悪役令嬢は、婚約破棄を「無期限の有給休暇」と解釈する。

恋の箱庭

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王都から文官が退散してから、一週間。

ギルバート公爵領には、再び平和が訪れていた。

王都は今、メアモリの提示した『高額コンサルタント契約』の内容をめぐって、王室と財務省が血みどろの会議を繰り広げている最中だろう。

メアモリはそれを承知で、テラスで日向ぼっこをしながら、野鳥の観察日記をつけていた。

「このシジュウカラ、警戒心が薄いですね。餌をくれる人間は安全だと学習したようです。……ポチ、あんまり近づかない」

『グルッ』

ポチは不満そうに唸ったが、メアモリの指示には従い、十メートル以上離れた場所で、優雅な姿勢(三つ頭が全て伏せている)で日光浴をしていた。

ギルバート様は、今日も今日とて地下の魔導工房に籠もり、新しい水車を使った発電装置の研究に没頭している。

静かで、豊かで、何一つ不満のない日々。

しかし、その平穏は、突然破られた。

ザッ、ザッ、ザッ……。

城門の方から、人が歩いてくる音がする。馬車の音ではない。

そして、その足音は、訓練された兵士のものではなく、まるで貴族の女性が泥道を歩くのを嫌がっているかのような、頼りないものだった。

ポチが立ち上がり、警戒の声をあげる。

『ガルルルル……!』

「おや、珍しい。今度は誰でしょう」

私はテラスから身を乗り出して、門の方向を見た。

そこに立っていたのは、見慣れた人物。

王太子クラークの新しい婚約者、リリィ・フォン・ハイド男爵令嬢だった。

彼女は、高価なフリルとリボンがふんだんに使われた、見るからに動きにくそうな薄紫のドレスを着ている。

足元は泥だらけで、長い髪は枝に引っかかったのか、ボサボサ。

完全に迷子である。

「あら、リリィ様。こんな場所へ、ご公務でしょうか?」

私が声をかけると、リリィは顔を上げ、私を見て絶句した。

「メ、メアモリ様!?」

「ごきげんよう。ようこそ、ドラグニル公爵領へ。呪いと魔獣がお出迎えの、最高の田舎へ」

リリィは目をゴシゴシと擦り、信じられないものを見るように、私を凝視した。

「嘘……嘘ですわ。わたくし、クラーク様から聞きました。『メアモリは追放された地で、きっと泣きながらパンを齧り、惨めな生活を送っているはずだ』と」

「パンは昨日で食べ切りました。今日は鹿肉のローストの予定です」

私は優雅に微笑んだ。

そして、リリィの視線が、私の背後にいるポチに移る。

『グウゥゥ……(貴様、何者だ、の意)』

三つの頭を持つ魔獣が、リリィを観察している。

「ひぃっ! あ、悪魔の犬!?」

リリィは悲鳴を上げて、一歩後ずさりした。

「失礼な。ポチは私の家族です。さあ、リリィ様。わざわざご自分から不幸を見学に来るなんて、マゾヒズムがおありなんですか?」

リリィは震えながらも、どうにか理性を保った。

「わ、わたくしは……! クラーク様のご命令で参りましたの! 貴女が本当に惨めに暮らしているか、確認するために!」

「なるほど。『潜入捜査』というわけですか」

私は手を叩いた。

「律儀ですね。ですが、残念ながら、私は人生で最高の休暇を過ごしています。ご覧ください、この肌艶。王都時代より遥かに健康的でしょう?」

私は頬を指差した。睡眠不足が解消され、私の肌はワントーン明るくなっている。

リリィは、信じられない、という表情で私の顔を見つめている。

「そ、そんなはずは……! この汚い城で……毎日呪いに怯えて……」

「汚いのは最初だけでした。今は公爵様と二人で、毎日コツコツと掃除とリフォームに励んでいます」

「公爵様……?」

リリィが周囲を見回した。

その時、地下の魔導工房から「よし、成功だ!」という、ギルバート様の歓喜の声が聞こえてきた。

彼は、作業着代わりに古いシャツを着て、顔に煤をつけたまま、地下から上がってきた。

その手には、成功したらしい新しい発電装置が握られている。

「メアモリ! 魔力結晶が安定したぞ! 今夜から屋敷に電気が――」

彼の言葉が、リリィを見て止まった。

リリィは、顔に煤をつけ、だが瞳だけは生き生きと輝かせている、超絶美形の公爵様に、完全に目を奪われていた。

「えっ……あの、方が……呪われ公爵様……?」

「はい。そして、今私と『魔力と労働力の交換協定』を結んでいる、私の優秀な共同経営者です」

ギルバート様は、見慣れない人間(リリィ)をじろりと見た後、私に尋ねた。

「この者は?」

「王都から来た、元婚約者の新しいお相手です。私の不幸を見学に来たそうですよ」

「そうか。ならば、見学料を払ってもらわねばな」

ギルバート様はニヤリと笑った。

その笑顔に、リリィは顔を赤くし、ドキリとしたように息を飲んだ。

「さあ、リリィ様。せっかくお越しいただいたのです。ただ見て帰るだけでは勿体ない」

私はリリィの手を取った。

「私の労働環境がいかに優れているか、肌で感じていただくことにしましょう」

「え、あ、いやだ! わたくしはただの視察で……!」

リリィの抵抗を無視し、私は彼女を裏庭へと連行した。

「ちょうど土壌のpH値が安定したところです。リリィ様。貴女が王太子に注ぐ『愛』と同じくらいの情熱で、この土を耕してみてください」

「ええっ!?」

私は彼女の手に、錆びたスコップを握らせた。

「農作業は、健康的な汗を流せて最高のリフレッシュになりますよ。どうぞ、心ゆくまで」

そして、私はギルバート様と温室へ戻り、「これで温室の作業が一気に進みますね」と囁き合った。

リリィは、フリルのついたドレスの裾をまくり上げ、ブツブツ文句を言いながら、スコップで土を掘り始めた。

「汚れるわよぉ……! 爪が折れちゃうわぁ……! こんなこと、王妃になるための教育にありませんでしたわぁ!」

ポチはそんなリリィの様子を、三つの頭で面白そうに観察している。

ギルバート様は、笑いを堪えながら私に言った。

「君は本当に悪役令嬢だな。彼女の心を折るのが得意だ」

「違います。私は彼女に『働くことの尊さ』を教えているのです」

「……そうか」

結局、夕暮れ時になるまで、リリィは泥まみれになって働かされた。

彼女の顔は煤ではなく、健康的な赤色に染まっている。

「はぁ……はぁ……もう、無理ですぅ……」

リリィは座り込み、へたり込んでしまった。

私は彼女に、冷たい水と、焼きたてのキノコのパンを差し出した。

「お疲れ様でした、リリィ様。とても素晴らしい働きぶりでしたよ」

「……うぅ」

リリィはパンにかぶりつき、涙ぐみながらモグモグと食べた。

「美味しい……。王都の食事より、美味しい……」

「でしょう?」

私は満足そうに頷いた。

「さあ、お帰りなさい。そして、王太子殿下に伝えてください。私は『不幸』どころか、『極楽』で暮らしていると。そして、もう戻る気など毛頭ない、と」

リリィは、帰る途中に何度も振り返った。

泥だらけになった彼女の瞳には、かつてのライバルであるはずのメアモリの、あまりにも自由で、幸せそうな姿が焼き付けられていた。

そして、その隣で、優しく微笑む「呪われ公爵」の姿も。

王都に戻ったリリィは、クラーク王太子に「メアモリは惨めですか?」と問われ。

「はい……。泥まみれになって、毎日労働していますぅ……。でも、なんか、目がキラキラしてて、美味しそうなもの食べてましたぁ……」

という、極めて曖昧な報告をしたという。

この報告が、王太子のさらなる混乱を招くのは、言うまでもないことである。
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