けない。

ケルベロスは困惑したように三つの顔を見合わせている。

(え、何こいつ? 逃げないの?)

(ビビってないぞ?)

(なんか、お母さんみたいに怖いんだけど……)

そんな心の声が聞こえてきそうだ。

私は畳み掛けるように、手に持ったボウルを見せつけた。

「ご飯が欲しいのでしょう? いい子にしていればあげます。でも、暴れる悪い子にはあげません。さらに、あちらにいる公爵様が雷で黒焦げにします。どっちがいいですか?」

私は背後のギルバート様(呆然として手から火花が出ている)を親指で指した。

『食料』か『死』か。

究極の二択。

野生の勘が働いたのだろう。

ケルベロスは、ゆっくりと、恐る恐る……腰を下ろした。

ドスン。

地面が揺れる。

「……よし。いい子です」

私は近づき、ボウルを地面に置いた。

「待て」

ケルベロスが飛びつこうとするのを制する。

涎が滝のように流れている。

五秒、十秒。

じらす。

この「主導権はこちらにある」という刷り込みが重要だ。

「……よし」

許可を出した瞬間、ケルベロスは猛烈な勢いでボウルに顔を突っ込んだ。

ガツガツガツガツ!!

三つの頭が喧嘩しながら、スープとパンを貪り食う。

私はその間に、恐れることなく近づき、そのボサボサの頭を撫でた。

「あらあら、毛玉だらけ。ブラッシングが必要ですね。爪も切らないとフローリングが傷つきます」

食べている最中の猛獣に触れる。

ギルバート様が窓から身を乗り出して叫んだ。

「メアモリ! お前、命知らずにも程があるぞ! 手を食いちぎられるぞ!」

「大丈夫です。食事を与えてくれる手を噛むような馬鹿な犬はいません。……まあ、前の婚約者は私の献身を噛み付いて捨てましたが」

皮肉を呟きながら、私はケルベロスの耳の後ろをガシガシと掻いてやった。

ケルベロスの右の頭が、気持ちよさそうに目を細める。

どうやら、ここがツボらしい。

完食する頃には、ケルベロスはすっかり毒気を抜かれていた。

満腹になり、地面にごろんと寝転がって腹を見せている。

「チョロいですね」

私は立ち上がり、パンパンと手を払った。

そこへ、青ざめた顔のギルバート様が駆け寄ってくる。

「……信じられん」

彼はへたり込んだケルベロス(全長五メートル)と、私を交互に見た。

「数多の騎士を食い殺したと言われる『三つ首の処刑人』が……ただのデカい犬になっている」

「公爵様。提案があります」

「な、なんだ」

「この子、飼いましょう」

「はい?」

「この屋敷、セキュリティがザルすぎます。門は壊れていますし、誰でも入り放題です。番犬が必要です」

私はケルベロスの背中をポンと叩いた。

「この子がいれば、不審者(主に王宮からの使者や元婚約者)を追い払うのに最適です。それに、冬場は湯たんぽ代わりになります。三つ頭があるので、暖かさも三倍です」

「湯たんぽ……」

「燃費は少し悪そうですが、森で自分で狩りもできるでしょう。どうですか? 名前は……そうですね、『ポチ』でどうでしょう」

ギルバート様は頭を抱えた。

「伝説の魔獣にポチと名付けるセンスはどうかと思うが……しかし、懐いているのは事実だ」

彼は恐る恐る手を伸ばし、ケルベロスの鼻先に触れた。

ケルベロスは一瞬唸りかけたが、私に「ン?」と睨まれると、大人しくギルバート様の手を舐めた。

ザリッ。

「痛っ! 舌がヤスリみたいだ!」

「あら、愛情表現ですね。よかったですね、公爵様。初めてのお友達ですよ」

「犬だぞ!?」

「犬は裏切りませんから、人間より優秀な友達です」

こうして。

ドラグニル公爵家に、新しい家族(?)が増えた。

ケルベロスのポチ。

彼はその後、私の忠実な下僕……もとい、番犬として大活躍することになる。

屋敷の周りをパトロールし、雑草をむしり(私が教えた)、郵便屋を脅して帰らせる。

王都では「悪魔を使役する魔女が住んでいる」という新たな噂が流れることになるが、それはまた別の話である。

「さあポチ、食後の運動です。庭の枯れ木を引き抜いてきなさい。薪にします」

『ワン!!(野太い声)』

巨大なケルベロスが、尻尾をブンブン振って森へ走っていく。

その背中を見送りながら、私は呟いた。

「……平和ですねぇ」

「どこがだ」

ギルバート様のツッコミは、今日も森に虚しく響くのだった。
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