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アルトワ王国での生活が始まって一週間。
わたくしの仕事場となったヴィンセント殿下の執務室は、もはや「神殿」のような静謐さと秩序を取り戻しておりました。
以前の、どこに何があるか分からぬ書類の樹海は、わたくしがすべて焼き払い……いえ、厳密なインデックス管理下に置きました。
「……完璧ですわ。この一分一秒の無駄もない空間。これこそが、知的生産活動の最低条件です」
わたくしが満足げにティーカップを傾けていると、バタバタと騒がしい足音と共にヴィンセント殿下が駆け込んできました。
「リーマ! 大変だ、助けてくれ。……いや、君の力を貸してほしい」
「殿下。わたくしの執務室に、そのように『騒音』を持ち込むのは、集中力を削ぐ非効率的な行為ですわ。……して、今度はどのようなゴミの処理ですの?」
「ははは、相変わらず手厳しいね。……実は今、隣の商権国家から派遣された特使と、港の使用権についての最終交渉をしているんだが……。相手が提示してきた契約書が、あまりにも『難解』すぎて、うちの法務官たちが全員頭を抱えてしまってね」
わたくしは、差し出された厚さ三センチはあろうかという契約書の束を、指先で受け取りました。
「難解? いいえ、殿下。……これは『難解』ではなく、単なる『悪意の隠蔽』ですわ」
わたくしは、パラパラとページをめくり始めました。
わずか十秒。わたくしの目は、その「毒」を瞬時に見抜きました。
「……第百二十八条の注釈。これ、文字のフォントを意図的に小さくして、さらに二重否定を三回繰り返していますわね。要約すると『港が壊れても修理代はすべてアルトワ王国持ちだが、利益はすべて特使側が受け取る』という、ただの恐喝です」
「……。それを十秒で見抜くのかい?」
ヴィンセント殿下が呆然とする中、わたくしは立ち上がりました。
ちょうど、少し体を動かしたいと思っていたところです。
「案内してくださる? その『言葉の迷宮』に隠れて、わが国……失礼、貴国の富を掠め取ろうとしているネズミたちに、正しい文法の使い方を教えて差し上げますわ」
会議室の重厚な扉を開けると、そこにはふんぞり返った中年の特使と、冷や汗を流すアルトワ王国の文官たちがおりました。
「いやあ、ヴィンセント殿下。ようやくお戻りで。……おや、そちらの美しき令嬢は? まさか、交渉に彩りを添えるための『飾り』ですかな?」
特使がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべました。
わたくしは、その笑みを真っ向から受け止め、最高に優雅な、そして最高に冷ややかな笑みを返しました。
「初めまして。飾りではなく、あなたの『言葉の粗大ゴミ』を片付けに参りました、リーマ・フォルテシモです」
わたくしは特使の目の前に、先ほどの契約書をドサリと叩きつけました。
「特使様。……この契約書、第十四条の『関税の特別控除』の項目ですが、引用されている法案の番号が、三年前の廃止された古い法律になっていますわよ。……もしかして、あなたの国では、時間を遡って貿易をする魔法でも開発されましたの?」
「な、……な、……っ!?」
特使の顔が、一瞬で引きつりました。
「さらに、このページ。……インクの滲みのように見えますが、これ、極小の魔法文字で『契約締結後、アルトワ王国は全権利を放棄する』と刻まれていますわね。……詐欺、それとも国家間での窃盗? どちらの罪状で訴えられるのがお好みかしら?」
「そ、……そんなはずは! それは単なる印刷のミスで……!」
「ミス? あら、ミスが十六箇所も重なるなんて、よほど無能な印刷機をお使いですのね。……よろしければ、わたくしが今からこの場で、あなたの国の『不当利得』をすべて算出した告発状を作成いたしましょうか? 筆記速度には自信がありますのよ」
わたくしが羽ペンを抜き放ち、流れるような動作で白紙に数式を書き込み始めると、特使はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がりました。
「……も、申し訳ございませんでした! 契約書は今すぐ持ち帰り、修正……いえ、破棄いたします! どうか、告発だけはご勘弁を!」
特使は書類をひっつかむと、転がるように部屋から逃げ出していきました。
後に残されたのは、開いた口が塞がらないアルトワ王国の文官たちと、満足げに腕を組むヴィンセント殿下だけ。
「……お粗末様でした。殿下、あのような低レベルな詐欺師に時間を割くのは、時間の浪費ですわ」
「リーマ。……君、本当に人間だよね? 実は数字を食べる妖精か何かなんじゃないのかい?」
ヴィンセント殿下が、わたくしの手を取って、感嘆の吐息をもらしました。
「……。殿下、その表現は非論理的です。わたくしはただ、正当な権利を守っただけですわ」
「いやあ、今の君は女神に見えたよ。……特に、相手を追い詰める時の、あの悪女のような美しい微笑。……俺、本気で君に惚れ直してしまった」
ヴィンセント殿下が、文官たちの前だというのに、わたくしの手の甲に情熱的なキスを落としました。
わたくしは、慌てて手を引き抜きました。
「……公衆の面前での過剰なスキンシップは、業務効率を著しく下げます。……あとで厳重に抗議させていただきますわ」
「楽しみにしてるよ。……抗議という名の『密談』をね」
ヴィンセント殿下の妖艶な笑みに、わたくしの心臓が、またしても計算不可能な不整脈を起こしました。
どうやら隣国での仕事は、書類の整理よりも、この雇用主の「情熱的な不規則性」を制御することの方が、はるかに難易度が高いようですわ。
こうして、わたくしの隣国無双——第一戦は、圧倒的な勝利で幕を閉じたのでした。
わたくしの仕事場となったヴィンセント殿下の執務室は、もはや「神殿」のような静謐さと秩序を取り戻しておりました。
以前の、どこに何があるか分からぬ書類の樹海は、わたくしがすべて焼き払い……いえ、厳密なインデックス管理下に置きました。
「……完璧ですわ。この一分一秒の無駄もない空間。これこそが、知的生産活動の最低条件です」
わたくしが満足げにティーカップを傾けていると、バタバタと騒がしい足音と共にヴィンセント殿下が駆け込んできました。
「リーマ! 大変だ、助けてくれ。……いや、君の力を貸してほしい」
「殿下。わたくしの執務室に、そのように『騒音』を持ち込むのは、集中力を削ぐ非効率的な行為ですわ。……して、今度はどのようなゴミの処理ですの?」
「ははは、相変わらず手厳しいね。……実は今、隣の商権国家から派遣された特使と、港の使用権についての最終交渉をしているんだが……。相手が提示してきた契約書が、あまりにも『難解』すぎて、うちの法務官たちが全員頭を抱えてしまってね」
わたくしは、差し出された厚さ三センチはあろうかという契約書の束を、指先で受け取りました。
「難解? いいえ、殿下。……これは『難解』ではなく、単なる『悪意の隠蔽』ですわ」
わたくしは、パラパラとページをめくり始めました。
わずか十秒。わたくしの目は、その「毒」を瞬時に見抜きました。
「……第百二十八条の注釈。これ、文字のフォントを意図的に小さくして、さらに二重否定を三回繰り返していますわね。要約すると『港が壊れても修理代はすべてアルトワ王国持ちだが、利益はすべて特使側が受け取る』という、ただの恐喝です」
「……。それを十秒で見抜くのかい?」
ヴィンセント殿下が呆然とする中、わたくしは立ち上がりました。
ちょうど、少し体を動かしたいと思っていたところです。
「案内してくださる? その『言葉の迷宮』に隠れて、わが国……失礼、貴国の富を掠め取ろうとしているネズミたちに、正しい文法の使い方を教えて差し上げますわ」
会議室の重厚な扉を開けると、そこにはふんぞり返った中年の特使と、冷や汗を流すアルトワ王国の文官たちがおりました。
「いやあ、ヴィンセント殿下。ようやくお戻りで。……おや、そちらの美しき令嬢は? まさか、交渉に彩りを添えるための『飾り』ですかな?」
特使がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべました。
わたくしは、その笑みを真っ向から受け止め、最高に優雅な、そして最高に冷ややかな笑みを返しました。
「初めまして。飾りではなく、あなたの『言葉の粗大ゴミ』を片付けに参りました、リーマ・フォルテシモです」
わたくしは特使の目の前に、先ほどの契約書をドサリと叩きつけました。
「特使様。……この契約書、第十四条の『関税の特別控除』の項目ですが、引用されている法案の番号が、三年前の廃止された古い法律になっていますわよ。……もしかして、あなたの国では、時間を遡って貿易をする魔法でも開発されましたの?」
「な、……な、……っ!?」
特使の顔が、一瞬で引きつりました。
「さらに、このページ。……インクの滲みのように見えますが、これ、極小の魔法文字で『契約締結後、アルトワ王国は全権利を放棄する』と刻まれていますわね。……詐欺、それとも国家間での窃盗? どちらの罪状で訴えられるのがお好みかしら?」
「そ、……そんなはずは! それは単なる印刷のミスで……!」
「ミス? あら、ミスが十六箇所も重なるなんて、よほど無能な印刷機をお使いですのね。……よろしければ、わたくしが今からこの場で、あなたの国の『不当利得』をすべて算出した告発状を作成いたしましょうか? 筆記速度には自信がありますのよ」
わたくしが羽ペンを抜き放ち、流れるような動作で白紙に数式を書き込み始めると、特使はガタガタと椅子を鳴らして立ち上がりました。
「……も、申し訳ございませんでした! 契約書は今すぐ持ち帰り、修正……いえ、破棄いたします! どうか、告発だけはご勘弁を!」
特使は書類をひっつかむと、転がるように部屋から逃げ出していきました。
後に残されたのは、開いた口が塞がらないアルトワ王国の文官たちと、満足げに腕を組むヴィンセント殿下だけ。
「……お粗末様でした。殿下、あのような低レベルな詐欺師に時間を割くのは、時間の浪費ですわ」
「リーマ。……君、本当に人間だよね? 実は数字を食べる妖精か何かなんじゃないのかい?」
ヴィンセント殿下が、わたくしの手を取って、感嘆の吐息をもらしました。
「……。殿下、その表現は非論理的です。わたくしはただ、正当な権利を守っただけですわ」
「いやあ、今の君は女神に見えたよ。……特に、相手を追い詰める時の、あの悪女のような美しい微笑。……俺、本気で君に惚れ直してしまった」
ヴィンセント殿下が、文官たちの前だというのに、わたくしの手の甲に情熱的なキスを落としました。
わたくしは、慌てて手を引き抜きました。
「……公衆の面前での過剰なスキンシップは、業務効率を著しく下げます。……あとで厳重に抗議させていただきますわ」
「楽しみにしてるよ。……抗議という名の『密談』をね」
ヴィンセント殿下の妖艶な笑みに、わたくしの心臓が、またしても計算不可能な不整脈を起こしました。
どうやら隣国での仕事は、書類の整理よりも、この雇用主の「情熱的な不規則性」を制御することの方が、はるかに難易度が高いようですわ。
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