悪役令嬢は、婚約破棄を「無期限の有給休暇」と解釈する。

恋の箱庭

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一方その頃、王都。

煌びやかな王城の一室、王太子の執務室は、地獄の様相を呈していた。

「――おい! この書類はどうなっているんだ!?」

クラーク王太子の怒鳴り声が響く。

彼の目の前には、人の背丈ほどに積み上げられた書類の塔が三つ、四つと林立していた。

昨日までは、こんな光景はありえなかった。

机の上は常に整理整頓され、決裁が必要な書類だけが、優先順位順に美しく並べられていたはずだ。

だが、今はどうだ。

未決の山。

保留の山。

そして「意味不明」の山。

「おい、側近! 財務省からの予算申請書が見当たらん! 明日の会議で使う資料だぞ!」

クラークが髪を振り乱して叫ぶ。

側近の青年が、青ざめた顔で書類の山を捜索していた。

「も、申し訳ありません殿下! 今探しておりますが、どこにあるのか……」

「なぜ探せない! いつもなら、私が『あれ』と言えば、すぐに出てきただろう!」

「それは……メアモリ様がいらっしゃったからです」

側近が小さな声で呟いた。

その名前が出た瞬間、執務室の空気が凍りついた。

メアモリ・フォン・バレン。

三日前の夜会で、クラーク自身が高らかに婚約破棄を宣言し、追放した元婚約者。

「黙れ! その名前を出すな!」

クラークは机を叩いた。

「あんな冷血女がいなくとも、政務など回る! 私が誰だと思っている! この国の王太子だぞ! 優秀な私が本気を出せば、これくらいの書類など……!」

彼はペンを握りしめ、一番上の書類を睨みつけた。

『北西部灌漑(かんがい)工事における、土魔法使いの人件費高騰に対する補正予算案の再提出について』

タイトルだけで三行ある。

中身を見ると、びっしりと細かい数字と専門用語が羅列されている。

(……なんだこれは)

クラークの目が泳ぐ。

(以前見た時は、もっとわかりやすい要約がついていたはずだ。『要するに金が足りないので、予備費から〇〇ゴールド出してください。承認してOKです』という付箋が……)

ない。

あの黄色い付箋がない。

メアモリが徹夜で作成し、貼り付けてくれていた「殿下のための三分でわかる解説メモ」が存在しないのだ。

「……読めん」

クラークは絶望した。

これを一から読み解き、妥当性を判断し、サインをする?

そんなことをしていたら、日が暮れるどころか年が明けてしまう。

そこへ、ノックもなしに扉が開いた。

「クラーク様ぁ~♡」

甘ったるい声と共に、フリルのついたドレスを着たリリィが入ってきた。

手にはティーセットを持っている。

「お仕事大変そうですけど、少し休憩しませんかぁ? リリィが愛を込めて淹れたハーブティーですぅ」

彼女は書類の山を無邪気に避けながら(いくつかが崩れ落ちた)、クラークの元へ歩み寄る。

普段なら「おお、我が愛しのリリィ」とデレデレするところだが、今のクラークにそんな余裕はない。

「リリィ、今は忙しいんだ。後にし――」

「えぇ~? でもぉ、クラーク様、眉間にシワが寄ってますよぉ。メアモリ様がいなくなって寂しいんですかぁ?」

リリィが上目遣いで小首をかしげる。

その無神経な一言が、クラークの逆鱗に触れた。

「寂しいわけがあるか!!」

「ひゃっ!」

「私は、あの女が残していった負の遺産を片付けているだけだ! あいつは仕事を抱え込みすぎて、引き継ぎもろくにせずに消えおった!」

完全な責任転嫁である。

引き継ぐ暇を与えずに即日追放したのは彼自身なのだが、パニック状態の脳はその事実を都合よく消去していた。

「そ、そうですわよね! メアモリ様ってば、意地悪ですわ! わざと困らせようとして……」

「そうだ! これは嫌がらせだ! ……おい、このお茶、味が薄くないか?」

クラークがカップに口をつけ、顔をしかめた。

「え? そうですかぁ? 愛の味ですけどぉ」

「お湯の味しかしないぞ。茶葉の分量を間違えていないか?」

「分量なんて量ってませんもん。感覚ですぅ」

「……メアモリが淹れる茶は、常に完璧な温度と濃さだった」

つい、口から本音が漏れた。

リリィの表情が引きつる。

「……ひどいですぅ。またメアモリ様のこと……! 私より、あの仕事中毒の女がいいんですかぁ!?」

「そ、そうではない! だが現実に、仕事が回っていないんだ!」

その時、さらに扉が乱暴に開かれた。

「殿下!! 緊急事態です!!」

飛び込んできたのは、血相を変えた騎士団長だった。

「なんだ、騒々しい! 今、愛の痴話喧嘩中だぞ!」

「それどころではありません! 魔導具研究所のシステムがダウンしました!」

「は?」

「研究所の空調管理システムです! あれの制御コード、メアモリ様が毎朝メンテナンスしていたそうなんですが、今朝から誰も触っていないせいで暴走し、研究所内が灼熱地獄になっています!」

「な、なんだと!?」

さらに、文官が転がり込んでくる。

「殿下! 外務省からクレームです! 隣国との通商条約の更新期限が今日までなんですが、書類が見当たりません! メアモリ様が保管していたはずなんですが!」

「殿下! 王城の厨房から悲鳴が! 食材の納入業者が『代金が振り込まれていない』と言って納品を止めています! 今夜の晩餐会のメインディッシュがありません!」

「殿下! 城内のメイドたちが『シフト表がない』とストライキを始めました!」

次々と押し寄せるトラブル報告。

その全てに共通するのは、「メアモリがやってくれていた」という事実。

彼女はただの婚約者ではなかった。

王城という巨大な組織を動かす、心臓部(CPU)だったのだ。

それを引き抜いてしまった今、組織は多臓器不全を起こしていた。

「あ、あ、あ……」

クラークは頭を抱え、椅子に崩れ落ちた。

「嘘だ……あいつ一人で、これ全部をやっていたというのか……?」

「そのようです」

側近が冷ややかな声で告げた。

「我々は、メアモリ様という優秀すぎる管理者(オーバー・スペック)に依存しきっていたのです。殿下、あなたが追放したのは、ただの令嬢ではありません。この国の行政機能そのものです」

「ぐっ……」

クラークの顔色が、白から青、そして土気色へと変化していく。

横でリリィが「行政きのう? 美味しいんですかぁ?」と空気の読めない発言をしているが、もはや誰も相手にしない。

騎士団長が詰め寄る。

「殿下、どうなさいますか! このままでは国が止まります!」

「研究所が爆発します!」

「今夜の晩餐会、ゲストに泥水を飲ませるつもりですか!」

矢継ぎ早の追及。

クラークの限界が訪れた。

「う……うわああああああああ!!!」

彼は子供のように叫び声を上げた。

「知らん! 私は知らんぞ! なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」

「殿下、現実逃避はおやめください!」

「メアモリを呼べ! 今すぐ連れ戻せ!」

クラークは涙目で叫んだ。

「あいつにやらせろ! 全部あいつの仕事だ! 私は王太子だぞ、座ってサインをするのが仕事だ! こんな細かい計算なんかできるかぁぁぁ!」

プライドもへったくれもない、魂の叫び。

しかし、側近は無慈悲に告げた。

「メアモリ様は、既に『帰らずの森』に到着されている頃かと。早馬を出しても、戻られるのは一週間後です」

「一週間……?」

クラークは虚空を見つめた。

この地獄があと一週間続く?

いや、一週間後に彼女が戻ってくる保証などない。

だって、自分があんなに酷い捨て台詞を吐いて追い出したのだから。

「……終わった」

クラークは机に突っ伏した。

リリィが「クラーク様ぁ、しっかりしてくださいよぉ」と背中をさするが、その手つきすら鬱陶しい。

王都の空は青く晴れ渡っているが、王城の上空にだけ、どんよりとした暗雲(主に行政停滞という名の)が立ち込めていた。

その頃。

遠く離れたドラグニル公爵領では。

「ふぁ~、よく寝ました」

メアモリが、二度寝から目覚め、ポチ(ケルベロス)のフカフカのお腹を枕にして、優雅に紅茶を啜っていた。

「そろそろ王都の方々がパニックになっている頃でしょうか。……ま、知ったことではありませんが」

彼女はニヤリと笑い、クッキーを齧る。

その笑顔は、王都の混乱など露知らず、どこまでも清々しかった。
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