悪役令嬢は、婚約破棄を「無期限の有給休暇」と解釈する。

恋の箱庭

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使者を追い返してから数日。

公爵邸は、以前にも増して静かな安寧に包まれていた。

王都からの邪魔が入らなくなったおかげで、メアモリは完全に自分のペースで生活を立て直している。

今日は、裏庭の片隅に放置されていた温室の清掃と、ギルバート様による「魔力式・土壌活性化」の実験の日だ。

「公爵様、土壌に光属性の魔力を与えると、pH値が上昇する、という仮説は正しそうですね」

メアモリが、魔法陣の近くに設置した試験管を覗き込む。

「だが、このままでは強すぎる。光が強すぎると、植物が疲弊する。……もう少し闇の魔力を混ぜて、中和する必要があるな」

ギルバート様が真剣な表情で魔力を調整する。

彼は誰にも邪魔されず、自分の好きな魔法の研究ができるこの環境を、心から楽しんでいるようだった。

「その闇の魔力が『呪い』と言われるものなら、皮肉な話ですね。植物を育てるのに呪いが必要なんて」

メアモリが微笑む(目元だけで表現)。

「私にとっては、魔力はただの『エネルギー』だ。それをどう使うか、誰にも指図されないのが、この場所の唯一の利点だった」

「ええ、その通りです」

二人は協力して、温室の土を理想的な状態に整えた。

この調子なら、来月には王都では手に入らない珍しいハーブを育てることもできそうだ。

作業が終わり、夕食の準備を始めた頃。

ギルバート様が、落ち着かない様子でメアモリの周りをウロウロし始めた。

「……あの」

「はい、なんでしょう。今日の夕食は、森で獲れた鹿肉のローストですが、何かご不満でも?」

「いや、違う。そうではない」

ギルバート様は顔を少し赤くして、持っていた小さな木箱を、ドスンとテーブルに置いた。

その木箱は、明らかに彼の手作りだった。

表面はゴツゴツしていて、ニスも塗られていない。

「……何ですか、これは?」

「贈り物だ」

彼はそっぽを向いて、早口で言った。

「貴様が来てから、この屋敷は快適になった。それに、ポチも元気になった。……その、礼だ」

「贈り物、ですか」

私は木箱を開けてみた。

中に入っていたのは、宝石でも、金貨でも、高価なレースでもなかった。

それは、薄い緑色に光る、苔(こけ)だった。

「……苔、ですか」

「ち、違う! これはただの苔ではない!」

ギルバート様が慌てて訂正する。

「『夜光の苔』だ。この森の奥深くにしか生えていない、レアな魔力素材だぞ。これを持っていると、闇の中でも進むべき道を示してくれる」

「道を示す……」

私は苔を手に取って観察した。

淡く、幻想的な光を放っている。

(確かに綺麗ですが……実用性は?)

「これは、君が夜中に目を覚ましたとき、足元を照らすのに使える」

ギルバート様が、モジモジしながら説明する。

「この屋敷は廊下が暗いからな。君が夜中にトイレに行くとき、躓かないように……」

彼の言葉を聞いた瞬間、私は思わず目頭が熱くなった。

王太子クラークが私に贈ってきたものは何だったか。

豪華な宝石、高価なドレス、そして「僕の愛」という抽象的な美辞麗句。

それらは全て、社交界で「メアモリは王太子に愛されている」と見せつけるための道具でしかなかった。

私の体調や、私の実際の生活環境を考慮した贈り物など、一度もなかった。

だが、目の前のこの呪われ公爵は。

「廊下が暗くて、夜中にトイレに行くときに躓くかもしれない」

という、極めて個人的で、切実な悩みを解決するために、命がけで森の奥から『夜光の苔』を採ってきてくれたのだ。

実用性、重視。

コストパフォーマンス、無視。

私という人間を、心から気遣った結果の贈り物。

「……ありがとうございます、公爵様」

私の声は、少し震えていた。

「どうした。そんなに感動することか? ただの苔だぞ」

「いいえ。とても素晴らしいものです」

私は顔を上げ、心からの感謝を込めて微笑んだ。

「これがあれば、夜中に水を飲みに行くときも安心です。それに、夜光の苔は魔力が安定していますから、ベッドサイドに置いておけば、夜間の読書灯にも使えます」

「読書灯……」

「ええ。何より、電気代が浮きますね」

私は最後のオチ(合理性)を忘れなかった。

ギルバート様は、私の感謝の言葉に少し気恥ずかしそうな顔をしていたが、私の実用的なコメントに、再びズッコケたような表情になった。

「君は……本当に、ロマンという概念を知らないのか」

「ロマンはコストが高いので、今の私には不必要です」

「そうか。では、せめてそれを胸に抱いて寝てくれ。私の魔力が少し込められているから、安眠できるはずだ」

「それは助かります。二重の遮光と、公爵様の魔力による安眠補助。これで、私の睡眠負債は完全に解消されます」

私は苔を丁寧に木箱に戻し、自分の部屋へ持って行った。

部屋のテーブルに木箱を置き、満足げに見つめる。

(いい人だ。本当に、最高の同居人だ)

公爵様のこの不器用な優しさが、私の「無期限の有給休暇」を、単なる休息ではなく、「心の安息地」に変えてくれていた。

翌日。

王都からまた使者がやってきた。

今度は、一人の文官だ。

彼は馬車ではなく、ボロボロのオンボロ馬に乗ってやってきた。

「メアモリ様! お願いです! このままでは、王国の財政が破綻します!」

彼は城門の前で、馬から転げ落ちるようにして叫んだ。

その手には、厳重に封印された書状がある。

昨日、ポチに手紙を食べさせたせいで、今回は「食べられないように」と、分厚い革の筒に入れられていた。

「……懲りませんね」

私はテラスから見下ろし、冷たい声で言った。

「また私を連れ戻すための、口先だけの謝罪文ですか?」

「違います! これは、王太子殿下、そして国王陛下からの、正式な『財政緊急諮問書』です!」

文官は涙を流しながら、革の筒を地面に叩きつけた。

「殿下は、あの夜会以降、書類の山の処理に追われ、三晩連続で徹夜。昨日、ついに過労で倒れられました! もう、本当に限界なのです!」

私はため息をついた。

「三晩で倒れるなんて、体力がないですね。王妃教育の体力トレーニングは、意味がなかったのでしょうか」

「問題は、殿下の体力ではなく、メアモリ様が握っておられた『財務省の裏帳簿』の所在が不明なことです!」

「裏帳簿……」

私の記憶が蘇る。

(ああ、あれか。王太子が個人的に愛人へのプレゼント代を誤魔化すために作った、公的な帳簿には載せていない秘密の記録)

「それがないと、来期の税収計算も、貴族への補助金分配も、何もかもストップしてしまいます! お願いです、せめてその場所だけでも教えてください!」

メアモリは少し考えた。

王太子が苦しんでいるのは、愉快だ。

だが、王国が破綻するのは困る。

王国が破綻すれば、私が公爵領で受給するはずの年金(将来設計済)が危うくなる。

「……仕方がありませんね」

私は静かに立ち上がった。

「ポチ、お客様です。追い払うのは後でいいから、座って」

『グルッ』

ポチが大人しくお座りをするのを確認し、私は文官を見下ろした。

「私が出す条件を飲むなら、裏帳簿のありかを教えましょう。ですが、この領地を出るつもりはありません」

「! ど、どんな条件でも!」

文官の目に、希望の光が宿った。

「条件は一つ。私と王国との間に、『高額報酬のコンサルタント契約』を結ぶことです」

「コンサルタント……?」

「ええ。私はもう、王族の奴隷ではありません。私の頭脳と労力には、正当な対価を支払っていただく」

私は冷酷に言い放った。

「報酬は、まず前金で金貨一万枚。そして、年間報酬は純利益の三パーセント。拒否権はなし。もちろん、書類のやり取りは全て馬車便で行い、私を王都に呼び戻そうとした時点で契約は破棄。罰金として、王室のコレクションを一つ差し出していただきます」

「い、一万枚と三パーセント……!」

文官は青ざめた。

とんでもない、破格の金額だ。

しかし、国が滅びるよりはマシである。

「……承知いたしました! 必ず、この条件で契約書を携えて戻ります!」

文官は革の筒を抱きしめ、来た時以上のスピードで馬に乗って森の中へ消えていった。

その後ろ姿を見送り、私は満足げに頷いた。

「よし。これで安泰です。ギルバート様」

ギルバート様が、いつの間にか私の隣に立っていた。

「……君は、その国の元婚約者だろう?」

「ええ。それと同時に、プロの公爵令嬢です」

私はニヤリと笑った。

「情けはかけません。仕事は、あくまでビジネスですから。王太子の自己陶酔ポエムに付き合っている暇はないのです」

ギルバート様は何も言わなかったが、その表情は私に向けられていた時とは違う、何か強い感情を秘めていた。

彼は、私の持つ冷徹なまでの合理性と、その裏にある強かさを、理解し始めていた。

「だが、君は裏帳簿のありかを教えたのか?」

「いいえ。契約書が戻ってきてからですよ」

私は悪役令嬢らしく、フフフと笑った。

「場所は私の寝室の鏡の裏に貼り付けてありますが、契約が成立するまでは、誰にも教えません」

「……悪魔め」

ギルバート様がそう呟いたが、その顔には、どこか嬉しそうな光が灯っているのだった。
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