婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

文字の大きさ
6 / 28

6

しおりを挟む
公爵邸での初めての朝。

私は小鳥のさえずりではなく、廊下をドタドタと走る足音と、誰かの怒鳴り声で目を覚ました。

「遅い! 廊下の拭き掃除は朝食前に終わらせなさいと言ったでしょう!」

「も、申し訳ありません、マーガレット様!」

窓の外はまだ薄暗い。時計を見ると、午前五時を少し回ったところだ。

私はあくびを噛み殺しながらベッド(昨日、倉庫の奥から発掘した最高級羽毛布団付き)から這い出した。

「ふあぁ……。朝から元気ねえ。労働基準法という概念を教えてあげたいわ」

私は素早く身支度を整えると、愛用の電卓と手帳を携えて部屋を出た。

今日の予定は、屋敷内の「業務フローの視察」だ。

廊下に出ると、若いメイドたちが半泣きで床を磨いていた。

その背後で、マーガレットが鬼軍曹のように仁王立ちしている。

「雑巾の絞り方が甘い! 公爵家の床は、顔が映るほど磨き上げるのが伝統です! そこ、拭き残しがある!」

「は、はいぃぃ!」

マーガレットは私に気づくと、眉を吊り上げて近づいてきた。

「おはようございます、キャンディ様。随分と遅いお目覚めですこと」

「おはようございます、マーガレットさん。私の勤務時間は九時からと契約書に記載されていますが?」

「契約? ここでは『勤勉』こそが美徳です。使用人の模範となるべき経理係が、メイドより遅く起きるなど言語道断」

彼女は鼻を鳴らした。

どうやら、昨日の仕返しを兼ねて、私に「公爵家の厳しさ」を教え込もうとしているらしい。

「いいですか? この屋敷の広さは王城の離宮に匹敵します。五十人の使用人が不眠不休で働いて、ようやく維持されているのです。あなたのような温室育ちの令嬢に、現場の苦労が分かりますか?」

「不眠不休? それは大変」

私は床を磨くメイドたちを見回した。

彼女たちは明らかに疲弊している。目の下にクマを作り、手は荒れ放題だ。

「……ねえ、あなた。その床、何回拭いているの?」

私は近くのメイドに声をかけた。

「えっ? あ、あの……往復で十回です。マーガレット様の教えで、一度の掃除につき十回往復が義務付けられていて……」

「十回?」

私は計算機を叩いた。

「廊下の全長が約二百メートル。幅が三メートル。それを雑巾掛けで十回往復? 一人の担当エリアが二十メートルだとして……移動距離だけで二キロメートル?」

「は、はい……毎日膝が痛くて……」

「馬鹿げているわ」

私はバサリと言い捨てた。

「なっ……馬鹿げているとは何事ですか!」

マーガレットが色めき立つ。

「伝統的な『十回磨き』は、初代公爵様が……」

「いつの時代の話ですか。今は令和……じゃなくて、魔法文明の時代ですよ」

私はポケットから、昨日厨房で見つけた「あるもの」を取り出した。

使い古しのスポンジと、長い棒。そしてボロ布だ。

「アンナ、ちょっと手伝って」

「はい、お嬢様!」

私が目配せすると、後ろに控えていたアンナが、私が昨夜即席で作った「試作品第一号」を持ってきた。

長い柄の先に、水を含ませた特殊な布を取り付けた、いわゆる「モップ」の原型だ。

「見ていなさい。アンナ、行って!」

「了解です! ターボモード、行きます!」

アンナはモップを構えると、廊下を滑るように駆け抜けた。

シャーッ! キュッキュッ!

雑巾がけのように屈む必要がないため、移動速度が段違いだ。

しかも、柄に体重をかけられるので、一度のストロークで汚れがごっそり落ちる。

アンナはわずか三十秒で、メイドたちが十分かけていたエリアをピカピカにして戻ってきた。

「完了しました! 腰も痛くありません!」

「ご苦労さま。さて、マーガレットさん?」

私は唖然としているマーガレットに電卓を見せた。

「今の作業効率の差は二十倍です。つまり、これまで十人で行っていた掃除が、この道具を使えば一人で、しかも半分の時間で終わります」

「そ、そんな……手抜きです! 膝をついて心を込めて磨くことに意味が……」

「心を込めても床は綺麗になりません。綺麗にするのは摩擦係数と洗剤です」

私はメイドたちに向き直った。

「全員、作業中止! 今すぐこの『モップ君一号』を量産します。材料は倉庫にあるガラクタで十分。作り方はアンナが教えます」

「えっ、い、いいんですか!?」

「いいに決まっています。浮いた時間で睡眠を取りなさい。過労はミスの元、ミスは経費の無駄です。しっかり休むことも業務命令です!」

「きゃああああ! ありがとうございますキャンディ様ぁぁぁ!」

メイドたちが歓声を上げてアンナの周りに群がった。

まるで救世主を見る目だ。

「くっ……ぐぬぬ……!」

マーガレットは顔を真っ赤にして震えている。

「まだです……掃除だけがメイドの仕事ではありません! 洗濯、銀食器の手入れ、それに……」

「ああ、銀食器ね」

私は手帳のページをめくった。

「昨日チェックしましたが、倉庫にある『来客用カトラリーセット』、あれ、三日に一度磨いているそうですね?」

「当然です! いつ国王陛下がいらしてもいいように、常に最高級の輝きを維持するのが……」

「国王陛下が最後にいらしたのはいつですか?」

「……七年前です」

「七年前!!」

私は思わずツッコミを入れた。

「七年間使っていないスプーンを、延べ三千回以上磨いたわけですか? その研磨剤代と人件費で、新しい純金のスプーンが買えますよ?」

「うっ……」

「本日より、使用頻度の低い銀食器は『真空保存パック(魔法処理済み)』に入れて封印します。使う時だけ開ければ、酸化もしないし磨く必要もない。これで銀磨きの時間はゼロになります」

「そ、そんな横着な……伝統が……」

マーガレットがよろめく。

彼女の拠り所である「伝統」と「根性論」が、私の「数字」と「効率」の前でガラガラと崩れ落ちていく。

そこへ。

「騒がしいな、何事だ?」

朝の散歩から戻ったジェラルド公爵が現れた。

彼はピカピカになった廊下と、謎の棒(モップ)を持って楽しそうにしているメイドたちを見て、目を丸くした。

「……この廊下、いつもの倍は輝いて見えるが」

「旦那様! 聞いてください、このキャンディ嬢が、神聖な掃除の作法を勝手に変えて……!」

マーガレットが縋るように訴える。

しかし、ジェラルドは廊下を指でなぞり、満足げに頷いた。

「いや、悪くない。いつもより埃がないし、何より……」

彼はメイドたちの顔を見た。

「皆の顔色が良くなったな。いつもは朝から死にそうな顔をしていたが」

「あ……」

マーガレットは言葉を失った。

確かに、メイドたちは生き生きとしている。

「効率化は手抜きではありません。余力を生み出し、より質の高いサービスを提供するための投資です」

私は胸を張って言った。

「浮いた時間で、彼女たちには新しいスキル――例えば、簡単な計算や読み書き、あるいは刺繍などの技術を学ばせようと思います。それが結果的に、公爵家の『品格』を上げることにつながるはずです」

ジェラルドはニヤリと笑った。

「完璧だ。マーガレット、今日から掃除の方針はキャンディに従え。これは当主命令だ」

「……はい、旦那様」

マーガレットは深々と頭を下げた。

その顔には屈辱の色が浮かんでいたが、同時に、反論できないという諦めも見えた。

「よし、解散! 朝食の時間だ!」

ジェラルドが手を叩く。

私は小さくガッツポーズをした。

第一ラウンド、完全勝利。

だが、去り際にマーガレットが私に向けた視線は、まだ死んでいなかった。

(……このまま終わる私ではありませんよ、キャンディ様……)

そんな声が聞こえてきそうだった。

「望むところですわ。次は洗濯場の改革でお相手しましょう」

私は不敵に笑い返し、ジェラルドの後を追って食堂へと向かった。

私の「公爵家改造計画」は、まだ始まったばかりなのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

謹んで、婚約破棄をお受けいたします。

パリパリかぷちーの
恋愛
きつい目つきと素直でない性格から『悪役令嬢』と噂される公爵令嬢マーブル。彼女は、王太子ジュリアンの婚約者であったが、王子の新たな恋人である男爵令嬢クララの策略により、夜会の場で大勢の貴族たちの前で婚約を破棄されてしまう。

偽聖女として私を処刑したこの世界を救おうと思うはずがなくて

奏千歌
恋愛
【とある大陸の話①:月と星の大陸】 ※ヒロインがアンハッピーエンドです。  痛めつけられた足がもつれて、前には進まない。  爪を剥がされた足に、力など入るはずもなく、その足取りは重い。  執行官は、苛立たしげに私の首に繋がれた縄を引いた。  だから前のめりに倒れても、後ろ手に拘束されているから、手で庇うこともできずに、処刑台の床板に顔を打ち付けるだけだ。  ドッと、群衆が笑い声を上げ、それが地鳴りのように響いていた。  広場を埋め尽くす、人。  ギラギラとした視線をこちらに向けて、惨たらしく殺される私を待ち望んでいる。  この中には、誰も、私の死を嘆く者はいない。  そして、高みの見物を決め込むかのような、貴族達。  わずかに視線を上に向けると、城のテラスから私を見下ろす王太子。  国王夫妻もいるけど、王太子の隣には、王太子妃となったあの人はいない。  今日は、二人の婚姻の日だったはず。  婚姻の禍を祓う為に、私の処刑が今日になったと聞かされた。  王太子と彼女の最も幸せな日が、私が死ぬ日であり、この大陸に破滅が決定づけられる日だ。 『ごめんなさい』  歓声をあげたはずの群衆の声が掻き消え、誰かの声が聞こえた気がした。  無機質で無感情な斧が無慈悲に振り下ろされ、私の首が落とされた時、大きく地面が揺れた。

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

悪女と呼ばれた王妃

アズやっこ
恋愛
私はこの国の王妃だった。悪女と呼ばれ処刑される。 処刑台へ向かうと先に処刑された私の幼馴染み、私の護衛騎士、私の従者達、胴体と頭が離れた状態で捨て置かれている。 まるで屑物のように足で蹴られぞんざいな扱いをされている。 私一人処刑すれば済む話なのに。 それでも仕方がないわね。私は心がない悪女、今までの行いの結果よね。 目の前には私の夫、この国の国王陛下が座っている。 私はただ、 貴方を愛して、貴方を護りたかっただけだったの。 貴方のこの国を、貴方の地位を、貴方の政務を…、 ただ護りたかっただけ…。 だから私は泣かない。悪女らしく最後は笑ってこの世を去るわ。  ❈ 作者独自の世界観です。  ❈ ゆるい設定です。  ❈ 処刑エンドなのでバットエンドです。

【完結済】監視される悪役令嬢、自滅するヒロイン

curosu
恋愛
【書きたい場面だけシリーズ】 タイトル通り

断罪前に“悪役"令嬢は、姿を消した。

パリパリかぷちーの
恋愛
高貴な公爵令嬢ティアラ。 将来の王妃候補とされてきたが、ある日、学園で「悪役令嬢」と呼ばれるようになり、理不尽な噂に追いつめられる。 平民出身のヒロインに嫉妬して、陥れようとしている。 根も葉もない悪評が広まる中、ティアラは学園から姿を消してしまう。 その突然の失踪に、大騒ぎ。

処理中です...