殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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王宮の長い回廊を、私はヒールの音を高く響かせながら歩いていた。

背後から聞こえていた喧騒は、もう遠い。

私は歩きながら、頭の中で素早く計算を修正する。

「……慰謝料の請求書、切手の代金を入れ忘れたな。まあいい、端数はサービスの範囲内か」

独り言ちて、ふっと息を吐く。

正直なところ、清々しさしかなかった。

あの馬鹿王子――ジェラルド殿下との婚約は、私にとって苦行以外の何物でもなかったからだ。

「愛してる」だの「君の瞳に乾杯」だの、中身のない台詞を聞かされるたびに、私の脳細胞が死滅していく感覚を味わっていた。

それに比べれば、深夜の帳簿整理のなんと有意義なことか。

「さて、馬車を回させないと。今日は早めに帰れる予定だったが、予定変更だ」

懐から懐中時計を取り出し、時間を確認する。

午後八時三〇分。

今から屋敷に戻れば、九時には執務机に向かえるだろう。

「待たれよ、スコティア・ハミルトン公爵令嬢」

不意に、前方から声をかけられた。

低く、よく通る声だ。

温度を感じさせないその声質に、私はピタリと足を止める。

顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。

月の光が差し込む回廊の窓辺。

銀色の髪を完璧に撫でつけ、鋭角的な銀縁眼鏡を掛けた長身の男。

その瞳は、凍てつく湖面のように静かで、底知れない。

「……ギルバート宰相閣下」

私は眉をひそめずに、淡々とその名を呼んだ。

この国の国政を一手に担う切れ者であり、その冷徹な仕事ぶりから「氷の宰相」と渾名される男だ。

王宮内で彼を知らぬ者はいない。

「私になにか御用でしょうか? まさか、先ほどの殿下への不敬罪で拘束なさるおつもりで?」

もしそうなら面倒だ。

弁護士を呼ぶ手間と、牢屋の中で過ごす時間のロスを計算しなくてはならない。

私は頭の中で瞬時に「牢獄内での効率的な暇つぶしリスト」を作成し始めた。

しかし、ギルバート宰相は意外な反応を見せた。

彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、口の端をわずかに吊り上げたのだ。

「不敬罪? まさか。あれは正当防衛、いや、正当な債権回収行為と見受けられたが」

「……話が早くて助かります。王国の法曹界トップがそう判断されるなら、安心ですね」

「ああ。それに、君が提示したあの請求書の明細……完璧だった」

「は?」

予想外の単語に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

ギルバート宰相は、一歩、また一歩と私に近づいてくる。

その圧迫感は相当なものだが、私は一歩も引かずに彼を見据えた。

「あの短時間で、過去数年分の交際費と慰謝料を算出する計算能力。そして、相手が王族であろうと怯まずに論破する胆力。さらには、証拠となる領収書を常に携帯している危機管理能力」

彼は私の目の前で立ち止まり、熱っぽい視線で見下ろしてくる。

いや、熱っぽいといっても、それは恋人に向けるような甘いものではない。

優秀な競走馬や、最新鋭の計算機を見るような目だ。

「スコティア嬢。君のその能力、埋もれさせておくには惜しい」

「はあ……お褒めにあずかり光栄ですが、私はこれから帰って残業があるのです。要件を簡潔にお願いできますか?」

「単刀直入に言おう。私の妻にならないか」

「…………はい?」

時が止まった。

回廊の空気すらも凝固した気がする。

私は自分の耳を疑った。

今、この男はなんと言った?

妻になれ?

婚約破棄されてからまだ一〇分も経っていないこの私に?

「閣下。失礼ですが、過労で頭が沸いていらっしゃるのでは? 私は先ほど、可愛げがないという理由で王家に捨てられたばかりの女ですよ」

「知っている。だからこそだ」

ギルバート宰相は、私の言葉を遮って言った。

「可愛げ? そんなものは無駄だ。愛嬌で国家予算の赤字が埋まるか? 上目遣いで外交問題が解決するのか?」

「……いえ、しませんね」

「だろう? 私が求めているのは、隣で微笑んで花のように佇む飾り人形ではない。私の思考速度についてこられる、有能なパートナーだ」

彼の言葉には、一点の曇りもなかった。

あまりに実利主義すぎて、逆に清々しいほどだ。

「我が宰相府は今、慢性的な人手不足と、王族の浪費による財政難に喘いでいる。私の補佐官たちは優秀だが、それでも処理が追いつかない。私自身、ここ三日はまともに寝ていない」

「それは……労働基準法違反ですね」

「ああ。だが、君がいれば話は別だ。君のあの事務処理能力があれば、宰相府の業務効率は飛躍的に向上するだろう。試算では一五〇パーセントの改善が見込める」

ギルバート宰相は、懐から一枚の書類を取り出した。

それは、まるで最初から用意していたかのような「婚姻契約書(案)」だった。

「条件を提示する。衣食住の完全保証。公爵家への結納金は相場の三倍。そして、君には『宰相補佐』としての権限と、それに見合う給与を別途支給する」

私はその書類を受け取り、素早く目を通した。

……悪くない。

いや、破格だ。

福利厚生は完璧だし、何より「給与支給」という点が素晴らしい。

ただの妻ではなく、プロフェッショナルとして扱われるということだ。

「……業務内容は?」

「宰相府における決裁書類の一次審査、予算案の策定、そして王族――主にあの馬鹿王子への牽制だ」

「なるほど。私の得意分野ですね」

「さらに、休日には完全な休息を保証する。もちろん、君が望むなら休日出勤も可だ」

「素晴らしい」

私は思わず口元を緩めた。

ジェラルド殿下との婚約時代は、休日のたびに中身のないお茶会や、趣味の悪い観劇に付き合わされていた。

それが、自分の裁量で仕事ができる環境になるなんて。

「しかし、閣下。一つだけ確認させてください」

「なんだ?」

「これは『結婚』ですよね? つまり、夫婦としての……その、情緒的な交流も求められるのでしょうか?」

私は少し言い淀んだ。

仕事は好きだが、恋愛沙汰は専門外だ。

ましてや、目の前の男は「氷の宰相」。

愛を囁く姿など想像もできない。

ギルバート宰相は、きょとんとした顔をした後、鼻で笑った。

「情緒的な交流? 必要ない。私が君に求めているのは、背中を預けられる戦友としての信頼だ。甘い言葉など、書類のインクの染みほどの価値もない」

「……!」

その言葉を聞いた瞬間、私の胸に電流が走った。

これだ。

私が求めていたのは、このドライで合理的な関係だ。

「閣下、訂正させてください」

「条件に不満か?」

「いえ。貴方は最高の求婚者です」

私は契約書を取り出し、持っていた万年筆で迷いなくサインをした。

サラサラと名前を書き入れ、最後に力強く点を打つ。

「スコティア・ハミルトン、只今をもって、貴方様のオファーを受諾いたします」

書き終えた書類を突き返すと、ギルバート宰相は満足げに頷いた。

「契約成立だな。……ああ、名前が変わるから、印鑑は新しく作る必要があるな」

「経費で落ちますか?」

「もちろん」

私たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。

そこには愛も恋もなかったが、確かに通じ合う「社畜の絆」が芽生えていた。

「では、早速だが」

ギルバート宰相は腕時計を見た。

「宰相府に戻る。山積みの書類が待っているんだ」

「ええ、参りましょう。徹夜ですか?」

「いや、君がいれば日付が変わる前には終わるはずだ」

「ふふ、腕が鳴りますね」

こうして、私の婚約破棄からわずか一五分後。

私は国のトップである宰相の婚約者となり、新たな職場へと足を踏み出すことになった。

回廊を並んで歩く私たちの足音は、軍隊の行進のように規則正しく、そして力強く響いていた。

「ところでスコット」

「はい、閣下」

「私のことはギルバートでいい。それと、敬語も不要だ。業務効率が落ちる」

「了解した。ではギルバート、まずはその目の下のクマをなんとかするべきだ。ビタミン剤の投与を推奨する」

「……手厳しいな。だが、悪くない」

氷の宰相が、ほんの少しだけ楽しそうに笑ったのを、私は見逃さなかった。
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