殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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王宮の敷地内にある宰相府。

その重厚な扉の前に立った時、ギルバートは一度だけ振り返り、私に尋ねた。

「引き返すなら今のうちだぞ、スコット。この扉の向こうは、華やかな夜会とは真逆の『戦場』だ」

私は鼻で笑って答える。

「戦場? 望むところだ。私は今、最高に『処理』に飢えている」

「……頼もしい限りだ」

ギルバートが扉を開け放つ。

瞬間、饐(す)えた紙の匂いと、インクの香りが鼻腔を突いた。

そして、目の前に広がっていたのは――地獄絵図だった。

「ひぃぃ……もう無理ですぅ……数字が、数字が踊ってる……」

「誰か……誰かコーヒーを……いや、気付け薬をくれ……」

「閣下……閣下はまだか……決裁印がないと……死ぬ……」

広い執務室には、うずたかく積まれた書類の山、山、山。

その隙間で、死人のような顔色をした官僚たちがゾンビのように蠢いている。

床には書き損じの紙が散乱し、机の上は未処理案件の塔が今にも崩れそうだ。

私が足を踏み入れると、近くにいた青白い顔の青年――おそらく秘書官だろう――が、虚ろな目でこちらを見た。

「あ、あれ……? 天使……? 女神様……? とうとうお迎えが来たのかな……」

私の夜会用のドレスを見て、幻覚だと思ったらしい。

ギルバートが冷徹な声で告げる。

「ルーク、寝言は寝てから言え。戻ったぞ」

その声を聞いた瞬間、死にかけの官僚たちに電流が走った。

「か、閣下!?」

「閣下がお戻りになられたぞ! 総員、起立!」

「生きてた! 俺たちまだ見捨てられてなかった!」

彼らはフラフラと立ち上がり、敬礼しようとするが、体力が限界なのが見て取れる。

そして、ギルバートの隣に立つ私を見て、全員がポカンと口を開けた。

「か、閣下……その麗しい女性は……?」

「ああ、紹介しよう。私の婚約者となった、スコティア・ハミルトン公爵令嬢だ」

『こ、婚約者ぁぁぁぁ!?』

執務室に絶叫が響き渡る。

「ちょ、ちょっと待ってください閣下! 夜会に行かれたと思ったら、いきなり婚約者を連れ帰るなんて!?」

「しかもハミルトン公爵令嬢って、あの第二王子の……?」

「王子の件は片付いた。彼女は今日から、私の妻であり、最強の補佐官だ」

ギルバートは事も無げに言い放ち、私に視線を向けた。

「スコット、紹介しよう。私の部下たちだ。優秀だが、耐久力に難がある」

「初めまして、皆様。スコティアです。以後、お見知り置きを」

私は優雅にカーテシー(淑女の礼)を行った。

ドレスの裾をつまみ、完璧な角度で微笑む。

官僚たちは頬を赤らめ、ざわめき立つ。

「お、お美しい……」

「なんて気品だ……」

「ここが掃き溜めだということを忘れてしまいそうだ……」

だが、次の瞬間。

私はドレスの袖をまくり上げ、近くの空いている机に「ドン!」と鞄を置いた。

「さて。挨拶は以上だ。状況確認開始」

「へ?」

「まずは未決裁書類の総量把握。緊急度A(即時対応)、B(明日中)、C(週内)に仕分けを行う。ルーク補佐官、現在の滞留案件リストを出して」

矢継ぎ早に指示を飛ばす私に、ルークと呼ばれた青年が目を白黒させる。

「え、あ、はい! これですが……」

渡されたリストを一瞥。

私は眉をひそめた。

「効率が悪い。なぜ予算案と陳情書が混在している? これでは脳のスイッチ切り替えにタイムラグが生じるだろう」

「す、すみません……手が回らなくて……」

「謝罪は不要。改善すればいい。ギルバート、君は奥の席で最終決裁に専念して。私が下読みをして不備のあるものを弾く。君の机に届くのは、ハンコを押すだけの完璧な書類のみとする」

「……助かる。頼んだぞ」

ギルバートが上着を脱ぎ、執務椅子に座る。

私もまた、ドレスのままで椅子に座り、ペンのインク壺を開けた。

「さあ、始めようか。――『残業』という名の舞踏会を」

そこからは、部下たちが「伝説」と語り継ぐ光景が繰り広げられた。

私の右手は高速でペンを走らせ、左手は次々と紙をめくる。

「却下。見積もりが甘い」

「再提出。誤字が三箇所」

「承認。ただし条件付き。付箋に追記あり」

「保留。これは他部署との調整が必要。私が後で根回しに行く」

バサッ、バサッ、カリカリカリ……。

書類の山が、見る見るうちに切り崩されていく。

その速度は、熟練の官僚たちの三倍、いや五倍はあっただろう。

ルークが口をあんぐりと開けて呟く。

「な、なんだあの速度……読んでるのか? 本当に中身を読んでるのか!?」

「失礼な。誤字脱字はもちろん、計算ミスまでチェック済みだ。ほら、この建設予算、資材費の単価が市場価格より二割高い。業者との癒着を疑うレベルだ」

「ひぃっ! そ、そこまで!?」

「スコット様、こちらの外交文書の翻訳チェックをお願いできますか!?」

「英語、仏語、独語なら即答できる。持ってこい」

「スコット様! お茶を淹れました!」

「ありがとう。砂糖なしで頼む。カフェイン濃度は高めで」

最初は遠巻きに見ていた部下たちも、次第に私の周りに集まり始めた。

彼らの目から「公爵令嬢」を見る色は消え、代わりに「救世主」を崇める光が宿っている。

「すげぇ……女神だ……戦乙女(ヴァルキュリア)だ……」

「このペースなら……今日中に帰れるかもしれない……!」

希望の光を見出した彼らの動きもまた、良くなっていた。

そして、三時間が経過した頃。

「……よし。これでラスト」

最後の一枚に決裁可否のメモを貼り、ギルバートの机に置く。

ギルバートは無言でそれを受け取り、流れるような動作で決裁印を押した。

ダン!

心地よい音が響き、執務室に静寂が戻る。

山のように積まれていた書類は綺麗に片付き、分類された束となって整然と並んでいた。

「……終わった」

誰かが呟いた。

私は万年筆を置き、凝り固まった首をコキリと鳴らす。

「ふぅ。なかなかの手応えだったな」

「スコット」

ギルバートが顔を上げた。

その表情は、疲労の色よりも、明らかな驚愕と――そして、深い充足感に満ちていた。

「信じられない。この量を、たった一晩で……」

「言っただろう? 私は優秀だと」

「ああ。訂正しよう。君は優秀なんてものではない。……化け物だ(褒め言葉)」

「最高の賛辞だ」

私たちは互いにニヤリと笑い合った。

ふと窓を見ると、東の空が白み始めている。

いわゆる「朝チュン」ならぬ「朝ザン(朝まで残業)」だ。

普通なら最悪の気分だろうが、不思議と達成感しかない。

ルークをはじめとする部下たちが、涙を流しながら私を取り囲んだ。

「スコット様ぁぁぁ! 一生ついていきますぅぅ!」

「こんなに早く仕事が終わったの、半年ぶりです!」

「俺、帰ったら子供の寝顔を見るんだ……ありがとう、ありがとう……」

彼らの感謝の嵐を受け流しながら、私はギルバートに向き直る。

「さて、ギルバート。約束通り、一つ片付けた。これで私の実力は証明されたかな?」

「十分すぎるほどにな。……スコット、君を妻に迎えて本当によかった」

「労働力として?」

「それも含めてだが……」

ギルバートは立ち上がり、私の手を取った。

そして、その甲に恭しく口づけを落とす。

「これほど美しい戦いぶりを見せられては、心が動かないわけがない」

その言葉と熱に、私は不覚にも少しだけドキリとした。

吊り橋効果か? いや、ただの徹夜のハイテンションだろう。

私は照れ隠しに、スッと手を引いて言った。

「……お戯れを。それより閣下、そろそろ始業時間ですよ」

「鬼か、君は」

「冗談だ。今日は全員、特別休暇にしては? 効率を考えれば休息も仕事のうちだ」

「……そうだな。全員、今日は解散! 明日の朝まで顔を見せるな!」

『うおおおおおおお!! 閣下万歳! スコット様万歳!!』

歓喜の雄叫びが上がる中、私の「初夜」は幕を閉じた。

色気のかけらもない、けれど私にとっては最高のスタートだった。

しかし、この時の私たちはまだ知らなかった。

この一件が「氷の宰相が、とんでもない『猛獣』を飼い始めた」という噂になり、やがて王宮中を震撼させることになるのを。

「さあ、帰ろうかスコット。屋敷で最高級のベッドを用意させよう」

「それは魅力的だ。……あ、でもその前に」

「なんだ?」

「お腹が空いた。経費で朝食を頼めるか?」

「……フッ。好きに注文しろ」

朝日の中、並んで歩く私たちの影は、昨日よりも少しだけ近づいているような気がした。
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