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夜会の熱狂が冷めやらぬまま、私とギルバートは会場を後にしようとしていた。
「帰宅後の予定だが」
「ああ。馬車の中でこの契約書の最終チェック、帰宅後に風呂、そして二四時からは明日の閣議資料の読み込みだ」
「完璧なスケジュールだ。無駄がない」
私たちが業務連絡を交わしながら出口へ向かっていると、その前に立ちはだかる影があった。
言うまでもない。
顔を茹でダコのように真っ赤にしたジェラルド第二王子と、涙目でハンカチを噛んでいるミミー・ピンキーだ。
「待ちたまえ!!」
ジェラルドが叫ぶ。
私は立ち止まり、懐中時計を取り出した。
「……現在時刻、二二時一五分。殿下、私の定時(という概念はないが)を過ぎております。これ以上の会話は時間外労働手当が発生しますが」
「金の話ばかりするな! 貴様、今のダンス……あれはいったいどういうつもりだ!」
「どういう、とは?」
「私への当てつけか!? 宰相とあんな派手なダンスを見せつけて、私を嫉妬させようという魂胆だろう!」
ジェラルドがビシッと私を指差す。
その思考回路のポジティブさには、ある種の感動すら覚える。
「殿下。自意識過剰もそこまでいくと才能ですね。嫉妬? 誰が? 誰に?」
「貴様が! 私に! 決まっているだろう! 本当はまだ私のことが好きなんだろう!? だから男装などして気を引こうと……!」
「……ギルバート」
私は隣の夫(仮)を見上げた。
「王室医務官を呼んだ方がいい。殿下の認知機能に深刻なバグが発生している」
「手遅れかもしれんが、手配しよう」
ギルバートが冷ややかに答える。
ジェラルドは激昂して地団駄を踏んだ。
「馬鹿にするな! だいたいギルバート、貴様も貴様だ! そんな可愛げのない女のどこがいい! 男みたいで、色気もなくて、頭の中は数字ばかり……。そんな女を連れ歩いて、宰相としての品位を疑われるぞ!」
「そうですわよぉ!」
ミミーが横から口を挟む。
「スコットお姉様なんて、ただの仕事中毒(ワーカーホリック)ですわ! 女としての幸せを捨てた『鉄の女』ですもの! ギルバート様もきっと、無理やり付き合わされているんでしょう? 可哀想に……」
ミミーは上目遣いでギルバートに媚びを送る。
「私ならぁ、もっとギルバート様を癒して差し上げられますわよぉ? ね?」
その瞬間。
周囲の空気がピキリと凍りついた。
ギルバートの眼鏡の奥の瞳が、絶対零度まで冷え込んだのだ。
「……癒し、だと?」
低く、押し殺した声。
ミミーが「ひっ」と縮こまる。
ギルバートは一歩前に出ると、ミミーではなくジェラルドを睨みつけた。
「殿下。訂正していただきたい」
「な、なんだその目は……不敬だぞ!」
「彼女が『鉄の女』? ええ、その通りです。彼女は鉄のように強靭で、鋼のように折れない。だからこそ素晴らしい」
ギルバートは私の肩を抱き寄せ、強く引きつけた。
「私は毎日、膨大な決裁と責任という名の重圧に押し潰されそうになっている。そんな私に必要なのは、甘い言葉で慰めるだけの愛玩動物ではない」
「あ、愛玩動物……っ!?」
「私が必要としているのは、共に重圧を背負い、同じ速度で走り、背中を預けられる『戦友』だ。そしてスコットは、それを完璧にこなしている」
ギルバートの手が、私の肩に食い込むほど強く握られる。
「彼女は私の補佐官であり、私の知恵袋であり、そして私の『心臓』だ。彼女がいなければ、私の政治生命どころか、生物としての生命活動すら危うい」
「なっ……!?」
「殿下、貴方には一生理解できないでしょうね。貴方が求めているのは『飾り』だが、私が求めているのは『命』そのものなのだから」
言い切った。
清々しいほどの、重すぎる愛(?)の告白。
ジェラルドは口をパクパクさせ、言葉を失っている。
私は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
(……言い過ぎだ、ギルバート。心臓扱いされると、不整脈を起こせないではないか)
だが、悪い気はしない。
私は咳払いを一つして、ジェラルドに向き直った。
「お聞きになりましたか、殿下。そういうわけですので、私は非常に忙しいのです。殿下の相手をして『嫉妬ごっこ』に付き合っている暇はありません」
「ぐっ……ぐぬぬ……!」
「それと、ピンキー男爵令嬢」
私はミミーを見た。
彼女はギルバートに拒絶され、顔を青ざめさせている。
「他人の男に色目を使う暇があったら、自分の足元を見た方がいい。……ドレスの裾、破れていますよ?」
「えっ!?」
ミミーが慌ててスカートを見る。
先ほど転びそうになった時に踏んだのだろう。
安物のレースが無惨に裂けていた。
「あらあら。補修費がかさみますね。……まあ、殿下のポケットマネーが尽きていなければいいのですが」
「っ……!!」
ミミーの顔が引きつる。
図星だったか。
私はニヤリと笑い、ギルバートの手を取った。
「行こう、ギルバート。ここにいると生産性が低下する」
「ああ。時間の無駄だったな」
私たちは二人の敗残兵を残し、颯爽と歩き出した。
背後から「覚えてろー!」「キーッ!」という喚き声が聞こえるが、もはや負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
◇
馬車に乗り込むと、ギルバートがふぅと深く息を吐き、ネクタイを緩めた。
「……疲れた。あのアホ王子の相手は、書類仕事の一〇倍疲れる」
「同感だ。カロリーの無駄遣いだったな」
「だが、言いたいことは言った。スッキリしたよ」
ギルバートが横目で私を見る。
「言い過ぎたか? 『心臓』というのは」
「いや。解剖学的には間違っているが、比喩としては悪くない。……それに、君にあそこまで言わせてしまったのは、私の管理不足だ」
「管理不足?」
「ああ。私がもっと早く殿下を黙らせていれば、君の喉を消耗させずに済んだ」
私は懐から、先ほどの栄養ドリンク(紫色)とは別の、普通ののど飴を取り出した。
「ほら。舐めておけ」
「……気が利くな」
ギルバートは飴を受け取り、口に放り込む。
「甘い」
「糖分補給だ。……さて」
私は馬車の窓から、遠ざかる王宮を見つめた。
「ミミー・ピンキーの様子がおかしかったな」
「そうか? いつも通り五月蝿(うるさ)かったが」
「いや。ドレスの破れを指摘した時の反応。……焦りが強すぎた。それに、彼女がつけていたネックレス」
「例の横領疑惑の品か?」
「違う。あれは偽物(イミテーション)だ」
「なんだと?」
ギルバートが驚いて私を見る。
「本物のダイヤの輝きではない。屈折率がガラス玉のそれだった。……殿下がプレゼントしたはずの八〇〇万ゴールドのネックレスは、どこへ行った?」
私は手帳を開き、仮説を書き殴る。
「可能性は二つ。一つは殿下が最初から偽物を贈った。だが、あの見栄っ張りの性格上、それは考えにくい」
「なら、もう一つは?」
「ミミーが換金した、だ」
「……なるほど。借金の穴埋めか」
「ビンゴだろう。だが、それでも足りていないはずだ。彼女の実家のピンキー男爵家は、事業の失敗で火の車だというデータがある」
私はペンを回した。
「金に困った人間は、何をするか分からない。……次はもっと直接的な手段に出てくるぞ」
「直接的とは?」
「窃盗、詐欺、あるいは……」
私はギルバートを見た。
「君という『最大のパトロン』を狙って、ハニートラップを仕掛けてくるかもしれないな」
「……勘弁してくれ。吐き気がする」
ギルバートが本気で嫌そうな顔をした。
「安心しろ。私が防波堤になる。害虫駆除は補佐官の役目だ」
「頼む。……しかしスコット」
「なんだ?」
「ハニートラップより怖いのは、君が過労で倒れることだ。今日はもう仕事をするな」
「は? まだ二二時だぞ? これからが本番……」
「ダメだ。これは宰相命令だ」
ギルバートがいきなり、私の手帳を取り上げた。
「あっ! 私のネタ帳!」
「今夜は寝ろ。私の腕の中で」
「……は?」
「あ、いや……その、比喩だ。安心して眠れる環境を提供するという意味で……」
ギルバートが慌てて言い訳をする。耳が赤い。
私はプッと吹き出した。
「ふふっ。了解した、閣下。では今夜は、君のベッドの空きスペースを占拠させてもらおうか」
「……善処する」
馬車の中、私たちは少しだけ甘い空気に包まれた。
外は冷たい夜風が吹いているが、ここだけは温かい。
だが、私の予想通り、ミミー・ピンキーの破滅へのカウントダウンは始まっていた。
そしてそれは、意外な形で私たちに火の粉となって降りかかることになる。
「帰宅後の予定だが」
「ああ。馬車の中でこの契約書の最終チェック、帰宅後に風呂、そして二四時からは明日の閣議資料の読み込みだ」
「完璧なスケジュールだ。無駄がない」
私たちが業務連絡を交わしながら出口へ向かっていると、その前に立ちはだかる影があった。
言うまでもない。
顔を茹でダコのように真っ赤にしたジェラルド第二王子と、涙目でハンカチを噛んでいるミミー・ピンキーだ。
「待ちたまえ!!」
ジェラルドが叫ぶ。
私は立ち止まり、懐中時計を取り出した。
「……現在時刻、二二時一五分。殿下、私の定時(という概念はないが)を過ぎております。これ以上の会話は時間外労働手当が発生しますが」
「金の話ばかりするな! 貴様、今のダンス……あれはいったいどういうつもりだ!」
「どういう、とは?」
「私への当てつけか!? 宰相とあんな派手なダンスを見せつけて、私を嫉妬させようという魂胆だろう!」
ジェラルドがビシッと私を指差す。
その思考回路のポジティブさには、ある種の感動すら覚える。
「殿下。自意識過剰もそこまでいくと才能ですね。嫉妬? 誰が? 誰に?」
「貴様が! 私に! 決まっているだろう! 本当はまだ私のことが好きなんだろう!? だから男装などして気を引こうと……!」
「……ギルバート」
私は隣の夫(仮)を見上げた。
「王室医務官を呼んだ方がいい。殿下の認知機能に深刻なバグが発生している」
「手遅れかもしれんが、手配しよう」
ギルバートが冷ややかに答える。
ジェラルドは激昂して地団駄を踏んだ。
「馬鹿にするな! だいたいギルバート、貴様も貴様だ! そんな可愛げのない女のどこがいい! 男みたいで、色気もなくて、頭の中は数字ばかり……。そんな女を連れ歩いて、宰相としての品位を疑われるぞ!」
「そうですわよぉ!」
ミミーが横から口を挟む。
「スコットお姉様なんて、ただの仕事中毒(ワーカーホリック)ですわ! 女としての幸せを捨てた『鉄の女』ですもの! ギルバート様もきっと、無理やり付き合わされているんでしょう? 可哀想に……」
ミミーは上目遣いでギルバートに媚びを送る。
「私ならぁ、もっとギルバート様を癒して差し上げられますわよぉ? ね?」
その瞬間。
周囲の空気がピキリと凍りついた。
ギルバートの眼鏡の奥の瞳が、絶対零度まで冷え込んだのだ。
「……癒し、だと?」
低く、押し殺した声。
ミミーが「ひっ」と縮こまる。
ギルバートは一歩前に出ると、ミミーではなくジェラルドを睨みつけた。
「殿下。訂正していただきたい」
「な、なんだその目は……不敬だぞ!」
「彼女が『鉄の女』? ええ、その通りです。彼女は鉄のように強靭で、鋼のように折れない。だからこそ素晴らしい」
ギルバートは私の肩を抱き寄せ、強く引きつけた。
「私は毎日、膨大な決裁と責任という名の重圧に押し潰されそうになっている。そんな私に必要なのは、甘い言葉で慰めるだけの愛玩動物ではない」
「あ、愛玩動物……っ!?」
「私が必要としているのは、共に重圧を背負い、同じ速度で走り、背中を預けられる『戦友』だ。そしてスコットは、それを完璧にこなしている」
ギルバートの手が、私の肩に食い込むほど強く握られる。
「彼女は私の補佐官であり、私の知恵袋であり、そして私の『心臓』だ。彼女がいなければ、私の政治生命どころか、生物としての生命活動すら危うい」
「なっ……!?」
「殿下、貴方には一生理解できないでしょうね。貴方が求めているのは『飾り』だが、私が求めているのは『命』そのものなのだから」
言い切った。
清々しいほどの、重すぎる愛(?)の告白。
ジェラルドは口をパクパクさせ、言葉を失っている。
私は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
(……言い過ぎだ、ギルバート。心臓扱いされると、不整脈を起こせないではないか)
だが、悪い気はしない。
私は咳払いを一つして、ジェラルドに向き直った。
「お聞きになりましたか、殿下。そういうわけですので、私は非常に忙しいのです。殿下の相手をして『嫉妬ごっこ』に付き合っている暇はありません」
「ぐっ……ぐぬぬ……!」
「それと、ピンキー男爵令嬢」
私はミミーを見た。
彼女はギルバートに拒絶され、顔を青ざめさせている。
「他人の男に色目を使う暇があったら、自分の足元を見た方がいい。……ドレスの裾、破れていますよ?」
「えっ!?」
ミミーが慌ててスカートを見る。
先ほど転びそうになった時に踏んだのだろう。
安物のレースが無惨に裂けていた。
「あらあら。補修費がかさみますね。……まあ、殿下のポケットマネーが尽きていなければいいのですが」
「っ……!!」
ミミーの顔が引きつる。
図星だったか。
私はニヤリと笑い、ギルバートの手を取った。
「行こう、ギルバート。ここにいると生産性が低下する」
「ああ。時間の無駄だったな」
私たちは二人の敗残兵を残し、颯爽と歩き出した。
背後から「覚えてろー!」「キーッ!」という喚き声が聞こえるが、もはや負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
◇
馬車に乗り込むと、ギルバートがふぅと深く息を吐き、ネクタイを緩めた。
「……疲れた。あのアホ王子の相手は、書類仕事の一〇倍疲れる」
「同感だ。カロリーの無駄遣いだったな」
「だが、言いたいことは言った。スッキリしたよ」
ギルバートが横目で私を見る。
「言い過ぎたか? 『心臓』というのは」
「いや。解剖学的には間違っているが、比喩としては悪くない。……それに、君にあそこまで言わせてしまったのは、私の管理不足だ」
「管理不足?」
「ああ。私がもっと早く殿下を黙らせていれば、君の喉を消耗させずに済んだ」
私は懐から、先ほどの栄養ドリンク(紫色)とは別の、普通ののど飴を取り出した。
「ほら。舐めておけ」
「……気が利くな」
ギルバートは飴を受け取り、口に放り込む。
「甘い」
「糖分補給だ。……さて」
私は馬車の窓から、遠ざかる王宮を見つめた。
「ミミー・ピンキーの様子がおかしかったな」
「そうか? いつも通り五月蝿(うるさ)かったが」
「いや。ドレスの破れを指摘した時の反応。……焦りが強すぎた。それに、彼女がつけていたネックレス」
「例の横領疑惑の品か?」
「違う。あれは偽物(イミテーション)だ」
「なんだと?」
ギルバートが驚いて私を見る。
「本物のダイヤの輝きではない。屈折率がガラス玉のそれだった。……殿下がプレゼントしたはずの八〇〇万ゴールドのネックレスは、どこへ行った?」
私は手帳を開き、仮説を書き殴る。
「可能性は二つ。一つは殿下が最初から偽物を贈った。だが、あの見栄っ張りの性格上、それは考えにくい」
「なら、もう一つは?」
「ミミーが換金した、だ」
「……なるほど。借金の穴埋めか」
「ビンゴだろう。だが、それでも足りていないはずだ。彼女の実家のピンキー男爵家は、事業の失敗で火の車だというデータがある」
私はペンを回した。
「金に困った人間は、何をするか分からない。……次はもっと直接的な手段に出てくるぞ」
「直接的とは?」
「窃盗、詐欺、あるいは……」
私はギルバートを見た。
「君という『最大のパトロン』を狙って、ハニートラップを仕掛けてくるかもしれないな」
「……勘弁してくれ。吐き気がする」
ギルバートが本気で嫌そうな顔をした。
「安心しろ。私が防波堤になる。害虫駆除は補佐官の役目だ」
「頼む。……しかしスコット」
「なんだ?」
「ハニートラップより怖いのは、君が過労で倒れることだ。今日はもう仕事をするな」
「は? まだ二二時だぞ? これからが本番……」
「ダメだ。これは宰相命令だ」
ギルバートがいきなり、私の手帳を取り上げた。
「あっ! 私のネタ帳!」
「今夜は寝ろ。私の腕の中で」
「……は?」
「あ、いや……その、比喩だ。安心して眠れる環境を提供するという意味で……」
ギルバートが慌てて言い訳をする。耳が赤い。
私はプッと吹き出した。
「ふふっ。了解した、閣下。では今夜は、君のベッドの空きスペースを占拠させてもらおうか」
「……善処する」
馬車の中、私たちは少しだけ甘い空気に包まれた。
外は冷たい夜風が吹いているが、ここだけは温かい。
だが、私の予想通り、ミミー・ピンキーの破滅へのカウントダウンは始まっていた。
そしてそれは、意外な形で私たちに火の粉となって降りかかることになる。
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