婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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公爵邸での業務改善(という名の破壊活動)でひと汗かいたその夜。

私は、ジェラルド公爵との初めての夕食の席に着いていた。

案内されたのは、ダンスホールかと見紛うほど広い大食堂だ。

天井からは巨大なシャンデリア(私が昼間に間引きさせたので、明るさは適正で暑くない)が下がり、テーブルには見たこともないほど長いキャンドルスタンドが置かれている。

そして、テーブルの端と端に座る私とジェラルドの距離は、およそ十メートル。

「……遠いですね」

私は思わず呟いた。

「声が届くか心配でしたが、この部屋、音響設計だけは優秀なようですわ」

向こう側に座るジェラルドが、グラスを揺らしながら苦笑する。

「歴代の当主は、妻と顔を合わせたくなかったのかもしれないな。だが、君の言う通りだ。これでは会話もままならない」

彼はパチンと指を鳴らした。

「執事、席を移動する。キャンディの隣にセッティングし直せ」

「は、はい! 直ちに!」

給仕たちが慌てて皿とカトラリーを移動させる。

ジェラルドは私のすぐ右隣、いわゆる「親密な距離」に座り直した。

「これでいい。さて、食事にしようか」

彼の合図で、コース料理が運ばれてくる。

前菜は、フォアグラのテリーヌと季節のフルーツ添え。

スープは、手長海老のビスク。

メインは、最高級和牛のロースト、トリュフソース。

どれもこれも、王家の晩餐会でしかお目にかかれないような超一級品ばかりだ。

普通の令嬢なら、「まあ、素敵!」「こんなに食べられないわ」と可愛らしく遠慮するところだろう。

だが、私は違った。

カチャッ、カチャッ、カチャッ。

私のナイフとフォークは、精密機械のような正確さと速度で動いていた。

「……早いな」

ジェラルドがポカンとしている。

「ええ。温かい料理は温かいうちに、冷たい料理は冷たいうちに。それが料理人(シェフ)への敬意であり、最も効率的な栄養摂取の方法です」

私は優雅に、しかし一口を限界まで大きく切り取って口に運んだ。

んぐっ、もぐもぐ、ごくん。

「美味……! このフォアグラ、原価率六割は超えていますね。口の中で濃厚な脂が溶ける感触……まさに金貨を食べている味です!」

「金貨の味とか言うな。食欲が失せる」

ジェラルドは呆れつつも、自分の皿に手を付けた。

「しかし、意外だ。貴族の令嬢といえば、人前では小鳥のように啄(ついば)むものだと思っていたが」

「小鳥? 燃費の悪い生き物ですね」

私はパンにたっぷりとバターを塗りたくった。

「いいですか、ジェラルド様。貴族社会の『小食アピール』は、最大の損失です。出された料理を残す=廃棄ロスの発生。さらに、後でお腹が空いて間食をする=追加コストの発生。非効率極まりない」

「なるほど。君の理論には隙がないな」

「それに、私の体は資本です。明日からも屋敷の大改革を行うには、莫大なエネルギーが必要です。今のうちにカロリーという名の燃料をタンク(胃袋)に満タンにしておく義務があります」

私は次々と皿を空にしていく。

給仕係のメイドが、空いた皿を下げる手が追いつかないほどだ。

ジェラルドは、そんな私の食べっぷりを、まるで珍獣を見るような、あるいは愛しいペットを見るような目で見つめていた。

「見ていて気持ちがいいな。元婚約者のロナルド王子との食事ではどうしていたんだ?」

「地獄でしたわ」

私はローストビーフを噛み切りながら答えた。

「殿下は食事中に延々と自作の詩を朗読なさるのです。『肉汁の涙』とか『サラダの草原』とか。おかげで食事が冷めきってしまい、味もしませんでした。その点、ここは素晴らしい。料理は美味しいし、朗読もない」

「くっ……ははっ! 『肉汁の涙』か。あいつらしい」

ジェラルドがまた吹き出した。

彼はワインを一口飲むと、少し意地悪な笑みを浮かべて私を見た。

「だが、そんなに食べて大丈夫か? そのドレス、ウエストが苦しくないか?」

彼は私の腰回りへ視線を流した。

「女性は体型を気にするものだろう? 太ったら、新しいドレスを仕立てる金がかかるぞ?」

痛いところを突く。

確かに、ドレスの新調はバカにならない出費だ。

しかし、私には揺るぎない信念があった。

私はナプキンで口元を拭い、真剣な眼差しで彼を見返した。

「ご心配なく。計算済みです」

「計算?」

「はい。まず、このドレスは背中の編み上げでサイズ調整が可能な『可変式』です。プラスマイナス三キロまでは対応できます」

「可変式……」

「そして何より」

私はフォークを指揮棒のように振った。

「脂肪とは、いざという時のための『貯蓄』です。もし明日、屋敷が賊に襲われて食料庫が封鎖されたら? もし、遭難して無人島に漂着したら? その時、生存確率が高いのは、ガリガリのモデル体型令嬢ではなく、皮下脂肪という名の豊富な『流動資産』を持った私です!」

「……遭難する予定があるのか?」

「リスク管理(ヘッジ)です。人生、何が起こるか分かりませんから。つまり、太ることは恥ではありません。資産形成なのです!」

ドンッ!

とテーブルを叩いて力説する私。

食堂が一瞬、静まり返った。

給仕たちは「何を言っているんだこの人は」という顔をしている。

しかし、ジェラルドだけは違った。

彼は肩を震わせ、顔を伏せた。

「……くくっ、ふふっ……」

「ジェラルド様?」

「資産形成……太ることを、そう正当化した女性は人類史上初めてではないか?」

彼は顔を上げると、今日一番の笑顔を見せた。

氷の公爵という異名が嘘のように、少年のような屈託のない笑顔だった。

「気に入った。君のその『資産』作り、全面的に支援しよう」

「本当ですか!?」

「ああ。シェフに伝えよう。デザートは特大サイズで用意しろとね」

「まあ! ジェラルド様、なんて話の分かる方! 愛しています!」

「……っ」

私の口から飛び出した言葉に、ジェラルドの動きがピタリと止まった。

グラスを持つ手が空中で静止する。

「……今、何と言った?」

「え? ですから、デザートを許可してくれた貴方の度量の広さを称賛して……」

「いや、『愛している』と聞こえたが」

「ああ、それは商用的な意味での『I Love You(=お得意様大好き)』です。深い意味はありません」

私はあっけらかんと答えた。

ジェラルドは一瞬だけ複雑そうな顔をしたが、すぐにまたニヤリと笑った。

「そうか。商用的か。……まあいい、今はそれで」

彼は意味深に呟くと、私の皿に自分の分のローストビーフを一切れ乗せてくれた。

「食べろ。君の資産だ」

「ありがとうございます! 利回り最高ですわ!」

こうして、私たちの初めての夕食は終わった。

ロマンチックな雰囲気は皆無。

甘い言葉の代わりに飛び交ったのは「原価率」と「資産形成」の話だけ。

けれど、満腹になったお腹をさすりながら部屋に戻る私の足取りは軽かった。

(悪くないわ。食事中に私のカロリー摂取量を監視しない男の人なんて、この世に存在しないと思っていたけれど)

ジェラルド・アイゼンハルト。

彼は私の予想以上に、優良物件(=良いパートナー)かもしれない。

一方、その頃。

食堂に残ったジェラルドは、私が残していった「愛しています(商用)」という言葉を反芻しながら、赤くなった耳を冷たいワインで冷やしていたらしい。

その事実を、私はまだ知らない。
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