殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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嵐の前の静けさ、という言葉がある。

だが、宰相府においては「決算前の静けさ」の方が恐ろしい。

その日、私は定期監査のために、王宮の地下にある巨大な書庫室――通称『数字の墓場』に潜っていた。

「……ふふふ。楽しいな」

埃っぽい空気すら、私には心地よい。

ここには過去一〇〇年分の王国の収支記録が眠っている。

私はランタンの明かりを頼りに、直近の帳簿と、各省庁から上がってきた決算報告書の突き合わせ作業を行っていた。

「軍事費、誤差なし。公共事業費、セメント代に〇・五パーセントの乖離あり。業者の書き間違いか。……修正」

私の目はスキャナーのように数値を読み取り、脳内で瞬時に照合していく。

ギルバートは「暗いし空気が悪いから私がやる」と言ったが、丁重に断った。

この『間違い探し』の快感は、誰にも譲れない娯楽だからだ。

サクサクと作業が進み、ページをめくる音が小気味よく響く。

だが。

あるページを開いた瞬間、私の手がピタリと止まった。

「……ん?」

違和感。

それは、美しい数式の中に混入した異物のような、生理的な気持ち悪さだった。

「なんだ、この支出は……」

項目名は『特別機密費』。

管轄は王室財務部。

金額は……五〇〇〇万ゴールド。

「はあ? 五〇〇〇万?」

巨額だ。城が一つ建つレベルの金額だ。

しかも、摘要欄には『国家保安上の緊急事案につき、使途は非公開』とある。

「国家保安? ここ数ヶ月、戦争もなければ大規模な災害もない。平和そのものだ。強いて言えば、殿下の頭の中が緊急事案だが」

私は眉をひそめ、承認印を確認した。

そこには、見慣れた紋章印が押されていた。

第二王子、ジェラルド殿下の印だ。

「……またあのアホか」

私は呆れて溜息をついた。

「小遣いを減らされたからといって、ついに機密費に手を出したか? だが、機密費の引き出しには宰相の承認印も必要なはず……」

視線を横にずらす。

そこには、確かに『宰相ギルバート』の印が押されていた。

「……!」

私は目を細めた。

ギルバートの印。一見すると本物に見える。

だが、私の目は誤魔化せない。

「印影の右上の欠け、角度が〇・二度ズレている。インクの滲み具合も、ギルバートが愛用している『ミッドナイト・ブルー』ではなく、市販の『ロイヤル・ブルー』だ」

結論。

偽造だ。

「……面白い」

私は帳簿を閉じた。

誰かが、ギルバートの印を偽造し、殿下を唆して(あるいは殿下の印も勝手に使って)、巨額の資金を引き出した。

そして、その金はどこかへ消えた。

「五〇〇〇万……。ピンキー男爵家の負債総額とぴったり一致するのは、偶然か?」

私は闇の中で冷ややかに笑った。

「雑だ。あまりにも仕事が雑すぎる。こんな子供騙しで、私の監査を抜けられると思ったか?」

私は証拠となるページに付箋を貼り、書庫を出ようとした。

だがその時、私はある可能性に思い当たった。

「待てよ……。犯人がミミーだとして、ただ金を盗んで終わりか?」

彼女の性格は粘着質で、私への恨みは深い。

金を盗むだけなら、足がつかないように工作するはずだ。

だが、この帳簿はあまりにも堂々と『宰相印』を使っている。

まるで「見つけてくれ」と言わんばかりに。

「……狙いは金だけじゃないな」

私は走り出した。

急いで宰相府の執務室に戻らねばならない。

私の勘が警鐘を鳴らしていた。

『罠だ』と。



一方その頃。王宮のとある部屋にて。

「ジェラルド様ぁ、サインありがとうございましたぁ」

ミミー・ピンキーは、甘い声でジェラルドに擦り寄っていた。

ジェラルドは、自分が何にサインしたのかよく分かっていない様子で、きょとんとしている。

「う、うむ。しかしミミー、あの『特別捜査費』の申請書、本当に必要だったのか? ギルバートにも内緒で……」

「当然ですわ! これはスコットお姉様の不正を暴くための、極秘捜査なんですもの!」

ミミーは大嘘をついた。

彼女がジェラルドに書かせたのは、機密費の引き出し申請書だ。

「いいですか、ジェラルド様。スコットお姉様は、宰相府の金を横領しているんです! ギルバート様を騙して、贅沢三昧しているんです!」

「な、なんだと!? あの仕事中毒のスコットが!?」

「ええ。だから、私たちがその証拠を見つけないといけません。そのための調査費用が必要だったんですぅ」

「そ、そうだったのか……! 許せん、スコットめ! 私の金を削っておいて、自分は不正を働いていたとは!」

ジェラルドは単純な正義感(と勘違い)に火がついた。

「で、証拠はあるのか?」

「はい。今、私の『協力者』が、スコットお姉様の執務室から『裏帳簿』を見つけてくる手はずになっていますわ」

ミミーは邪悪な笑みを隠して言った。

実際には、裏帳簿など存在しない。

ミミーが作った「偽の帳簿」を、誰かにスコットの机へ忍ばせている最中なのだ。

さらに、引き出した五〇〇〇万ゴールドの一部を、スコットの私物入れに隠すよう指示もしてある。

(これで完璧……!)

ミミーは心の中で喝采を叫んだ。

五〇〇〇万は借金返済に充てる。

そして罪は全てスコットに擦り付ける。

『横領の犯人はスコット。その証拠に、彼女の机から盗まれた金と裏帳簿が出てきた』

このシナリオが完成すれば、スコットは監獄行き。

ギルバートも監督責任を問われて失脚するだろう。

そうなれば、ジェラルド様は私だけのもの。

国庫も私の財布代わりだ。

「ふふふ……あはははは!」

「ミミー? どうした、急に笑って」

「いえっ! 悪が滅びるのが楽しみで、つい!」

ミミーの瞳は、欲望でギラギラと濁っていた。



私が宰相府に戻った時、執務室は無人だった。

深夜二時。

部下たちは帰宅し、ギルバートも今日は会議で遅くなると言っていた。

静まり返った部屋。

私は自分のデスクに近づいた。

「……空気が動いた形跡がある」

私のデスクの引き出しが、わずかに――ミリ単位だが――ズレていた。

私が退勤する時、引き出しは必ずデスクの端と平行にする。

それが私の美学であり、セキュリティチェックの一環だからだ。

「……触ったな」

私は手袋をはめ、慎重に引き出しを開けた。

一番上の段。

いつもなら文房具が整然と並んでいる場所に、見覚えのない黒い手帳が入っていた。

そして、その下には……。

「……宝石箱?」

開けてみると、煌びやかな宝飾品と、札束が詰め込まれていた。

王家の刻印が入った金貨の束。

「なるほど。これが『証拠品』か」

私は冷静に黒い手帳を開いた。

中身は、私が国庫から不正に資金を流用し、私腹を肥やしているという記録(捏造)だった。

「字が汚い。ミミーの筆跡を真似て、わざと乱雑に書いたつもりだろうが、癖が出ている」

私は呆れて手帳を閉じた。

状況は理解した。

明日、あるいは近いうちに、ジェラルド殿下が衛兵を引き連れてここに乗り込んでくるだろう。

『スコット! 貴様の不正は暴かれた! その机の中を見せろ!』と叫びながら。

そして、この仕込まれた証拠が見つかり、私は断罪される。

冤罪の完成だ。

「……古典的だ。教科書通りの冤罪セットだな」

私は恐怖するどころか、冷めた目でその「証拠品」を見つめた。

普通なら、慌ててこれを処分するか、隠すだろう。

だが、処分すれば「証拠隠滅」と言われる。

隠しても、奴らは徹底的に探すだろう。

「……ギルバート」

背後に気配を感じて、私は振り返らずに名を呼んだ。

いつの間にか、入り口にギルバートが立っていた。

彼は無言で近づき、私の手の中にある偽の帳簿と、引き出しの中の札束を見た。

一瞬で状況を理解したようだ。

「……下劣だな」

彼が吐き捨てるように言った。

「私の妻を犯罪者に仕立て上げようとは。……ミミー・ピンキー、万死に値する」

部屋の温度が急激に下がる。

ギルバートの怒りは沸点を超え、逆に絶対零度になっていた。

「スコット。今すぐこれを処分して、逆に彼女の部屋に埋め返してやろうか?」

「いいや、待て」

私はギルバートを制した。

「それは非効率だ。泥仕合になる」

「では、どうする? 明日には監査が入るぞ」

「入らせればいい」

私はニヤリと笑った。

「罠というのは、作動する瞬間が一番『隙』ができる」

私は引き出しの中の札束を手に取り、パラパラとめくった。

「五〇〇〇万ゴールド……。ミミーが横領した金の一部だな。彼女、借金の返済に全額使わなかったのか?」

「強欲な女だ。手元に現金を残しておきたかったのだろう」

「その強欲さが命取りだ」

私は手帳を取り出し、ある計画を書き込んだ。

「ギルバート。明日の朝、大掛かりなショーを行う」

「ショー?」

「ああ。『断罪劇』だ。ただし、断罪されるのは私ではない」

私の目には、悪役令嬢らしい冷酷な光が宿っていた。

「奴らが望む通り、私は『追い詰められた悪女』を演じてやろう。そして、最高のタイミングで……地獄へ叩き落とす」

「……性格が悪いな」

ギルバートが苦笑する。

「誰の妻だと思っている?」

「違いない」

ギルバートは私の肩に手を置き、力強く言った。

「分かった。私は君のシナリオ通りに動こう。……ただし、君に指一本でも触れようとする輩がいたら、その手は切り落とす」

「過保護だな。……だが、頼りにしている」

夜明け前。

私たちは机の中の「爆弾」をそのままにし、静かに策を練り上げた。

翌日。

予想通り、ジェラルド殿下が意気揚々と衛兵を連れて現れることになる。

「スコティア・ハミルトン! 貴様を横領の容疑で拘束する!!」

その声が、私にとっての『開戦の合図』だった。
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