悪役令嬢は、婚約破棄を「無期限の有給休暇」と解釈する。

恋の箱庭

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クラーク王太子が捨て台詞を残して去ってから、数日が経過した。

王都に戻った彼は、きっと「メアモリは悪魔の公爵に洗脳されている! 正気ではない!」と周囲に吹聴していることだろう。

彼の思考回路は単純だ。

「自分が振られた」のではなく、「相手がおかしいから振られたことにされた」と変換する機能が標準装備されているからだ。

そんな予想を裏付けるように。

平和な昼下がり、再び「招かれざる客」が現れた。

ただし、今回は正面から堂々と名乗ることはなかった。

「……公爵様、洗濯物が乾きません」

「湿気が多いからな。私の火魔法で乾燥させるか?」

「お願いします。ただし、焦がさないでくださいね。昨日のように私のシュミーズを灰にしたら、一週間の夕食抜きです」

「善処する」

私とギルバート様は、裏庭でシーツを干していた。

ポチは森へ狩りに出かけて留守だ。

その隙を突いたのだろう。

ヒュンッ!!

突然、何かが空を切る音がして、ギルバート様の足元に銀色の鎖が巻き付いた。

「なっ……!?」

ギルバート様が反応するより早く、その鎖は蛇のように彼の全身を締め上げた。

「確保ぉぉぉぉ!!」

茂みから飛び出してきたのは、全身を黒い装備で固めた集団だった。

その数、十名。

彼らは「王家直属・対魔術特殊部隊」の紋章をつけていた。

「魔封じの鎖だ! 魔力の供給を断て! 呪われ公爵を無力化しろ!」

リーダー格の男が叫ぶ。

鎖が淡い光を放ち、ギルバート様の魔力を抑え込もうとする。

「ぐっ……! 貴様ら……!」

ギルバート様が膝をつく。

魔力を封じられた苦痛に、顔が歪む。

「公爵様!」

私が駆け寄ろうとすると、別の男たちが私の両腕を掴んだ。

「メアモリ様! ご無事ですか! 今、お助けします!」

「は?」

私は男たちを睨みつけた。

「無礼な。離しなさい。シーツが汚れます」

「ご安心ください! 我々は殿下の命を受け、洗脳された貴女を救出に来たのです! さあ、この隙に王都へ!」

彼らは私の意思など確認せず、強引に私を引きずろうとした。

やはり。

クラーク殿下は「洗脳」説を採用したらしい。

「離せと言っているのです! 私は洗脳などされていません! 自分の意思でここにいるのです!」

「それが洗脳されている証拠です! 悪魔の囁きに惑わされているのです!」

「話が通じない……!」

私は必死に抵抗したが、鍛え上げられた騎士の腕力には敵わない。

私の体が、ギルバート様から遠ざかっていく。

「メアモリ……!」

鎖に縛られたギルバート様が、私を見て叫んだ。

その目には、焦りと、そして深い絶望が宿っていた。

「待て……連れて行くな……!」

「黙れ化け物! 貴様の魔術は、この『聖銀の鎖』で封じた! 大人しく裁きを受けろ!」

騎士の一人が、ギルバート様の頭を蹴りつけた。

ドガッ。

鈍い音が響く。

「……!」

私の中で、何かが切れた。

「やめなさい!!」

私は叫んだ。

普段の冷静な私からは考えられないほどの大声だった。

「彼に乱暴をしないで! 彼は何もしていない! ただ、静かに暮らしていただけよ!」

私の悲鳴のような叫びが、庭に響き渡る。

その瞬間だった。

ギルバート様の瞳から、光が消えた。

ドクン。

心臓の鼓動のような音が、空気そのものを震わせた。

『……許さん』

地を這うような、低い声。

それは、人間の声帯から発せられたものとは思えないほど、深く、重く、冷たい響きを持っていた。

「な、なんだ……?」

ギルバート様を抑え込んでいた騎士たちが、恐怖に顔を引きつらせる。

『私の領地で。私の目の前で。私の大切な者に、その汚い手で触れるな』

パキィッ!!

硬度を誇るはずの「聖銀の鎖」が、飴細工のように砕け散った。

「ば、馬鹿な!? 魔封じの鎖だぞ!?」

「ひぃっ! 魔力が……魔力が膨れ上がっていく!」

ギルバート様の体から、漆黒の奔流が噴き出した。

それは霧などという生易しいものではない。

まるで黒い炎。

触れるもの全てを凍てつかせ、朽ち果てさせる、純粋な「死」の魔力。

空が一瞬で暗雲に覆われ、昼間だというのに世界が闇に沈む。

「あ……が……っ」

私の腕を掴んでいた騎士たちが、泡を吹いて倒れた。

直接攻撃されたわけではない。

ただ、ギルバート様から放たれた「殺気」と「魔圧」に当てられ、気絶したのだ。

「公爵、様……?」

私は拘束が解け、その場に立ち尽くした。

目の前のギルバート様は、もう普段の不器用な青年ではなかった。

長い黒髪が重力に逆らって逆立ち、瞳は赤く発光している。

周囲の草花が一瞬で枯れ果てていく。

まさに、「呪われ公爵」。

国中が恐れる、破壊の化身。

『消えろ』

彼が右手を振るった。

それだけで、暴風が巻き起こり、特殊部隊の騎士たちを木の葉のように吹き飛ばした。

「うわあああああああ!!」

悲鳴と共に、彼らは空の彼方へ消えていく。

ポチが吠える必要すらない。

圧倒的な力の差。

敵はいなくなった。

しかし、ギルバート様の暴走は止まらなかった。

彼の周囲には黒い渦が巻き続け、屋敷の外壁にヒビが入っていく。

『……触れさせない。もう二度と。誰にも奪わせない……』

彼はうわ言のように呟きながら、虚空を睨んでいる。

意識が、闇に飲み込まれているのだ。

このままでは、彼自身が自分の魔力で壊れてしまう。

「ギルバート様!」

私は叫んだ。

だが、声は暴風にかき消される。

近づけば、私とて無事では済まないかもしれない。

彼の周囲の黒い炎は、物理的に危険だ。

でも。

(だから、何だと言うのです)

私はスカートの裾を握りしめた。

王太子と対峙した時の比ではない恐怖。

けれど、私は知っている。

この黒い炎の中心にいるのが、不器用で、優しくて、私のために苔を採ってきてくれた青年であることを。

私は一歩、足を踏み出した。

猛烈な風圧が私を押し戻そうとする。

「……ッ!」

私は歯を食いしばり、風に逆らって進んだ。

一歩、また一歩。

肌がピリピリと痛む。

ドレスの端が少し焦げる。

それでも、私は止まらなかった。

ギルバート様との距離、あと五メートル。三メートル。一メートル。

私は大きく息を吸い込み、右手を振り上げた。

そして。

パァンッ!!!!

乾いた音が、暴風の中で響き渡った。

私は、ギルバート様の頬を、思いっきり平手打ちしていた。

「……え?」

時が止まる。

黒い炎が、一瞬揺らいだ。

赤く発光していた彼の瞳が、驚きで見開かれ、私を映した。

「……メ、ア……モリ……?」

「はい、メアモリです。家政婦で、元婚約者で、あなたの同居人です」

私はジンジンと痺れる右手を押さえながら、彼を睨みつけた。

「いい加減にしてください。せっかく干したシーツが、全部吹き飛んでしまったではありませんか」

「シーツ……?」

彼は呆然と周囲を見回した。

洗濯物は跡形もなく消え、庭は半壊し、騎士たちは星になっていた。

「あ……」

彼が我に返る。

それと同時に、渦巻いていた黒い魔力が、急速に霧散していく。

空が明るさを取り戻す。

ギルバート様は、自分の手を見て、そして私を見た。

その顔色が、一気に蒼白になる。

「わ、私は……なんてことを……」

彼は後ずさりした。

「すまない……! 近づくな! 私は、やはり化け物だ……! 感情一つ制御できず、君まで傷つけるところだった……!」

恐怖。自己嫌悪。

彼は震える手で顔を覆い、私から背を向けようとした。

「……傷なら、つきましたよ」

「っ……! すまない、やはり怪我を……!」

「ええ。あなたが頬を叩かせるから、私の右手が痛いです。責任を取ってください」

「は?」

彼が振り返る。

私は、赤くなった掌を彼に見せつけた。

「痛いです。冷やしてください。あなたのその、便利な『氷属性魔法』で」

「……それだけ、か?」

「それだけです。他に何か?」

私は何事もなかったかのように、髪を直した。

「あ、それと。吹き飛んだシーツの回収と、壊れた外壁の修繕。これもあなたの責任です。晩御飯までに終わらせてくださいね」

「……」

ギルバート様は、口を半開きにして私を見つめていた。

涙ぐむでもなく、震えるでもなく。

ただ、シーツの心配をしている私を。

「……ふっ」

彼がまた、小さく笑った。

「はは……。ああ、そうか。君はそういう女だったな」

彼は私の手を取り、そっと冷たい魔力を流し込んだ。

ひんやりとした感覚が、痛みを和らげていく。

「痛かっただろう。すまない」

「次は手加減しませんからね」

「ああ。……ありがとう、止めてくれて」

彼は私の手を握ったまま、少しだけ力を込めた。

その手は震えていたけれど、もう暴走する気配はなかった。

「……誰も、君を連れて行かせない」

彼が小さく呟いた言葉は、風の音に紛れて聞こえなかったことにしておいた。

だって、聞こえたと反応したら、私の心拍数が上がってしまいそうだったから。

「さあ、働きますよ公爵様。今日は残業です」

「……ブラック企業だな」

「うちのボス(私)は厳しいのです」

私たちは壊れた庭を見渡し、ため息をついてから、復旧作業に取り掛かった。

遠くの空で、吹き飛ばされた騎士たちがキラリと光ったような気がしたが、きっと気のせいだろう。

こうして、「公爵の激昂」事件は、シーツの紛失という犠牲を払いながらも、二人の絆を(物理的な平手打ちと共に)深める結果となったのだった。
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