婚約破棄で純愛アップデート、偽装婚約から真実の婚約へ

恋の箱庭

文字の大きさ
10 / 27

10

しおりを挟む
アルトワ王国での生活が始まって一週間。
わたくしの仕事場となったヴィンセント殿下の執務室は、もはや「神殿」のような静謐さと秩序を取り戻しておりました。
以前の、どこに何があるか分からぬ書類の樹海は、わたくしがすべて焼き払い……いえ、厳密なインデックス管理下に置きました。

「……完璧ですわ。この一分一秒の無駄もない空間。これこそが、知的生産活動の最低条件です」

わたくしが満足げにティーカップを傾けていると、バタバタと騒がしい足音と共にヴィンセント殿下が駆け込んできました。

「リーマ! 大変だ、助けてくれ。……いや、君の力を貸してほしい」

「殿下。わたくしの執務室に、そのように『騒音』を持ち込むのは、集中力を削ぐ非効率的な行為ですわ。……して、今度はどのようなゴミの処理ですの?」

「ははは、相変わらず手厳しいね。……実は今、隣の商権国家から派遣された特使と、港の使用権についての最終交渉をしているんだが……。相手が提示してきた契約書が、あまりにも『難解』すぎて、うちの法務官たちが全員頭を抱えてしまってね」

わたくしは、差し出された厚さ三センチはあろうかという契約書の束を、指先で受け取りました。

「難解? いいえ、殿下。……これは『難解』ではなく、単なる『悪意の隠蔽』ですわ」

わたくしは、パラパラとページをめくり始めました。
わずか十秒。わたくしの目は、その「毒」を瞬時に見抜きました。

「……第百二十八条の注釈。これ、文字のフォントを意図的に小さくして、さらに二重否定を三回繰り返していますわね。要約すると『港が壊れても修理代はすべてアルトワ王国持ちだが、利益はすべて特使側が受け取る』という、ただの恐喝です」

「……。それを十秒で見抜くのかい?」

ヴィンセント殿下が呆然とする中、わたくしは立ち上がりました。
ちょうど、少し体を動かしたいと思っていたところです。

「案内してくださる? その『言葉の迷宮』に隠れて、わが国……失礼、貴国の富を掠め取ろうとしているネズミたちに、正しい文法の使い方を教えて差し上げますわ」

会議室の重厚な扉を開けると、そこにはふんぞり返った中年の特使と、冷や汗を流すアルトワ王国の文官たちがおりました。

「いやあ、ヴィンセント殿下。ようやくお戻りで。……おや、そちらの美しき令嬢は? まさか、交渉に彩りを添えるための『飾り』ですかな?」

特使がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべました。
わたくしは、その笑みを真っ向から受け止め、最高に優雅な、そして最高に冷ややかな笑みを返しました。

「初めまして。飾りではなく、あなたの『言葉の粗大ゴミ』を片付けに参りました、リーマ・フォルテシモです」

わたくしは特使の目の前に、先ほどの契約書をドサリと叩きつけました。

「特使様。……この契約書、第十四条の『関税の特別控除』の項目ですが、引用されている法案の番号が、三年前の廃止された古い法律になっていますわよ。……もしかして、あなたの国では、時間を遡って貿易をする魔法でも開発されましたの?」

「な、……な、……っ!?」

特使の顔が、一瞬で引きつりました。

「さらに、このページ。……インクの滲みのように見えますが、これ、極小の魔法文字で『契約締結後、アルトワ王国は全権利を放棄する』と刻まれていますわね。……詐欺、それとも国家間での窃盗? どちらの罪状で訴えられるのがお好みかしら?」

「そ、……そんなはずは! それは単なる印刷のミスで……!」

「ミス? あら、ミスが十六箇所も重なるなんて、よほど無能な印刷機をお使いですのね。……よろしければ、わたくしが今からこの場で、あなたの国の『不当利得』をすべて算出した告発状を作成いたしましょうか? 筆記速度には自信がありますのよ」

わたくしが羽ペンを抜き放ち、流れるような動作で白紙に数式を書き込み始めると、特使はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がりました。

「……も、申し訳ございませんでした! 契約書は今すぐ持ち帰り、修正……いえ、破棄いたします! どうか、告発だけはご勘弁を!」

特使は書類をひっつかむと、転がるように部屋から逃げ出していきました。
後に残されたのは、開いた口が塞がらないアルトワ王国の文官たちと、満足げに腕を組むヴィンセント殿下だけ。

「……お粗末様でした。殿下、あのような低レベルな詐欺師に時間を割くのは、時間の浪費ですわ」

「リーマ。……君、本当に人間だよね? 実は数字を食べる妖精か何かなんじゃないのかい?」

ヴィンセント殿下が、わたくしの手を取って、感嘆の吐息をもらしました。

「……。殿下、その表現は非論理的です。わたくしはただ、正当な権利を守っただけですわ」

「いやあ、今の君は女神に見えたよ。……特に、相手を追い詰める時の、あの悪女のような美しい微笑。……俺、本気で君に惚れ直してしまった」

ヴィンセント殿下が、文官たちの前だというのに、わたくしの手の甲に情熱的なキスを落としました。
わたくしは、慌てて手を引き抜きました。

「……公衆の面前での過剰なスキンシップは、業務効率を著しく下げます。……あとで厳重に抗議させていただきますわ」

「楽しみにしてるよ。……抗議という名の『密談』をね」

ヴィンセント殿下の妖艶な笑みに、わたくしの心臓が、またしても計算不可能な不整脈を起こしました。
どうやら隣国での仕事は、書類の整理よりも、この雇用主の「情熱的な不規則性」を制御することの方が、はるかに難易度が高いようですわ。

こうして、わたくしの隣国無双——第一戦は、圧倒的な勝利で幕を閉じたのでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。 婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」 静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。 夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。 「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」 彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。

報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を

さくたろう
恋愛
 その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。  少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。 20話です。小説家になろう様でも公開中です。

お飾りの婚約者で結構です! 殿下のことは興味ありませんので、お構いなく!

にのまえ
恋愛
 すでに寵愛する人がいる、殿下の婚約候補決めの舞踏会を開くと、王家の勅命がドーリング公爵家に届くも、姉のミミリアは嫌がった。  公爵家から一人娘という言葉に、舞踏会に参加することになった、ドーリング公爵家の次女・ミーシャ。  家族の中で“役立たず”と蔑まれ、姉の身代わりとして差し出された彼女の唯一の望みは――「舞踏会で、美味しい料理を食べること」。  だが、そんな慎ましい願いとは裏腹に、  舞踏会の夜、思いもよらぬ出来事が起こりミーシャは前世、読んでいた小説の世界だと気付く。

始まりはよくある婚約破棄のように

喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」 学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。 ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。 第一章「婚約者編」 第二章「お見合い編(過去)」 第三章「結婚編」 第四章「出産・育児編」 第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

不機嫌な侯爵様に、その献身は届かない

翠月 瑠々奈
恋愛
サルコベリア侯爵夫人は、夫の言動に違和感を覚え始める。 始めは夜会での振る舞いからだった。 それがさらに明らかになっていく。 機嫌が悪ければ、それを周りに隠さず察して動いてもらおうとし、愚痴を言ったら同調してもらおうとするのは、まるで子どものよう。 おまけに自分より格下だと思えば強気に出る。 そんな夫から、とある仕事を押し付けられたところ──?

処理中です...