馬車ジャック!?入学も婚約破棄もまだですわよ?

恋の箱庭

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「アマリリスお嬢様、もう出発の時間ですよ。準備はよろしいですか?」

侍女のメアリが、呆れたような声を出しながら私の頬を軽く叩いた。

「んん……あと五分。あと五分だけ、王宮のタルトを食べさせて……」

「夢の中でも食いしん坊なのですから。ほら、今日は全寮制の学園への入学日でしょう? 公爵家から馬車が出るんですから、遅れたら大変ですよ」

メアリに無理やり引き剥がされるようにして、私はベッドから這い出した。

私、アマリリス・フローライトは、この春から名門・セント・ルミナス学園に通うことになっている。

公爵家の令嬢として、淑女の嗜みを身につけるための三年間。

……正直に言えば、家で寝ていたい。

けれど、決まってしまったものは仕方がない。私は半分眠ったまま、着替えと身支度を済ませた。

「お嬢様、馬車は表に用意してあります。旦那様と奥様は、急な公務で先に出かけられましたが、くれぐれも粗相のないようにとおっしゃっていました」

「わかったわ。お父様とお母様によろしく伝えておいて。……ふわぁ、眠い……」

私はフラフラとした足取りで屋敷を出た。

玄関先には、確かに立派な馬車が停まっている。

カーテンが閉め切られ、中が暗いのは、きっと私が道中でぐっすり眠れるようにというメアリの配慮だろう。

私は御者に声をかけることも忘れ、吸い込まれるように馬車の中へと潜り込んだ。

「失礼しますわ……。おやすみなさい……」

ふかふかのシートに身を投げ出した瞬間、意識は再び深い闇の中へと沈んでいった。

この時、私が乗り込んだ馬車が「公爵家の紋章」ではなく「隣国の商人の偽装紋章」であったことに気づく者は、誰もいなかったのである。


どのくらいの時間が経っただろうか。

激しい振動と、何やら怒鳴り合う男たちの声で、私は目を覚ました。

「おい! この馬車、中身が詰まってやがるぞ!」

「商人の隠し財産か? それとも密輸品か? どっちにしろ、このまま国境まで突っ走れ!」

「ひゃはは! 運が向いてきたぜ!」

……あら?

学園への道って、こんなに騒がしいものだったかしら。

それに、なんだか風を切る音が凄まじい。まるで馬車が暴走しているような速さだわ。

私は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

「……うるさいですわね。せっかくいいところだったのに」

私がぼんやりと呟くと、目の前に座っていた影が、ビクッと肩を揺らした。

馬車の中は暗かったが、目が慣れてくると、そこに座っている人物の姿が見えてきた。

黒い革の鎧を身にまとい、顔には不気味な髑髏の面をつけた男。

その手には、鈍く光る短剣が握られている。

「……えっ?」

「……あ?」

男と私の視線が、空中で真っ向から衝突した。

男は驚きのあまり、持っていた短剣を床に落とした。

「な、な、な……なんだ、お前は! どこから湧いて出た!」

「どこから、と言われましても……。私は最初からここで寝ていましたわ。それより貴方、その格好は何かしら? 学園の歓迎行事か何か?」

私は欠伸を噛み殺しながら、男に問いかけた。

男は髑髏の面をずらし、信じられないものを見るような目で私を凝視している。

「学園……? 歓迎行事……? お前、状況が分かってんのか! 俺たちはこの馬車をジャックしたんだよ! 今、絶賛逃走中なんだ!」

「あら、ジャック。珍しいお名前ですのね。ジャックさん、そんなに大きな声を出さなくても聞こえますわよ。それより、少し喉が渇きましたわ。お茶の用意はありますか?」

「名前じゃねえよ! 馬車強盗だよ! お茶なんてあるわけねえだろ!」

男は頭を抱えて叫んだ。

その時、馬車の御者台のあたりから、さらに別の太い声が響いてきた。

「おい、ゼクス! 中で何が起きてるんだ! さっきから誰と喋ってやがる!」

「団長! 大変です! 馬車の中に、正体不明の令嬢が紛れ込んでます!」

「はぁ!? 女だと?」

急ブレーキの音が響き、馬車が激しく左右に揺れて止まった。

勢い余って、私は座席から転げ落ちそうになったが、目の前の「ジャックさん」ことゼクスと呼ばれた男が、咄嗟に私の腕を掴んで支えてくれた。

「あ、ありがとう。意外と親切なんですわね」

「うるせえ! 勢いで掴んじまっただけだ!」

馬車の扉が乱暴に開け放たれた。

そこに立っていたのは、逆光を背に受けた、背の高い大柄な男だった。

彼は顔の半分を覆うような深い傷跡があり、鋭い眼光をこちらに向けている。

「……おい、ゼクス。これはどういう状況だ」

「それが……。気づいたら、この女がここで寝てたんです。どう見ても貴族の娘ですよ、これ」

「貴族の娘だと? チッ、面倒なことになったな」

大柄な男――団長と呼ばれた人物は、私をじろじろと眺めた後、深い溜息をついた。

私はドレスの裾を整えながら、優雅に立ち上がり、一礼した。

「ごきげんよう。私はアマリリス・フローライト。フローライト公爵家の娘ですわ。貴方様方が、私の新しい学園の護衛の方々かしら?」

「公爵家……!? おい、これ本物の大物じゃねえか!」

ゼクスが裏返った声で叫ぶ。

団長と呼ばれた男は、眉間に深い皺を刻んだ。

「お嬢ちゃん、残念だがここは学園じゃねえ。……ここは、隣国へ続く街道のど真ん中だ。そして俺たちは、国を追われた『野良犬騎士団』……世間一般では、誘拐犯って呼ばれてる連中だ」

「あら、誘拐。それはまた、ずいぶんと物騒な響きですわね」

私は人差し指を顎に当て、少しだけ考えた。

「つまり、私は今、知らない間に誘拐されてしまった……ということでよろしいのかしら?」

「察しがいいな。そうだ。俺たちはこの馬車を盗んだが、中にお宝じゃなくて公爵令嬢が入ってたなんてのは、完全に計算外だ」

「なるほど。それは災難でしたわね。お互いに」

私が微笑むと、男二人は呆気に取られたように口を半開きにした。

「……お前、怖くないのか?」

ゼクスがおずおずと尋ねてくる。

「怖いですわよ? だって、もうすぐお昼の時間なのに、この馬車にはお菓子の一つも積んでなさそうですもの。空腹ほど恐ろしいことはありませんわ」

「そこじゃねえよ!」

ゼクスの全力のツッコミが、森の中に虚しく響き渡った。

こうして、私の「予定とは大幅に異なる」新生活が、幕を開けたのである。

まさかこの時、私のいない母国で「アマリリスは男と駆け落ちした悪女」というデマが流され、王子の手によって一方的に婚約破棄が進められているとは、夢にも思っていなかった。
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