殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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嵐のような断罪劇から数日。

王宮内は、ジェラルド殿下の廃嫡とバロンの逮捕というビッグニュースで持ち切りだった。

だが、宰相府の空気は至って平常運転――のはずだった。

「……九万、八〇〇……。いや、九万、九〇〇……」

私は書類をめくりながら、隣に座るギルバートに視線を向けた。

彼は今、地方都市のインフラ整備予算案を確認しているはずだ。

だが、そのペン先は五分前から同じ場所で止まっている。

「ギルバート。報告しろ。その項目の精査にこれほどの時間を要する理由は? 地質調査のデータに不備があったか?」

私が声をかけると、ギルバートは「ハッ」としたように顔を上げた。

「……いや。不備はない。ただ、少し……考え事をしていた」

「考え事? 業務時間中にか?」

私は懐中時計をパチンと開いた。

「君の今の停止時間は三〇〇秒。これは、一日の業務効率を約三パーセント低下させる重大なロスだ。……熱でもあるのか? またお姫様抱っこが必要か?」

「……いや、熱はない。それと、抱っこの件はもう墓場まで封印してくれと言ったはずだ」

ギルバートは眼鏡のブリッジを押し上げ、気まずそうに目を逸らした。

最近の彼は、明らかにおかしい。

私と目が合うたびに視線を泳がせ、不自然に咳払いをし、あまつさえ私の髪に糸屑がついているだけで動揺する。

「閣下、コーヒーをお持ちしましたー」

ルークがひょっこりと顔を出す。

彼は私たちの様子を伺い、ニヤニヤしながらカップを置いた。

「スコット様。閣下の効率が落ちているのは、バグのせいじゃないですよ。きっと『春』が来たんです」

「春? 今は初夏だが。季節感覚のバグか、ルーク?」

「違いますよぉ! 心理的な春です! 閣下は今、スコット様を直視できないほど『意識』しちゃってるんですよ!」

ルークの言葉に、ギルバートが盛大に咽(む)せた。

「ゴホッ、ゴホッ! ルーク、余計なことを言うな! 仕事に戻れ!」

「はーい、お邪魔虫は退散しまーす。頑張ってくださいね、閣下!」

ルークが嵐のように去っていく。

執務室に残されたのは、気まずい沈黙と、顔を赤くした宰相。

そして、首を傾げる私だ。

「……意識、だと? ギルバート、私に何か隠し事でもしているのか? まさか、私に内緒で新たな税制案でも練っているのでは?」

「……なぜそうなる」

ギルバートは深いため息をつき、ペンを置いた。

「スコット。……君は、自分のことをどう思っている?」

「定義を。身体的特徴か、あるいは能力値か?」

「……全部だ。特に、私の隣にいることについてだ」

私は少し考えた。

「そうだな。君の隣は、物理的にも精神的にも『最適解』だ。思考の歩調が合い、無駄な説明を省ける。これほど高効率なパートナーシップは他に存在しないだろう」

「……パートナーシップ、か」

ギルバートの表情に、微かな陰りが差す。

「ああ、そうだ。ビジネスパートナーとしては、我々は完璧だ。だが、それだけか?」

「それだけとは? 他にも要素があるか? ああ、婚姻契約に基づいた家事の分担、および社会的体裁の維持……」

「違う」

ギルバートが立ち上がり、私のデスクに手を突いた。

彼の顔が、至近距離まで迫る。

銀縁眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど強く私を射抜いた。

「私は、君のことが『好き』だ」

「……は?」

私は瞬きをした。

「『好き』? 私の実務能力が、か? それなら既に把握している。君も度々口にしているしな」

「能力じゃない。君という人間、そのものだ」

ギルバートの声は低く、そして熱を持っていた。

「書類をめくる指先。数字を追いかける時の真剣な眼差し。私の体調を案じて(お姫様抱っこで)運んでくれる強引さ。……そのすべてが、愛おしい」

「…………」

私は黙り込んだ。

脳内の演算回路が、一瞬でオーバーヒートを起こす。

『好き』。

その単語の定義を、私は「有用であることの肯定」だと思っていた。

だが、今の彼の熱量、そしてこの心臓の鼓動の加速。

これは、論理では説明できない事象だ。

「……非効率だ」

私は絞り出すように言った。

「君ほどの男が、私のような『鉄の女』に色恋沙汰を抱くなど。感情にリソースを割けば、国の運営に支障が出る」

「支障など出ない。むしろ、君への想いが私の原動力だ」

ギルバートは、私の頬にそっと触れた。

「スコット。私は君を、ただの補佐官として見ていたつもりだった。有能な道具、便利な相棒……。だが、あの日、君が断罪劇で凛として戦う姿を見て、気づいてしまった」

「何を」

「私は、君なしでは生きていけない。……仕事の意味でも、一人の男としての人生という意味でもだ」

ギルバートの顔が、さらに近づく。

唇が触れそうな距離。

私は逃げるべきだった。

「仕事が遅れる」と一蹴すべきだった。

だが、私の体は、まるで強力な磁石に吸い寄せられるように、動けなかった。

(……おかしい。私の回避プログラムが作動しない。むしろ、この距離感を『心地よい』と判断している……?)

「スコット。……君はどうなんだ?」

「私は……」

私は、彼の胸板に手を置いた。

トクン、トクン。

彼の心臓もまた、私と同じように……いや、私以上に激しく脈打っていた。

「……君の隣にいると、私の計算精度が三パーセント落ちる。それは事実だ」

「……そうか」

「だが。……その三パーセントのロスを、君が埋めてくれるなら」

私は目を逸らし、小声で付け加えた。

「……悪くない、投資だと思っている」

ギルバートが目を見開いた。

そして、耐えきれないといった風に、私を強く抱き寄せた。

「っ……!!」

「十分だ。……今の言葉だけで、私はあと一〇〇年は徹夜できる」

「死ぬぞ。それは不合理だ」

私は彼の背中に手を回した。

彼の体温が、私の冷え切った理論を溶かしていく。

愛。

それは、私の辞書にはなかった言葉。

だが、ギルバートという「最大公約数」を見つけた今、その意味がようやく数式として成立し始めた気がした。

「……ギルバート」

「なんだ」

「抱擁は、一五秒で切り上げろ。一六秒目からは……休憩時間としてカウントするぞ」

「……ははっ。分かったよ、鬼教官」

私たちは、静かな執務室で、ほんの少しだけ長く「休憩」をとった。

それが、私たち二人の「恋」が、業務提携から真のパートナーシップへと昇華した瞬間だった。

だが、その直後。

「あ、いい雰囲気のところすみませーん! 陛下から『お二人のイチャイチャを観測したら即報告せよ』という勅命が出てまして!」

「……ルーク」

「ルーク補佐官」

「「死刑(クビ)だ」」

「ひぃぃっ! 愛の共同作業による処罰だぁぁぁ!」

私たちの日常は、やはり騒がしく、そして愛すべき非効率に満ちていた。
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