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ヴィンセント殿下とリンゴを分け合ってから数日。
わたくしの別荘の門前に、今度は騎士一人ではなく、一国の主を象徴する黄金の紋章が入った馬車が停まりました。
「……メアリ。わたくしの今日の装いに、失礼な点はありませんわね?」
「はい、お嬢様。これ以上なく『有能で隙のない』公爵令嬢に見えますわ」
わたくしは鏡の前で背筋を伸ばし、玄関へと向かいました。
扉を開けると、そこには護衛も連れず、ひどく疲れ切った顔をした国王陛下が立っておいででした。
「陛下。……わざわざこのような場所まで、お忍びでいらっしゃるとは」
「……リーマ嬢。すまないが、少し座らせてくれ。今の王宮は、お前がいた頃の整然とした面影が微塵もない。あそこは今や、書類でできた魔窟だ」
わたくしは陛下を応接室へと案内しました。
そこには、すでに「当然のように」ヴィンセント殿下が座っており、わたくしのために淹れさせたお茶を勝手に飲んでいました。
「おや、国王陛下。息子さんの不始末の謝罪に、わざわざ腰を上げられたのですか?」
「ヴィンセント殿下、貴公もいたか。……ああ、その通りだ。リーマ嬢、まずは息子のセドリックが送ったあの無礼な騎士の件、深く詫びよう」
陛下は深く椅子に身を沈め、差し出された紅茶を一口すすって、ようやく人心地ついたようでした。
「セドリックが勝手に署名したあの書面は、すべて無効だ。それどころか、あ奴は私に無断で王印を持ち出そうとして、今は執務室に監禁されている」
「監禁、ですか。……まあ、あの方ならやりかねませんわね」
わたくしは冷淡に答えました。
情など、あの日エビのカナッペと一緒に飲み込んでしまいましたもの。
「リーマ嬢。……いや、リーマ。お前に戻ってきてほしいと言うのは、もはや私の傲慢だろう。だが、一つだけ確認させてくれ。……お前は本当に、この国の王太子妃としての未来を捨て、この隣国の王子の下へ行くつもりなのか?」
陛下が鋭い視線を向けました。
わたくしは一瞬、窓の外に広がる穏やかな湖を眺め、それから陛下を真っ直ぐに見返しました。
「陛下。わたくしが愛していたのは、セドリック殿下ではなく、この国の『秩序』でした」
「……秩序、か」
「はい。わたくしは、淀みなく流れる政務を、正当に評価される努力を、そして論理に基づいた対話を愛しておりました。ですが、セドリック殿下はそのすべてを『悪女の嫉妬』という短絡的な言葉で踏みにじられた。……わたくしにとって、彼はもはや、修正不可能なバグと同じですわ」
わたくしの言葉に、ヴィンセント殿下が「クスクス」と喉を鳴らしました。
陛下は苦笑いを浮かべ、天を仰ぎました。
「バグ、か。……厳しいな。だが、事実だ」
「現在、ヴィンセント殿下はわたくしの能力を必要としてくださっています。わたくしが提示した『週休三日』という破格の条件も呑んでくださいました。陛下、わたくしは『報われない奉仕』よりも『対等な契約』を選びたいのです」
「……わかった。お前の意志は、石よりも固いようだ。ならば、国王としてではなく、一人の年長者として言おう。……リーマ、幸せになれ。お前を正当に扱えなかったこの国を、どうか恨まないでやってくれ」
陛下はそう言うと、懐から一通の親書を取り出しました。
「これは、ヴィンセント殿下。貴公の父君への返書だ。リーマ・フォルテシモの外交官としての受け入れ、および貴殿との『協力関係』を正式に承認する」
「……! それは、ありがたい。陛下も話が分かる」
ヴィンセント殿下が初めて真面目な顔で、陛下と握手を交わしました。
これでわたくしは、名実ともに「隣国の賓客」となり、セドリック殿下が手出しできない存在となったのです。
陛下が帰路につかれた後、わたくしはドッと疲れが押し寄せてくるのを感じました。
「……これで、ようやく第一章が終わりですわね」
「何を言っているんだい、リーマ。ここからが本番だよ。君を正式に俺のパートナーとして迎える準備が整ったんだ」
ヴィンセント殿下がわたくしの肩を抱き寄せ、耳元で囁きました。
その距離の近さに、わたくしの心臓が、論理的ではない鼓動を刻み始めます。
「……殿下。まだ契約の詳細は詰めておりませんわよ。特に、隣国へ移住した後のわたくしの居室の広さと、専属料理人の雇用条件について……」
「ははは! そんなことは後でいい。今はただ、この勝利を祝おうじゃないか」
「ダメです。不透明な契約は、後々のトラブルの元ですわ」
わたくしがヴィンセント殿下の胸を押し返すと、彼は観念したように両手を上げました。
しかし、その瞳の中には、確かな熱が宿っていました。
「分かった、分かったよ。……だが、一つだけ先に契約しておこう。……リーマ、君はもう、一人で戦わなくていい。俺が君の矛になり、君が俺の盾になる。……この契約は、生涯無効にしない。いいかい?」
「……。検討、させていただきますわ」
わたくしは顔が赤くなるのを隠すように、空になったカップを片付け始めました。
論理と数字で生きてきたわたくしの人生に、どうやら計算不可能な変数が、本格的に入り込んできたようです。
こうして、わたくしの「断罪」は、王道的な復讐劇というよりは、新しい人生の「契約締結」という形で、一つの区切りを迎えたのでした。
わたくしの別荘の門前に、今度は騎士一人ではなく、一国の主を象徴する黄金の紋章が入った馬車が停まりました。
「……メアリ。わたくしの今日の装いに、失礼な点はありませんわね?」
「はい、お嬢様。これ以上なく『有能で隙のない』公爵令嬢に見えますわ」
わたくしは鏡の前で背筋を伸ばし、玄関へと向かいました。
扉を開けると、そこには護衛も連れず、ひどく疲れ切った顔をした国王陛下が立っておいででした。
「陛下。……わざわざこのような場所まで、お忍びでいらっしゃるとは」
「……リーマ嬢。すまないが、少し座らせてくれ。今の王宮は、お前がいた頃の整然とした面影が微塵もない。あそこは今や、書類でできた魔窟だ」
わたくしは陛下を応接室へと案内しました。
そこには、すでに「当然のように」ヴィンセント殿下が座っており、わたくしのために淹れさせたお茶を勝手に飲んでいました。
「おや、国王陛下。息子さんの不始末の謝罪に、わざわざ腰を上げられたのですか?」
「ヴィンセント殿下、貴公もいたか。……ああ、その通りだ。リーマ嬢、まずは息子のセドリックが送ったあの無礼な騎士の件、深く詫びよう」
陛下は深く椅子に身を沈め、差し出された紅茶を一口すすって、ようやく人心地ついたようでした。
「セドリックが勝手に署名したあの書面は、すべて無効だ。それどころか、あ奴は私に無断で王印を持ち出そうとして、今は執務室に監禁されている」
「監禁、ですか。……まあ、あの方ならやりかねませんわね」
わたくしは冷淡に答えました。
情など、あの日エビのカナッペと一緒に飲み込んでしまいましたもの。
「リーマ嬢。……いや、リーマ。お前に戻ってきてほしいと言うのは、もはや私の傲慢だろう。だが、一つだけ確認させてくれ。……お前は本当に、この国の王太子妃としての未来を捨て、この隣国の王子の下へ行くつもりなのか?」
陛下が鋭い視線を向けました。
わたくしは一瞬、窓の外に広がる穏やかな湖を眺め、それから陛下を真っ直ぐに見返しました。
「陛下。わたくしが愛していたのは、セドリック殿下ではなく、この国の『秩序』でした」
「……秩序、か」
「はい。わたくしは、淀みなく流れる政務を、正当に評価される努力を、そして論理に基づいた対話を愛しておりました。ですが、セドリック殿下はそのすべてを『悪女の嫉妬』という短絡的な言葉で踏みにじられた。……わたくしにとって、彼はもはや、修正不可能なバグと同じですわ」
わたくしの言葉に、ヴィンセント殿下が「クスクス」と喉を鳴らしました。
陛下は苦笑いを浮かべ、天を仰ぎました。
「バグ、か。……厳しいな。だが、事実だ」
「現在、ヴィンセント殿下はわたくしの能力を必要としてくださっています。わたくしが提示した『週休三日』という破格の条件も呑んでくださいました。陛下、わたくしは『報われない奉仕』よりも『対等な契約』を選びたいのです」
「……わかった。お前の意志は、石よりも固いようだ。ならば、国王としてではなく、一人の年長者として言おう。……リーマ、幸せになれ。お前を正当に扱えなかったこの国を、どうか恨まないでやってくれ」
陛下はそう言うと、懐から一通の親書を取り出しました。
「これは、ヴィンセント殿下。貴公の父君への返書だ。リーマ・フォルテシモの外交官としての受け入れ、および貴殿との『協力関係』を正式に承認する」
「……! それは、ありがたい。陛下も話が分かる」
ヴィンセント殿下が初めて真面目な顔で、陛下と握手を交わしました。
これでわたくしは、名実ともに「隣国の賓客」となり、セドリック殿下が手出しできない存在となったのです。
陛下が帰路につかれた後、わたくしはドッと疲れが押し寄せてくるのを感じました。
「……これで、ようやく第一章が終わりですわね」
「何を言っているんだい、リーマ。ここからが本番だよ。君を正式に俺のパートナーとして迎える準備が整ったんだ」
ヴィンセント殿下がわたくしの肩を抱き寄せ、耳元で囁きました。
その距離の近さに、わたくしの心臓が、論理的ではない鼓動を刻み始めます。
「……殿下。まだ契約の詳細は詰めておりませんわよ。特に、隣国へ移住した後のわたくしの居室の広さと、専属料理人の雇用条件について……」
「ははは! そんなことは後でいい。今はただ、この勝利を祝おうじゃないか」
「ダメです。不透明な契約は、後々のトラブルの元ですわ」
わたくしがヴィンセント殿下の胸を押し返すと、彼は観念したように両手を上げました。
しかし、その瞳の中には、確かな熱が宿っていました。
「分かった、分かったよ。……だが、一つだけ先に契約しておこう。……リーマ、君はもう、一人で戦わなくていい。俺が君の矛になり、君が俺の盾になる。……この契約は、生涯無効にしない。いいかい?」
「……。検討、させていただきますわ」
わたくしは顔が赤くなるのを隠すように、空になったカップを片付け始めました。
論理と数字で生きてきたわたくしの人生に、どうやら計算不可能な変数が、本格的に入り込んできたようです。
こうして、わたくしの「断罪」は、王道的な復讐劇というよりは、新しい人生の「契約締結」という形で、一つの区切りを迎えたのでした。
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