殿下、私の名前わかりますか?婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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深夜の宰相府。

ルークたち部下を(強制的に)帰宅させた後、執務室には私とギルバートの二人だけが残っていた。

窓の外では月が中天に掛かり、銀色の光を室内に投げ入れている。

私は溜まっていた地方自治体からの陳情書を仕分けしながら、ふと隣の気配が「静止」していることに気づいた。

「……ギルバート。二分一五秒間、君の手が止まっている。昨日の『三パーセントのロス』の件、もう忘れたのか?」

私はペンを置かずに指摘した。

すると、ギルバートは深く重いため息をつき、椅子を回転させて私の方を向いた。

「……スコット。仕事の話ではない。非常に重要な、人生の決断に関わる話をしたい」

「人生の決断? ……なるほど。ついに王室直属の監査法人を立ち上げる件か? 確かにあれは国家の根幹に関わる」

「違う。もっと……個人的な、我々二人の将来の話だ」

ギルバートの表情は、建国以来の危機に直面した時よりも真剣だった。

彼はゆっくりと立ち上がり、私のデスクの前まで歩いてくると、不自然なほど恭しい所作で私の手を取った。

「スコット。……君は、私の隣で働くことをどう思っている?」

「先ほども言っただろう。最高効率だ。君以外の人間と組むなど、旧式の算盤(そろばん)で弾道計算をするような苦行だ」

「……では、その『最高効率』を、期限なしで継続したいとは思わないか?」

ギルバートの指先が、わずかに震えている。

私は眉をひそめ、彼の意図を解析しようと脳をフル回転させた。

期限なしでの継続。

つまり、現在の有期雇用契約から、無期雇用への転換……。

「……ギルバート。君は今、私に『終身雇用契約』を打診しているのか?」

「…………。ああ、ある意味ではその通りだ」

ギルバートは一瞬、天を仰いだが、すぐに覚悟を決めたような目で私を見つめた。

「私は、君に一生、私の隣にいてほしい。朝起きた瞬間から、深夜に書類の山に埋もれる瞬間まで。……私の人生の全工程を、君と共に歩みたいんだ」

銀縁眼鏡の奥で、彼の瞳が潤んでいるように見えた。

私は衝撃を受けた。

一生。全工程。

それはつまり、退職金の概念すら存在しない、究極の拘束契約……。

「……本気か、ギルバート? それは、労働基準法を遥かに超越した、過酷な契約条件だぞ」

「ああ。代償として、私の全財産、全権限、そしてこの心臓の鼓動一つに至るまで、君に捧げることを約束しよう。……受けてくれるか?」

私は沈黙した。

脳内では瞬時に、メリットとデメリットの比較検討が始まる。

メリット:ギルバートという最高のリソースを独占できる。王国の財政に生涯関与できる。
デメリット:プライベートという名の非生産時間が極限まで削られる。

……いや、待て。

彼といる時間は、私にとって最も生産性が高い時間だ。

ならば、それを生涯保障されるということは、私の人生の総生産量が最大化されることを意味する。

「……合理的だな」

私は静かに口を開いた。

「ギルバート。君の提示した『生涯独占業務提携案』……。謹んで受諾しよう」

「……っ! 本当か、スコット!」

ギルバートの顔に、爆発的な喜びが広がる。

彼は私の手を強く握りしめ、そのまま私を抱き寄せようとした。

だが、私は人差し指を立てて、彼の胸元を制した。

「ただし。契約条件の細部については詰めさせてもらうぞ。まず、住居は現在の宰相邸を本社機能とし、私物化(プライベート)エリアと執務エリアの動線を一五パーセント改善すること」

「……え、ああ、分かった」

「次に、育児休暇等が発生した際の業務委託先の選定。および、我々の老後における年金原資の運用計画。これらを網羅した『婚姻(という名の事業計画)書』を、早急に作成する必要がある」

私は手帳を取り出し、サラサラと項目を書き殴り始めた。

「よし。今夜は徹夜で、この生涯契約書の草案を作成しよう。ギルバート、君は条約関連の書式を担当しろ。私は財務諸表を作る」

「…………スコット」

ギルバートは力なく肩を落とし、苦笑いを浮かべた。

「君は本当に……世界一、情緒のないプロポーズの受け方をする女だな」

「情緒で腹は膨らまない。だが、信頼と契約があれば、国は富む」

私は顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめた。

「……それに。君以外の男に、私の全人生を管理(マネジメント)させるつもりはない。それは、私にとっても、この国にとっても、最大の損失だからな」

不器用な、私なりの愛の告白。

ギルバートは一瞬呆然とした後、観念したように笑い、私の額に軽く口づけした。

「……参ったな。一生、君の策謀(リード)に振り回されることになりそうだ」

「光栄に思え。私のコンサル料は高いぞ」

「ああ。一生かけて支払わせてもらうよ」

こうして、深夜の執務室で、一通の(非常に実務的な)「プロポーズ(仮)」が成立した。

私たちはそのまま、朝日が昇るまで、愛を語らう代わりに「今後の家族計画に伴う予算推移グラフ」を作成し続けたのだった。

扉の外で、忘れ物を取りに戻ってきて一部始終を見ていたルークが、遠い目で呟いていた。

「……あんなに甘くないプロポーズ、初めて見た。でも、あの二人にはあれが一番お似合いなんだろうなぁ……」

ルークの溜息は、夜の帳(とばり)に静かに消えていった。
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