婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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公爵邸での生活が一週間を過ぎた頃。

私の執務室(旧・物置部屋)は、完全に戦場の司令部と化していた。

壁には領内の地図と収支グラフが張り出され、デスクには未決裁の書類が山積み。

「……よし。厩舎(きゅうしゃ)の馬糞を近隣農家へ肥料として販売するルート、確保しました」

私は契約書に判を押すと、満足げに頷いた。

「これまで廃棄費用を払って捨てていたものが、逆に利益を生む。これぞ錬金術ですわ」

「馬糞で錬金術とは、相変わらず夢がないな」

いつの間にか部屋に入ってきていたジェラルドが、苦笑しながら立っていた。

「夢より実利です。この売上で、厩務員の休憩所にエアコン(魔導冷却機)を導入できます。これで労働環境が改善され、離職率が下がれば採用コストも浮く。完璧なサイクルです」

「はいはい、分かった。君が優秀なのは認める」

ジェラルドはデスクの前に来ると、少しそわそわした様子で、背中に隠していた手を前に出した。

「ところで、今日は君に……その、労いの品を持ってきた」

「労いの品? 現金支給ですか? ボーナスなら振込で結構ですが」

「違う。……これだ」

彼が差し出したのは、手のひらサイズの小さな箱だった。

深紅のベルベット張り。金色の縁取り。

見るからに高級な、宝飾店の箱だ。

「……開けてみてくれ」

ジェラルドが少し顔を背けながら言う。耳が赤い。

(おや? これはもしや……)

私は期待に胸を膨らませ、箱を恭しく受け取った。

パカッ。

蓋を開ける。

そこには、大粒のブルーサファイアが埋め込まれた、プラチナのネックレスが鎮座していた。

深い海の底のような、吸い込まれそうな青。

周囲には無数のダイヤモンドが散りばめられ、キラキラと輝いている。

普通の令嬢なら、「まあ素敵!」「ジェラルド様、嬉しい!」と目を潤ませて彼に抱きつく場面だ。

ジェラルドも、チラリとこちらを見て、私の反応を待っている。

私は震える手でネックレスを取り出した。

そして。

「……アンナ! ルーペと電子天秤を持ってきて!」

「はい、お嬢様!」

私は即座に叫んだ。

ジェラルドがズッコケそうになる。

「は? ルーペ?」

「静かに! 今、鑑定中ですから!」

私はデスクのランプを最大光量にし、アンナが持ってきたルーペを目に当てた。

「ふむ……! この透明度、インクルージョン(内包物)がほとんど見当たりませんわ! カシミール産? いいえ、色味からしてビルマ産ロイヤルブルー……!」

私はネックレスを光にかざし、あらゆる角度から観察する。

「素晴らしい……! 加熱処理の痕跡もなし! 非加熱(ノーヒート)でこのサイズ! 奇跡的ですわ!」

「あ、あの……キャンディ?」

「ダイヤのカットも完璧! 『ハート&キューピッド』が見えます! クラリティはVVS1クラス……!」

私は興奮のあまり、鼻息を荒くしてジェラルドに詰め寄った。

「ジェラルド様! これ、おいくらでした!?」

「い、いくらって……値段を聞くやつがあるか」

「聞きますよ! 取得原価が分からないと、資産台帳に登録できませんから! 市場価格だと金貨五百枚は下りませんが、まさか定価で買ったわけではありませんよね? 外商割引は? ポイント還元は?」

「……知らん! 執事に任せたから!」

ジェラルドが頭を抱えた。

「俺はただ……君の瞳の色に似ていると思ったから、似合うだろうと……」

「私の瞳?」

私はキョトンとして彼を見た。

そして、手の中のサファイアと見比べる。

「……なるほど。確かに色味は似ていますね。ということは、私の瞳も売れば金貨五百枚の価値があるということですか?」

「違う! そういう意味じゃない!」

ジェラルドが叫ぶ。

「褒めたんだ! ロマンチックな意味で! 『君は美しい』という意図を込めて!」

「ああ、なるほど。褒め言葉でしたか」

私は納得して頷いた。

「ありがとうございます。過分な評価をいただき光栄です。ですが、私の美貌はいずれ衰えますが、このサファイアの価値は半永久的です。つまり、私本体よりもこの石の方が優秀な資産ということになりますね」

「……もういい。俺が間違っていた」

ジェラルドはがっくりと肩を落とし、椅子に座り込んだ。

「普通の女なら喜んで首につけるだろうに、なぜ君は即座に換金レートを計算し始めるんだ……」

「喜びの表現方法が違うだけです」

私はネックレスを箱に戻し、大切に蓋を閉めた。

そして、その箱を両手で抱きしめ、うっとりとした表情を浮かべた。

「ああ、なんて愛おしい重み……。これがあれば、もし明日公爵家が破産しても、私は一年間遊んで暮らせます。最高の『安心感』をプレゼントしていただきました」

「……破産させる気はないんだが」

「備えあれば憂いなし、です」

私は立ち上がり、部屋の隅にある巨大な金庫(これも倉庫から発掘した)へと歩み寄った。

ダイヤルを回し、重厚な扉を開ける。

「では、大切に保管させていただきますね」

「つけないのかよ!」

ジェラルドがツッコミを入れる。

「つけませんよ。落としたらどうするんですか? 傷がついたら査定額が下がります。ここ(金庫)が一番安全で、一番輝ける場所です」

バタン。

金庫の扉が閉まる音。

ジェラルドからの愛の贈り物(時価五百枚)は、私の首元を飾ることなく、冷たい鉄の箱の中で眠りについた。

「……はぁ」

ジェラルドは深いため息をついた後、諦めたように笑った。

「まあ、いい。君が喜んでいるなら、それで正解だったんだろう」

「はい! 最高にハッピーです! ジェラルド様の株価、ストップ高です!」

私は満面の笑みで親指を立てた。

「株価か……。暴落させないように努力するよ」

彼は立ち上がり、部屋を出て行こうとした。

その背中に、私は声をかけた。

「あ、ジェラルド様!」

「なんだ? 金庫の暗証番号でも教える気になったか?」

「いえ。……その、ありがとうございました。本当に、綺麗でした」

私は少しだけ照れくさくなって、視線を逸らした。

「お金の価値もそうですが……私なんかのために、選んでくれた手間(コスト)が、嬉しかったです」

ジェラルドが振り返る。

彼は一瞬驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。

「……どういたしまして。また、いい投資物件(宝石)があったら持ってくるよ」

パタン。

ドアが閉まる。

部屋に残された私は、赤くなった頬を両手で押さえた。

「……いけない。今の笑顔、ちょっとプライスレスだったかも」

胸の奥が少しだけ、計算外の鼓動を刻んでいた。

だが、すぐに首を振る。

「いけないいけない! 感情に流されては正常な判断ができません! 仕事に戻るのよキャンディ!」

私は自分の頬をパチンと叩き、再び馬糞の販売計画書に向き直った。

だが、その筆先は、いつもより少しだけ弾んでいるような気がした。
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