婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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公爵邸の裏庭にある洗濯場。

そこは、屋敷中の情報が集まる「井戸端会議」の中心地でもある。

今日の話題は、もっぱら新しく来た「あの女」のことだった。

「ねえ、聞いた? キャンディ様の噂」

洗濯板でシーツをこすりながら、古株のメイドが声を潜める。

「聞きましたよ。王宮では『氷の魔女』って呼ばれてたんでしょう? 気に入らない使用人は即刻クビ、逆らう者は階段から突き落とすって……」

「それだけじゃないわよ。なんでも、夜な夜な部屋で『呪いの儀式』を行っているらしいわ」

「ひいぃっ! 呪い!?」

「昨日、部屋の前を通った子が聞いたんですって。『消してやる……この世から消してやる……』って呟きながら、赤いインクで何かを書き殴っていたって……」

「キャアアア! 怖すぎる!」

洗濯場に悲鳴が上がる。

彼女たちの想像の中で、キャンディ・ヴァイオレットは「生き血をすする悪魔」か何かに進化していた。

しかし。

その頃、当のキャンディは。

北の塔のオフィス(旧・物置部屋)にて。

「消してやる……この世から消してやる……!」

鬼の形相でペンを走らせていた。

「この『使途不明金』というふざけた項目をな!!」

ガリガリガリッ!!

彼女が赤いインクで書き殴っていたのは、呪詛の言葉ではない。

赤字の修正と、無駄な経費の削除線だった。

「なんなのこの帳簿! 『接待交際費:金貨五十枚』? 内訳が『白鳥の餌代』ってどういうこと!? あの池の白鳥、金箔でも食べているの!?」

バンッ! と机を叩く。

私の目の前には、ジェラルドから託された過去十年の帳簿が積み上がっている。

調べれば調べるほど、この公爵家の家計はザルだった。

穴の空いたバケツに水を注いでいるようなものだ。

「……許せない」

私の経理魂(ケチ根性)に火がついた。

「一円の無駄も許さない。全ての領収書と突き合わせて、架空請求を洗い出してやるわ。覚悟していなさい、横領犯ども……全員、地獄(借金返済生活)に落としてあげるから」

私がニヤリと笑いながら「デスノート(不正リスト)」を作成していると、ドアがおずおずとノックされた。

「……し、失礼いたします……」

入ってきたのは、まだ十代半ばくらいの若いメイドだった。

手にはティーセットを持ったお盆が震えている。

彼女の顔は蒼白で、まるで処刑台に向かう囚人のようだ。

(あら? 見ない顔ね)

私はペンを止めて顔を上げた。

「入りなさい。……あなた、名前は?」

「ひっ! み、ミーナと申します! 殺さないでください!」

「は?」

殺す? いきなり何を言っているのだろう。

「殺しはしませんよ。死体の処理費用と、新しいメイドの採用コストがかかりますから」

私は努めて冷静に(事実を)伝えたつもりだったが、ミーナは余計に震え上がった。

「こ、紅茶をお持ちしました……! ど、毒なんて入っていません!」

「毒? 入っていたらあなたが毒見役として倒れるだけでしょう? 置いてちょうだい」

私はカップを受け取り、香りを確認してから一口飲んだ。

「……ぬるい」

「ひいっ! も、申し訳ありません! すぐに淹れ直して……!」

ミーナが土下座しそうな勢いで謝る。

私はため息をついた。

「待ちなさい。淹れ直す必要はありません。茶葉と水と燃料の無駄です」

「で、ですが……処罰が……」

「処罰? ああ、そうね」

私は立ち上がり、ミーナに近づいた。

彼女がギュッと目をつぶる。

私は彼女のエプロンのポケットから、懐中時計(安物)を抜き取った。

「厨房からここまで、何分かかりました?」

「え……じゅ、十分くらいです……途中で怖くて足がすくんで……」

「この時期の室温だと、紅茶は一分で約二度温度が下がります。十分も彷徨っていれば、二十度近く下がる。だからぬるいのです」

私は時計を返した。

「次からは最短ルートで来なさい。恐怖心で足を止める時間は、給料に含まれていません。恐怖を感じる暇があったら走ること。いいですね?」

「は……はい?」

予想外の説教(?)に、ミーナがきょとんとする。

「あと、このクッキー」

私は添えられた焼き菓子をつまみ上げた。

「これ、昨日の残りでしょう? 湿気っています」

「そ、それは……マーガレット様が『あの女には残飯でいい』と……」

「なるほど、嫌がらせですか。古典的ですね」

私は怒るどころか、感心したように頷いた。

「ですが、湿気ったクッキーも捨てたものではありません。こうやって……」

私は紅茶にクッキーを浸した。

「水分を含ませてから食べれば、食感の劣化をごまかせます。さらに、消化も良くなる。フードロス削減の観点からは評価できますね」

パクッ。

「ん、悪くない味です。マーガレットさんに伝えておいてください。『リサイクル精神に感服しました。次回はカビの生えたパンでも持ってきてください。ペニシリン(抗生物質)の抽出実験に使いますから』と」

「ぺ、ペニ……?」

ミーナは目を白黒させている。

「さあ、用が済んだなら戻りなさい。私はこれから、この『闇の帳簿』との戦争で忙しいのです」

私は彼女を追い出し、再び机に向かった。

パタン、とドアが閉まる。

廊下に出たミーナは、しばらく呆然と立っていた。

そこへ、心配した他のメイドたちが駆け寄ってくる。

「ミーナ! 大丈夫!? 生きてる!?」

「呪われてない!?」

ミーナは首を傾げ、困惑した顔で答えた。

「……生きてる。っていうか……あの人、なんか変」

「変って?」

「怒鳴られなかった。その代わり、『走れ』って言われたのと……あと、『カビたパンをよこせ』って」

「はあ!? カビパン!?」

「やっぱり魔女よ! カビを煮込んで毒薬を作る気だわ!」

「ひいぃぃ!」

廊下での誤解は、解けるどころか加速していた。

だが、私はそんなこと知る由もない。

数時間後。

ジェラルドが様子を見に来た時、私は大量の書類の山に埋もれていた。

「……キャンディ、生きているか?」

「死にかけています」

私は書類の山から手だけを出して答えた。

「ジェラルド様、あなたのご先祖様は海賊か何かですか? 備品購入リストに『大砲』とか『船の錨(イカリ)』とかあるんですけど」

「ああ、曽祖父が海軍マニアでな。庭の池に軍艦を浮かべようとして挫折した名残だ」

「売却します。鉄くずとして売れば、当面の運転資金になります」

「好きにしろ。……ところで、使用人たちの間で妙な噂が流れているぞ」

ジェラルドが笑いを噛み殺しながら言った。

「君が部屋で『死のリスト』を作っているとか、カビを培養して生物兵器を作ろうとしているとか」

「……想像力が豊かで結構なことです」

私はふっと笑い、書き上げたばかりの一枚の紙をジェラルドに突きつけた。

「ですが、あながち間違いではありません。ほら、これが『死のリスト』第一弾です」

「ん?」

ジェラルドが紙を受け取る。

そこには、屋敷に出入りしている商人の名前がずらりと並び、その半数に赤いバツ印が付けられていた。

『出入り禁止・契約解除リスト』

『理由:相場の三倍でのふっかけ販売』
『理由:納品数の水増し詐欺』
『理由:賄賂による癒着(マーガレット関与の疑いあり)』

「……これは」

ジェラルドの顔色がサッと変わる。

「彼らは長年、我が家と取引のある老舗ばかりだぞ」

「老舗だろうが詐欺師は詐欺師です。彼らは『公爵家なら細かい値段は見ないだろう』と高をくくって、長年にわたり不正な利益を貪ってきました。その総額、金貨一万枚」

「一万……!?」

「このリストの商人たちは即刻契約解除。そして、過去の過払い分に関しては返還請求訴訟を起こします。証拠はこの部屋の帳簿に全て残っていましたからね」

私はニヤリと笑った。

「噂通りにして差し上げますわ。彼らにとって、私はまさしく『死神』になるでしょうね」

ジェラルドはリストと私の顔を交互に見て、やがて深くため息をついた。

「……敵に回したくない女だ」

「味方でよかったですね、ジェラルド様。回収したお金で、屋敷の暖炉を最新式の魔導ヒーターに変えましょう。冬の燃料費が四割浮きますよ」

「ああ、頼もしいよ。……だが、使用人たちの誤解はどうする? このままだと、君が廊下を歩くだけでモーゼの海割れのように人が避けるぞ」

「好都合です。移動の邪魔になりませんから」

私は全く意に介さず、次の書類――『厨房の食材廃棄率改善計画』に取り掛かった。

悪女? 魔女?

どうぞお好きに呼んでちょうだい。

最後に笑うのは、健全な黒字経営を達成した私なのだから。
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