殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

文字の大きさ
3 / 28

3

王宮の敷地内にある宰相府。

その重厚な扉の前に立った時、ギルバートは一度だけ振り返り、私に尋ねた。

「引き返すなら今のうちだぞ、スコット。この扉の向こうは、華やかな夜会とは真逆の『戦場』だ」

私は鼻で笑って答える。

「戦場? 望むところだ。私は今、最高に『処理』に飢えている」

「……頼もしい限りだ」

ギルバートが扉を開け放つ。

瞬間、饐(す)えた紙の匂いと、インクの香りが鼻腔を突いた。

そして、目の前に広がっていたのは――地獄絵図だった。

「ひぃぃ……もう無理ですぅ……数字が、数字が踊ってる……」

「誰か……誰かコーヒーを……いや、気付け薬をくれ……」

「閣下……閣下はまだか……決裁印がないと……死ぬ……」

広い執務室には、うずたかく積まれた書類の山、山、山。

その隙間で、死人のような顔色をした官僚たちがゾンビのように蠢いている。

床には書き損じの紙が散乱し、机の上は未処理案件の塔が今にも崩れそうだ。

私が足を踏み入れると、近くにいた青白い顔の青年――おそらく秘書官だろう――が、虚ろな目でこちらを見た。

「あ、あれ……? 天使……? 女神様……? とうとうお迎えが来たのかな……」

私の夜会用のドレスを見て、幻覚だと思ったらしい。

ギルバートが冷徹な声で告げる。

「ルーク、寝言は寝てから言え。戻ったぞ」

その声を聞いた瞬間、死にかけの官僚たちに電流が走った。

「か、閣下!?」

「閣下がお戻りになられたぞ! 総員、起立!」

「生きてた! 俺たちまだ見捨てられてなかった!」

彼らはフラフラと立ち上がり、敬礼しようとするが、体力が限界なのが見て取れる。

そして、ギルバートの隣に立つ私を見て、全員がポカンと口を開けた。

「か、閣下……その麗しい女性は……?」

「ああ、紹介しよう。私の婚約者となった、スコティア・ハミルトン公爵令嬢だ」

『こ、婚約者ぁぁぁぁ!?』

執務室に絶叫が響き渡る。

「ちょ、ちょっと待ってください閣下! 夜会に行かれたと思ったら、いきなり婚約者を連れ帰るなんて!?」

「しかもハミルトン公爵令嬢って、あの第二王子の……?」

「王子の件は片付いた。彼女は今日から、私の妻であり、最強の補佐官だ」

ギルバートは事も無げに言い放ち、私に視線を向けた。

「スコット、紹介しよう。私の部下たちだ。優秀だが、耐久力に難がある」

「初めまして、皆様。スコティアです。以後、お見知り置きを」

私は優雅にカーテシー(淑女の礼)を行った。

ドレスの裾をつまみ、完璧な角度で微笑む。

官僚たちは頬を赤らめ、ざわめき立つ。

「お、お美しい……」

「なんて気品だ……」

「ここが掃き溜めだということを忘れてしまいそうだ……」

だが、次の瞬間。

私はドレスの袖をまくり上げ、近くの空いている机に「ドン!」と鞄を置いた。

「さて。挨拶は以上だ。状況確認開始」

「へ?」

「まずは未決裁書類の総量把握。緊急度A(即時対応)、B(明日中)、C(週内)に仕分けを行う。ルーク補佐官、現在の滞留案件リストを出して」

矢継ぎ早に指示を飛ばす私に、ルークと呼ばれた青年が目を白黒させる。

「え、あ、はい! これですが……」

渡されたリストを一瞥。

私は眉をひそめた。

「効率が悪い。なぜ予算案と陳情書が混在している? これでは脳のスイッチ切り替えにタイムラグが生じるだろう」

「す、すみません……手が回らなくて……」

「謝罪は不要。改善すればいい。ギルバート、君は奥の席で最終決裁に専念して。私が下読みをして不備のあるものを弾く。君の机に届くのは、ハンコを押すだけの完璧な書類のみとする」

「……助かる。頼んだぞ」

ギルバートが上着を脱ぎ、執務椅子に座る。

私もまた、ドレスのままで椅子に座り、ペンのインク壺を開けた。

「さあ、始めようか。――『残業』という名の舞踏会を」

そこからは、部下たちが「伝説」と語り継ぐ光景が繰り広げられた。

私の右手は高速でペンを走らせ、左手は次々と紙をめくる。

「却下。見積もりが甘い」

「再提出。誤字が三箇所」

「承認。ただし条件付き。付箋に追記あり」

「保留。これは他部署との調整が必要。私が後で根回しに行く」

バサッ、バサッ、カリカリカリ……。

書類の山が、見る見るうちに切り崩されていく。

その速度は、熟練の官僚たちの三倍、いや五倍はあっただろう。

ルークが口をあんぐりと開けて呟く。

「な、なんだあの速度……読んでるのか? 本当に中身を読んでるのか!?」

「失礼な。誤字脱字はもちろん、計算ミスまでチェック済みだ。ほら、この建設予算、資材費の単価が市場価格より二割高い。業者との癒着を疑うレベルだ」

「ひぃっ! そ、そこまで!?」

「スコット様、こちらの外交文書の翻訳チェックをお願いできますか!?」

「英語、仏語、独語なら即答できる。持ってこい」

「スコット様! お茶を淹れました!」

「ありがとう。砂糖なしで頼む。カフェイン濃度は高めで」

最初は遠巻きに見ていた部下たちも、次第に私の周りに集まり始めた。

彼らの目から「公爵令嬢」を見る色は消え、代わりに「救世主」を崇める光が宿っている。

「すげぇ……女神だ……戦乙女(ヴァルキュリア)だ……」

「このペースなら……今日中に帰れるかもしれない……!」

希望の光を見出した彼らの動きもまた、良くなっていた。

そして、三時間が経過した頃。

「……よし。これでラスト」

最後の一枚に決裁可否のメモを貼り、ギルバートの机に置く。

ギルバートは無言でそれを受け取り、流れるような動作で決裁印を押した。

ダン!

心地よい音が響き、執務室に静寂が戻る。

山のように積まれていた書類は綺麗に片付き、分類された束となって整然と並んでいた。

「……終わった」

誰かが呟いた。

私は万年筆を置き、凝り固まった首をコキリと鳴らす。

「ふぅ。なかなかの手応えだったな」

「スコット」

ギルバートが顔を上げた。

その表情は、疲労の色よりも、明らかな驚愕と――そして、深い充足感に満ちていた。

「信じられない。この量を、たった一晩で……」

「言っただろう? 私は優秀だと」

「ああ。訂正しよう。君は優秀なんてものではない。……化け物だ(褒め言葉)」

「最高の賛辞だ」

私たちは互いにニヤリと笑い合った。

ふと窓を見ると、東の空が白み始めている。

いわゆる「朝チュン」ならぬ「朝ザン(朝まで残業)」だ。

普通なら最悪の気分だろうが、不思議と達成感しかない。

ルークをはじめとする部下たちが、涙を流しながら私を取り囲んだ。

「スコット様ぁぁぁ! 一生ついていきますぅぅ!」

「こんなに早く仕事が終わったの、半年ぶりです!」

「俺、帰ったら子供の寝顔を見るんだ……ありがとう、ありがとう……」

彼らの感謝の嵐を受け流しながら、私はギルバートに向き直る。

「さて、ギルバート。約束通り、一つ片付けた。これで私の実力は証明されたかな?」

「十分すぎるほどにな。……スコット、君を妻に迎えて本当によかった」

「労働力として?」

「それも含めてだが……」

ギルバートは立ち上がり、私の手を取った。

そして、その甲に恭しく口づけを落とす。

「これほど美しい戦いぶりを見せられては、心が動かないわけがない」

その言葉と熱に、私は不覚にも少しだけドキリとした。

吊り橋効果か? いや、ただの徹夜のハイテンションだろう。

私は照れ隠しに、スッと手を引いて言った。

「……お戯れを。それより閣下、そろそろ始業時間ですよ」

「鬼か、君は」

「冗談だ。今日は全員、特別休暇にしては? 効率を考えれば休息も仕事のうちだ」

「……そうだな。全員、今日は解散! 明日の朝まで顔を見せるな!」

『うおおおおおおお!! 閣下万歳! スコット様万歳!!』

歓喜の雄叫びが上がる中、私の「初夜」は幕を閉じた。

色気のかけらもない、けれど私にとっては最高のスタートだった。

しかし、この時の私たちはまだ知らなかった。

この一件が「氷の宰相が、とんでもない『猛獣』を飼い始めた」という噂になり、やがて王宮中を震撼させることになるのを。

「さあ、帰ろうかスコット。屋敷で最高級のベッドを用意させよう」

「それは魅力的だ。……あ、でもその前に」

「なんだ?」

「お腹が空いた。経費で朝食を頼めるか?」

「……フッ。好きに注文しろ」

朝日の中、並んで歩く私たちの影は、昨日よりも少しだけ近づいているような気がした。
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

自滅王子はやり直しでも自滅するようです(完)

みかん畑
恋愛
侯爵令嬢リリナ・カフテルには、道具のようにリリナを利用しながら身体ばかり求めてくる婚約者がいた。 貞操を守りつつ常々別れたいと思っていたリリナだが、両親の反対もあり、婚約破棄のチャンスもなく卒業記念パーティの日を迎える。 しかし、運命の日、パーティの場で突然リリナへの不満をぶちまけた婚約者の王子は、あろうことか一方的な婚約破棄を告げてきた。 王子の予想に反してあっさりと婚約破棄を了承したリリナは、自分を庇ってくれた辺境伯と共に、新天地で領地の運営に関わっていく。 そうして辺境の開発が進み、リリナの名声が高まって幸福な暮らしが続いていた矢先、今度は別れたはずの王子がリリナを求めて実力行使に訴えてきた。 けれど、それは彼にとって破滅の序曲に過ぎず―― ※8/11完結しました。 読んでくださった方に感謝。 ありがとうございます。

『生きた骨董品』と婚約破棄されたので、世界最高の魔導ドレスでざまぁします。私を捨てた元婚約者が後悔しても、隣には天才公爵様がいますので!

aozora
恋愛
『時代遅れの飾り人形』――。 そう罵られ、公衆の面前でエリート婚約者に婚約を破棄された子爵令嬢セラフィナ。家からも見放され、全てを失った彼女には、しかし誰にも知られていない秘密の顔があった。 それは、世界の常識すら書き換える、禁断の魔導技術《エーテル織演算》を操る天才技術者としての顔。 淑女の仮面を捨て、一人の職人として再起を誓った彼女の前に現れたのは、革新派を率いる『冷徹公爵』セバスチャン。彼は、誰もが気づかなかった彼女の才能にいち早く価値を見出し、その最大の理解者となる。 古いしがらみが支配する王都で、二人は小さなアトリエから、やがて王国の流行と常識を覆す壮大な革命を巻き起こしていく。 知性と技術だけを武器に、彼女を奈落に突き落とした者たちへ、最も華麗で痛快な復讐を果たすことはできるのか。 これは、絶望の淵から這い上がった天才令嬢が、運命のパートナーと共に自らの手で輝かしい未来を掴む、愛と革命の物語。

断罪される令嬢は、悪魔の顔を持った天使だった

Blue
恋愛
 王立学園で行われる学園舞踏会。そこで意気揚々と舞台に上がり、この国の王子が声を張り上げた。 「私はここで宣言する!アリアンナ・ヴォルテーラ公爵令嬢との婚約を、この場を持って破棄する!!」 シンと静まる会場。しかし次の瞬間、予期せぬ反応が返ってきた。 アリアンナの周辺の目線で話しは進みます。

悪役令嬢と転生ヒロイン

みおな
恋愛
「こ、これは・・・!」  鏡の中の自分の顔に、言葉をなくした。 そこに映っていたのは、青紫色の髪に瞳をした、年齢でいえば十三歳ほどの少女。  乙女ゲーム『タンザナイトの乙女』に出てくるヒロイン、そのものの姿だった。  乙女ゲーム『タンザナイトの乙女』は、平民の娘であるヒロインが、攻略対象である王太子や宰相の息子たちと交流を深め、彼らと結ばれるのを目指すという極々ありがちな乙女ゲームである。  ありふれた乙女ゲームは、キャラ画に人気が高まり、続編として小説やアニメとなった。  その小説版では、ヒロインは伯爵家の令嬢となり、攻略対象たちには婚約者が現れた。  この時点で、すでに乙女ゲームの枠を超えていると、ファンの間で騒然となった。  改めて、鏡の中の姿を見る。 どう見ても、ヒロインの見た目だ。アニメでもゲームでも見たから間違いない。  問題は、そこではない。 着ているのがどう見ても平民の服ではなく、ドレスだということ。  これはもしかして、小説版に転生?  

悪役令嬢、猛省中!!

***あかしえ
恋愛
「君との婚約は破棄させてもらう!」 ――この国の王妃となるべく、幼少の頃から悪事に悪事を重ねてきた公爵令嬢ミーシャは、狂おしいまでに愛していた己の婚約者である第二王子に、全ての罪を暴かれ断頭台へと送られてしまう。 処刑される寸前――己の前世とこの世界が少女漫画の世界であることを思い出すが、全ては遅すぎた。 今度生まれ変わるなら、ミーシャ以外のなにかがいい……と思っていたのに、気付いたら幼少期へと時間が巻き戻っていた!? 己の罪を悔い、今度こそ善行を積み、彼らとは関わらず静かにひっそりと生きていこうと決意を新たにしていた彼女の下に現れたのは……?! 襲い来るかもしれないシナリオの強制力、叶わない恋、 誰からも愛されるあの子に対する狂い出しそうな程の憎しみへの恐怖、  誰にもきっと分からない……でも、これの全ては自業自得。 今度こそ、私は私が傷つけてきた全ての人々を…………救うために頑張ります!

婚約破棄、しません

みるくコーヒー
恋愛
公爵令嬢であるユシュニス・キッドソンは夜会で婚約破棄を言い渡される。しかし、彼らの糾弾に言い返して去り際に「婚約破棄、しませんから」と言った。 特に婚約者に執着があるわけでもない彼女が婚約破棄をしない理由はただ一つ。 『彼らを改心させる』という役目を遂げること。 第一王子と自身の兄である公爵家長男、商家の人間である次期侯爵、天才魔導士を改心させることは出来るのか!? 本当にざまぁな感じのやつを書きたかったんです。 ※こちらは小説家になろうでも投稿している作品です。アルファポリスへの投稿は初となります。 ※宜しければ、今後の励みになりますので感想やアドバイスなど頂けたら幸いです。 ※使い方がいまいち分からずネタバレを含む感想をそのまま承認していたりするので感想から読んだりする場合はご注意ください。ヘボ作者で申し訳ないです。

4人の女

猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。 うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。 このご婦人方には共通点がある。 かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。 『氷の貴公子』の異名を持つ男。 ジルベール・タレーラン公爵令息。 絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。 しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。 この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。 こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。