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リリィ嬢の曖昧な報告から数日後。
王都はついに決定的なパニック状態に陥った。
メアモリが提示した『高額コンサルタント契約』を巡り、王室は「屈辱的すぎる」と拒否。しかし、行政機能の麻痺と、それによる経済的な損失は、金貨一万枚どころではないレベルにまで膨れ上がったのだ。
「もう我慢の限界だ!」
そう叫んだのは、誰でもない。
過労で顔面蒼白になりながらも、なんとか執務を続けていた、クラーク王太子その人だった。
「あんな冷血女に、私が頭を下げて金を払うなど、プライドが許さない! そうだ、私が直接乗り込んで連れ戻してやる!」
クラークは、自分の行動原理の全てが「プライド」と「自己愛」に基づいていることを自覚していなかった。
そして、その日。
ドラグニル公爵領の城門は、かつてないほど騒がしく打ち破られた。
馬車ではなく、屈強な騎士団を従えたクラーク王太子が、自ら馬に乗って乗り込んできたのだ。
彼の顔には、睡眠不足と疲労によるクマが濃く、その表情は苛立ちと焦燥で歪んでいる。
「メアモリ! 出てこい!」
クラークが城の玄関前で、馬上で叫ぶ。
彼の声は、疲労のせいで高音が裏返っていた。
「公爵令嬢メアモリ・フォン・バレン! 貴様の悪質なサボタージュは、もはや国家反逆罪に等しい! 今すぐ武装解除し、私と共に王都に戻るのだ!」
静寂。
彼の叫びは、虚しく古城の壁に反響するだけだった。
しばらくすると、古城の二階の窓が、静かに開いた。
そこに姿を現したのは、私が愛用している、地味だが動きやすいグレーのワンピース姿の私だった。
窓から、クラーク王太子を見下ろす。
「やあ、クラーク殿下。ご機嫌いかがですか?」
私の声は、二度寝明けで、実に穏やかだった。
「貴様、何様のつもりだ! 王太子を窓から見下ろすとは、無礼千万!」
「申し訳ありません。ですが、私の仕事の休憩時間を邪魔されたので、私も少々不機嫌です」
私はため息をついた。
「それに、殿下。私、もう貴女の婚約者ではありませんよ。わざわざ窓からお声をかけずとも、インターホンを押すか、電報を打つか、適切なコミュニケーション手段を使ってください」
「インターホンなど、どこにある! 馬鹿なことを言っていないで降りてこい!」
「インターホンは、公爵様が開発中です。その代わりに、うちの番犬が対応しますよ」
私が軽く手招きすると、地面の影から。
『グオオオオオオオ!!』
ケルベロスのポチが、三つの頭で吠えながら飛び出してきた。
「ひぃっ!」
騎士団の馬が驚いて暴れだし、現場は一瞬でパニックに陥る。
「黙れ、ポチ!」
私が一喝すると、ポチは大人しくクンクンと鼻を鳴らしながら、騎士たちの匂いを嗅ぎ始めた。
クラークは恐怖で顔を引きつらせながらも、必死に威厳を保とうとする。
「こ、この化け物を引っ込めろ! メアモリ! 貴様は呪われ公爵に操られているのか!?」
「操られていません。私とポチは、ただの友人です。それに、殿下。あなたに操られていた頃の方が、よほど不幸でしたよ」
私は冷静に言い放った。
「さて、単刀直入に申し上げますが、私は王都に戻りません。あの『高額コンサルタント契約』を正式に締結し、私が指定した報酬を支払っていただくなら、書類で相談に乗ります」
「ふざけるな! あんな法外な報酬を払うくらいなら、私は自分で全てやってみせる!」
「どうぞ、ご自由に。すでに城内は地獄のようになっているそうですが、きっとあなたの無限の才能で解決できるでしょう」
私は肩をすくめた。
クラークの顔は、屈辱で真っ赤になる。
「メアモリ、強がるのはよせ! 私は知っているぞ! 貴様は本当は、王妃になりたかったのだ! ここで惨めな生活を送り、私に助けを求めて泣いているはずだった!」
「あの。その情報、どこから仕入れたんですか? リリィ様からですか?」
「そうだ! リリィは貴様の惨めな姿を見て、そう報告した!」
「なるほど。リリィ様、お人好しですね。では、真実をお教えしましょう」
私は、窓枠にもたれかかり、目を細めた。
「私は、王妃になるつもりなど、毛頭ありませんでした。王妃教育は苦痛で、公務は激務。あなたという殿下は常に面倒な仕事を押し付け、褒めてもくれない」
「私は、あなたとの婚約破棄が確定した夜、人生最高の祝杯を挙げました。そして今、私はこの静かで平和な場所で、好きなだけ寝て、好きなだけ掃除をし、誰にも文句を言われずに暮らしています」
私は、心からの満足感を込めて、大きく息を吸い込んだ。
「これ以上の幸福が、どこにあるというのですか? 私は、あなたに捨てられたのではなく、あなたを利用して、自由という名の『無期限の有給休暇』を手に入れたのです」
クラークは、打ちのめされたような顔をした。
彼の想像していた「惨めなメアモリ」像が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「う、嘘だ……。貴様は、私に嫉妬しているに違いない!」
「嫉妬? なぜですか? 私があなたに持っていたのは、同情と、大量の未処理書類に対する憤怒だけですよ」
その時。
城の玄関扉が開き、ギルバート様が、夕食の献立が書かれたメモを手に、ダルそうに出てきた。
「メアモリ。今日のローストに使うハーブ、バジルでいいか? それとも、もう少し刺激的な……」
彼の視線が、クラーク王太子と騎士団に気づき、止まる。
「……何だ、騒々しい。うるさいぞ」
ギルバート様は、普段着のままだが、全身から放たれる魔力と威圧感は凄まじい。
彼の存在が、騎士たちに突き刺さる。
「な、なんだ貴様は……!?」
クラークが震える声で問う。
「見ればわかるだろう。この城の主だ。ギルバート・ドラグニル公爵。……私の居候に、何か用か?」
彼はそう言って、何の躊躇もなく、私の横に立つ。
その距離は、私と彼が、まるで夫婦のように親密に見えるほど近かった。
クラークの顔が、驚愕と、屈辱的な嫉妬に歪む。
「き、貴様が呪われ公爵!? メアモリ、なぜこんな男と! あいつは危険な男だぞ!」
「いいえ。彼は私に、早朝の王妃教育を強要したり、面倒な仕事を押し付けたりしません。それに、彼は高圧洗浄魔法を使って風呂掃除を手伝ってくれる、非常に実用的な共同経営者です」
私は、ギルバート様の肩に、遠慮なく手を置いた。
「殿下。私は、彼を失うことの方が、あなたを失うより、千倍も困ります。なぜなら、彼がいなくなると、生活の質が著しく下がるからです」
クラークは、その光景を直視できなかった。
自分が追放したはずの女が、自分が「化け物」と侮蔑した男と、まるで新婚夫婦のように支え合っている。
そして、自分が王国の機能不全という泥沼に沈んでいる。
「う……馬鹿な……。貴様……貴様は私を、王国の栄光を、捨てたというのか……!」
「いいえ。私は、私の『安眠』と『幸福』を選んだだけです。それに、もう夕食の献立相談の時間ですので、お引き取りいただけますか」
私が冷たく告げると、ギルバート様が、追い打ちをかけるように、腕を組んで前に出た。
「これ以上、私の屋敷の住人に煩わしい真似をするな。次に王都から使者を送ってきたら、私は容赦なく、その使者をポチの夕食にしてやる」
『グオッ!』
ポチが、獲物を見つけたように吠えた。
その三つ頭の魔獣の殺気に、クラーク王太子はついに耐えられなくなった。
「くっ……! わ、わかった! 今回は、引いてやる!」
彼は馬首を返し、命令した。
「全軍、撤退だ! こんな呪われた場所、一秒でも早く離れろ!」
騎士団は、蜘蛛の子を散らすように、古城から逃げ出した。
その背中を見送りながら、私はふう、と息をついた。
「やれやれ。これでしばらくは来ないでしょう。公爵様、お見事な威嚇でした」
「……別に」
ギルバート様はそっけなく返事をした。
しかし、私が置いた肩から、一瞬、暖かく強い魔力が流れ込んできたのを感じた。
彼は、私の肩を抱くようにそっと腕を回した。
「君は、本当に私を選んだのか?」
「はい。あなたの方が、王太子より遥かに有能で、安全です」
私はそう答えながら、献立のメモを彼に差し出した。
「ところで、バジルで大丈夫ですか? 鹿肉にはローズマリーの方が合う気がするのですが」
「……ローズマリーだな。わかった。地下に植えてあるから取ってくる」
彼は、一瞬のロマンチックな空気を、私の日常的な質問によって、再び日常へと戻した。
こうして、元婚約者の直接的な襲来は、メアモリと呪われ公爵の絆を、より強固なものにしたのだった。
王都はついに決定的なパニック状態に陥った。
メアモリが提示した『高額コンサルタント契約』を巡り、王室は「屈辱的すぎる」と拒否。しかし、行政機能の麻痺と、それによる経済的な損失は、金貨一万枚どころではないレベルにまで膨れ上がったのだ。
「もう我慢の限界だ!」
そう叫んだのは、誰でもない。
過労で顔面蒼白になりながらも、なんとか執務を続けていた、クラーク王太子その人だった。
「あんな冷血女に、私が頭を下げて金を払うなど、プライドが許さない! そうだ、私が直接乗り込んで連れ戻してやる!」
クラークは、自分の行動原理の全てが「プライド」と「自己愛」に基づいていることを自覚していなかった。
そして、その日。
ドラグニル公爵領の城門は、かつてないほど騒がしく打ち破られた。
馬車ではなく、屈強な騎士団を従えたクラーク王太子が、自ら馬に乗って乗り込んできたのだ。
彼の顔には、睡眠不足と疲労によるクマが濃く、その表情は苛立ちと焦燥で歪んでいる。
「メアモリ! 出てこい!」
クラークが城の玄関前で、馬上で叫ぶ。
彼の声は、疲労のせいで高音が裏返っていた。
「公爵令嬢メアモリ・フォン・バレン! 貴様の悪質なサボタージュは、もはや国家反逆罪に等しい! 今すぐ武装解除し、私と共に王都に戻るのだ!」
静寂。
彼の叫びは、虚しく古城の壁に反響するだけだった。
しばらくすると、古城の二階の窓が、静かに開いた。
そこに姿を現したのは、私が愛用している、地味だが動きやすいグレーのワンピース姿の私だった。
窓から、クラーク王太子を見下ろす。
「やあ、クラーク殿下。ご機嫌いかがですか?」
私の声は、二度寝明けで、実に穏やかだった。
「貴様、何様のつもりだ! 王太子を窓から見下ろすとは、無礼千万!」
「申し訳ありません。ですが、私の仕事の休憩時間を邪魔されたので、私も少々不機嫌です」
私はため息をついた。
「それに、殿下。私、もう貴女の婚約者ではありませんよ。わざわざ窓からお声をかけずとも、インターホンを押すか、電報を打つか、適切なコミュニケーション手段を使ってください」
「インターホンなど、どこにある! 馬鹿なことを言っていないで降りてこい!」
「インターホンは、公爵様が開発中です。その代わりに、うちの番犬が対応しますよ」
私が軽く手招きすると、地面の影から。
『グオオオオオオオ!!』
ケルベロスのポチが、三つの頭で吠えながら飛び出してきた。
「ひぃっ!」
騎士団の馬が驚いて暴れだし、現場は一瞬でパニックに陥る。
「黙れ、ポチ!」
私が一喝すると、ポチは大人しくクンクンと鼻を鳴らしながら、騎士たちの匂いを嗅ぎ始めた。
クラークは恐怖で顔を引きつらせながらも、必死に威厳を保とうとする。
「こ、この化け物を引っ込めろ! メアモリ! 貴様は呪われ公爵に操られているのか!?」
「操られていません。私とポチは、ただの友人です。それに、殿下。あなたに操られていた頃の方が、よほど不幸でしたよ」
私は冷静に言い放った。
「さて、単刀直入に申し上げますが、私は王都に戻りません。あの『高額コンサルタント契約』を正式に締結し、私が指定した報酬を支払っていただくなら、書類で相談に乗ります」
「ふざけるな! あんな法外な報酬を払うくらいなら、私は自分で全てやってみせる!」
「どうぞ、ご自由に。すでに城内は地獄のようになっているそうですが、きっとあなたの無限の才能で解決できるでしょう」
私は肩をすくめた。
クラークの顔は、屈辱で真っ赤になる。
「メアモリ、強がるのはよせ! 私は知っているぞ! 貴様は本当は、王妃になりたかったのだ! ここで惨めな生活を送り、私に助けを求めて泣いているはずだった!」
「あの。その情報、どこから仕入れたんですか? リリィ様からですか?」
「そうだ! リリィは貴様の惨めな姿を見て、そう報告した!」
「なるほど。リリィ様、お人好しですね。では、真実をお教えしましょう」
私は、窓枠にもたれかかり、目を細めた。
「私は、王妃になるつもりなど、毛頭ありませんでした。王妃教育は苦痛で、公務は激務。あなたという殿下は常に面倒な仕事を押し付け、褒めてもくれない」
「私は、あなたとの婚約破棄が確定した夜、人生最高の祝杯を挙げました。そして今、私はこの静かで平和な場所で、好きなだけ寝て、好きなだけ掃除をし、誰にも文句を言われずに暮らしています」
私は、心からの満足感を込めて、大きく息を吸い込んだ。
「これ以上の幸福が、どこにあるというのですか? 私は、あなたに捨てられたのではなく、あなたを利用して、自由という名の『無期限の有給休暇』を手に入れたのです」
クラークは、打ちのめされたような顔をした。
彼の想像していた「惨めなメアモリ」像が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「う、嘘だ……。貴様は、私に嫉妬しているに違いない!」
「嫉妬? なぜですか? 私があなたに持っていたのは、同情と、大量の未処理書類に対する憤怒だけですよ」
その時。
城の玄関扉が開き、ギルバート様が、夕食の献立が書かれたメモを手に、ダルそうに出てきた。
「メアモリ。今日のローストに使うハーブ、バジルでいいか? それとも、もう少し刺激的な……」
彼の視線が、クラーク王太子と騎士団に気づき、止まる。
「……何だ、騒々しい。うるさいぞ」
ギルバート様は、普段着のままだが、全身から放たれる魔力と威圧感は凄まじい。
彼の存在が、騎士たちに突き刺さる。
「な、なんだ貴様は……!?」
クラークが震える声で問う。
「見ればわかるだろう。この城の主だ。ギルバート・ドラグニル公爵。……私の居候に、何か用か?」
彼はそう言って、何の躊躇もなく、私の横に立つ。
その距離は、私と彼が、まるで夫婦のように親密に見えるほど近かった。
クラークの顔が、驚愕と、屈辱的な嫉妬に歪む。
「き、貴様が呪われ公爵!? メアモリ、なぜこんな男と! あいつは危険な男だぞ!」
「いいえ。彼は私に、早朝の王妃教育を強要したり、面倒な仕事を押し付けたりしません。それに、彼は高圧洗浄魔法を使って風呂掃除を手伝ってくれる、非常に実用的な共同経営者です」
私は、ギルバート様の肩に、遠慮なく手を置いた。
「殿下。私は、彼を失うことの方が、あなたを失うより、千倍も困ります。なぜなら、彼がいなくなると、生活の質が著しく下がるからです」
クラークは、その光景を直視できなかった。
自分が追放したはずの女が、自分が「化け物」と侮蔑した男と、まるで新婚夫婦のように支え合っている。
そして、自分が王国の機能不全という泥沼に沈んでいる。
「う……馬鹿な……。貴様……貴様は私を、王国の栄光を、捨てたというのか……!」
「いいえ。私は、私の『安眠』と『幸福』を選んだだけです。それに、もう夕食の献立相談の時間ですので、お引き取りいただけますか」
私が冷たく告げると、ギルバート様が、追い打ちをかけるように、腕を組んで前に出た。
「これ以上、私の屋敷の住人に煩わしい真似をするな。次に王都から使者を送ってきたら、私は容赦なく、その使者をポチの夕食にしてやる」
『グオッ!』
ポチが、獲物を見つけたように吠えた。
その三つ頭の魔獣の殺気に、クラーク王太子はついに耐えられなくなった。
「くっ……! わ、わかった! 今回は、引いてやる!」
彼は馬首を返し、命令した。
「全軍、撤退だ! こんな呪われた場所、一秒でも早く離れろ!」
騎士団は、蜘蛛の子を散らすように、古城から逃げ出した。
その背中を見送りながら、私はふう、と息をついた。
「やれやれ。これでしばらくは来ないでしょう。公爵様、お見事な威嚇でした」
「……別に」
ギルバート様はそっけなく返事をした。
しかし、私が置いた肩から、一瞬、暖かく強い魔力が流れ込んできたのを感じた。
彼は、私の肩を抱くようにそっと腕を回した。
「君は、本当に私を選んだのか?」
「はい。あなたの方が、王太子より遥かに有能で、安全です」
私はそう答えながら、献立のメモを彼に差し出した。
「ところで、バジルで大丈夫ですか? 鹿肉にはローズマリーの方が合う気がするのですが」
「……ローズマリーだな。わかった。地下に植えてあるから取ってくる」
彼は、一瞬のロマンチックな空気を、私の日常的な質問によって、再び日常へと戻した。
こうして、元婚約者の直接的な襲来は、メアモリと呪われ公爵の絆を、より強固なものにしたのだった。
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