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学園の最上階、普段は使われない備品倉庫。
第一王子シリウス・フォン・アステリアは、埃っぽい空気の中でガタガタと震えながら、扉の隙間から廊下を伺っていた。
「……いないな? よし、今のうちに反対側の非常階段から脱出を……」
昨日の「ボタン剥ぎ取り事件」以来、シリウスの精神は限界に達していた。
彼にとって、婚約者のシャリーはもはや「愛を語り合う相手」ではなく、「いつ背後から首を刈りに来るか分からないプレデター」と同義だった。
(あんなに恐ろしい執念、見たことがない! 袖を掴むだけであの握力だぞ!? もし僕の腕を掴まれていたら、今頃は骨が粉々になっていたに違いない!)
シリウスは自分の細い腕をさすりながら、冷や汗を拭う。
すると、静まり返った廊下の奥から、重厚な、それでいて規則正しい「カツ……カツ……」という足音が聞こえてきた。
「ひっ……!」
シリウスは反射的に扉を閉め、鍵をかけた。
しかし、足音は扉の前でピタリと止まる。
(くるな……くるな……。僕はまだ死にたくない。まだ結婚もしていないし、美味しいタルトも食べ足りないんだ!)
「…………シリウス、さま」
扉の向こうから、冷気すら感じる低音ボイスが響いた。
シャリーだ。
彼女は、昨日手に入れてしまった(もぎ取ってしまった)ボタンを、一晩中かけて磨き上げていた。
そのボタンを、今日こそは丁寧にお返しし、昨日の非礼を詫びるつもりでここへ来たのだ。
(シリウス様、ここにいらっしゃるのは分かっているわ。だって、扉の向こうから、小動物が震えるような可愛い気配が漏れているもの。ああ、愛おしい……!)
シャリーの脳内では、震えるシリウスを優しく抱きしめ、「よしよし」とあやす妄想が広がっている。
だが、現実の彼女は、扉の前に仁王立ちし、獲物を追い詰めた処刑人のような殺気を放っていた。
「……あけて、ください。……これを、お返し……したいの……」
「嫌だ! 開けるものか! 『これ』って何だ! 呪いのコインか!? それとも僕の指の代わりになる何かか!?」
「……ただの、ボタン、です……。昨日、私が……とってしまった……」
(『とってしまった』……!? あいつ、僕の服を破壊した自覚があるのか! 次は命を『とる』と言いたいのか!?)
シリウスの被害妄想は、加速しすぎて銀河の果てまで到達していた。
そこへ、颯爽と壁を登って(?)現れたララ・メルが、シャリーの肩を叩いた。
「シャリー様! 扉越しに愛を囁くなんて、ロミオとジュリエットの逆バージョンですね! 素敵です!」
「……ら、らら様。シリウス様が、開けてくださらないの……」
「ふむ、これは『照れ』ですね。王子は、シャリー様の美しすぎる声に耐えきれず、自らの理性を守るために引きこもっているのです。ならば、物理的に心を開くしかありません!」
「物理的に……?」
「はい! 愛の力で、その扉を粉砕しましょう!」
「えっ、それは流石に不敬……」
シャリーが戸惑っている間に、ララは扉の鍵穴にヘアピンを差し込み、カチカチと不穏な音を立て始めた。
「あ、あの、ララ様……? それはどこで覚えた技術なの?」
「男爵令嬢たるもの、推しに近づくための技術は一通り嗜んでおります! さあ、開きましたよ!」
ガチャリ、と音を立てて扉が解放される。
中には、隅っこで丸まっていたシリウスが、絶叫と共に椅子を盾にして構えていた。
「くるな! 暴力反対! 平和主義!」
「……シリウス、さま」
シャリーは、一歩踏み出した。
彼女の手には、銀色に輝くボタンが載せられている。
しかし、彼女が精一杯の申し訳なさを込めて顔を歪ませた結果、その表情は「お前の心臓は、このボタンよりも簡単に握りつぶせるぞ」という残虐な宣告に見えた。
「ひいぃぃっ! 笑ってる! あいつ、僕を追い詰めて笑ってやがる!」
「王子、それは慈愛の微笑みです! 仏像のような、深い慈しみの顔ですよ!」
「どんな地獄の仏だ! 怖すぎる!」
シャリーは、シリウスの近くに寄り、そっとボタンを差し出した。
「……ごめんなさい。……きらきら、させて……おきました……」
(せめてものお詫びに、フォンス家秘伝の金属研磨剤で磨いたの。鏡みたいに綺麗でしょう?)
シャリーは少しだけ、誇らしげに目を細めた。
だが、磨き上げられたボタンがシリウスの顔を鏡のように映し出した瞬間、王子はそれを見て叫んだ。
「……ま、眩しい! 僕を失明させて、無力化するつもりか!」
「えっ……?」
「策士だな、シャリー・フォンス! 光で目を眩ませ、その隙に僕を捕獲する算段だろう! そうはいかないぞ!」
シリウスは盾にしていた椅子を投げ捨て(シャリーはそれを片手でキャッチした)、窓から飛び降りようとした。
「あ、王子、そこは二階ですから大丈夫ですよ!」
ララの能天気な声が響く。
シリウスはそのまま庭の植え込みにダイブし、「覚えていろよー!」という定番の捨て台詞を残して走り去っていった。
倉庫に残されたのは、椅子を片手で軽々と持ち上げたまま、ピカピカのボタンを見つめるシャリー。
「……また、怖がらせてしまったわ」
「いいえシャリー様! 見てください、あの王子の動き! 野生の鹿のように躍動感がありました! あなたの愛が、彼を生物として進化させているのです!」
「……進化……?」
「そうです! 愛とは、相手を強くするもの。シャリー様と結ばれる頃には、王子はきっと世界最強の騎士になっているはずです!」
(……そうなの? 私が怖がらせるたびに、シリウス様が強くなるのなら……それは、良いことなのかしら?)
シャリーは、自分の怪力と強面が、図らずも王子のトレーニングになっているというポジティブ(?)な解釈を受け入れ始めた。
しかし、その日の放課後。
シリウスが「護身術」の特別講習を緊急で申し込んだという噂が学園中に広まった。
彼は本気で、婚約者という名の魔王から生き延びる術を模索し始めたのである。
「……次は、もっと。優しく、なりたいわ……」
シャリーの呟きは、今日もまた、重低音の呪詛となって空に消えていった。
第一王子シリウス・フォン・アステリアは、埃っぽい空気の中でガタガタと震えながら、扉の隙間から廊下を伺っていた。
「……いないな? よし、今のうちに反対側の非常階段から脱出を……」
昨日の「ボタン剥ぎ取り事件」以来、シリウスの精神は限界に達していた。
彼にとって、婚約者のシャリーはもはや「愛を語り合う相手」ではなく、「いつ背後から首を刈りに来るか分からないプレデター」と同義だった。
(あんなに恐ろしい執念、見たことがない! 袖を掴むだけであの握力だぞ!? もし僕の腕を掴まれていたら、今頃は骨が粉々になっていたに違いない!)
シリウスは自分の細い腕をさすりながら、冷や汗を拭う。
すると、静まり返った廊下の奥から、重厚な、それでいて規則正しい「カツ……カツ……」という足音が聞こえてきた。
「ひっ……!」
シリウスは反射的に扉を閉め、鍵をかけた。
しかし、足音は扉の前でピタリと止まる。
(くるな……くるな……。僕はまだ死にたくない。まだ結婚もしていないし、美味しいタルトも食べ足りないんだ!)
「…………シリウス、さま」
扉の向こうから、冷気すら感じる低音ボイスが響いた。
シャリーだ。
彼女は、昨日手に入れてしまった(もぎ取ってしまった)ボタンを、一晩中かけて磨き上げていた。
そのボタンを、今日こそは丁寧にお返しし、昨日の非礼を詫びるつもりでここへ来たのだ。
(シリウス様、ここにいらっしゃるのは分かっているわ。だって、扉の向こうから、小動物が震えるような可愛い気配が漏れているもの。ああ、愛おしい……!)
シャリーの脳内では、震えるシリウスを優しく抱きしめ、「よしよし」とあやす妄想が広がっている。
だが、現実の彼女は、扉の前に仁王立ちし、獲物を追い詰めた処刑人のような殺気を放っていた。
「……あけて、ください。……これを、お返し……したいの……」
「嫌だ! 開けるものか! 『これ』って何だ! 呪いのコインか!? それとも僕の指の代わりになる何かか!?」
「……ただの、ボタン、です……。昨日、私が……とってしまった……」
(『とってしまった』……!? あいつ、僕の服を破壊した自覚があるのか! 次は命を『とる』と言いたいのか!?)
シリウスの被害妄想は、加速しすぎて銀河の果てまで到達していた。
そこへ、颯爽と壁を登って(?)現れたララ・メルが、シャリーの肩を叩いた。
「シャリー様! 扉越しに愛を囁くなんて、ロミオとジュリエットの逆バージョンですね! 素敵です!」
「……ら、らら様。シリウス様が、開けてくださらないの……」
「ふむ、これは『照れ』ですね。王子は、シャリー様の美しすぎる声に耐えきれず、自らの理性を守るために引きこもっているのです。ならば、物理的に心を開くしかありません!」
「物理的に……?」
「はい! 愛の力で、その扉を粉砕しましょう!」
「えっ、それは流石に不敬……」
シャリーが戸惑っている間に、ララは扉の鍵穴にヘアピンを差し込み、カチカチと不穏な音を立て始めた。
「あ、あの、ララ様……? それはどこで覚えた技術なの?」
「男爵令嬢たるもの、推しに近づくための技術は一通り嗜んでおります! さあ、開きましたよ!」
ガチャリ、と音を立てて扉が解放される。
中には、隅っこで丸まっていたシリウスが、絶叫と共に椅子を盾にして構えていた。
「くるな! 暴力反対! 平和主義!」
「……シリウス、さま」
シャリーは、一歩踏み出した。
彼女の手には、銀色に輝くボタンが載せられている。
しかし、彼女が精一杯の申し訳なさを込めて顔を歪ませた結果、その表情は「お前の心臓は、このボタンよりも簡単に握りつぶせるぞ」という残虐な宣告に見えた。
「ひいぃぃっ! 笑ってる! あいつ、僕を追い詰めて笑ってやがる!」
「王子、それは慈愛の微笑みです! 仏像のような、深い慈しみの顔ですよ!」
「どんな地獄の仏だ! 怖すぎる!」
シャリーは、シリウスの近くに寄り、そっとボタンを差し出した。
「……ごめんなさい。……きらきら、させて……おきました……」
(せめてものお詫びに、フォンス家秘伝の金属研磨剤で磨いたの。鏡みたいに綺麗でしょう?)
シャリーは少しだけ、誇らしげに目を細めた。
だが、磨き上げられたボタンがシリウスの顔を鏡のように映し出した瞬間、王子はそれを見て叫んだ。
「……ま、眩しい! 僕を失明させて、無力化するつもりか!」
「えっ……?」
「策士だな、シャリー・フォンス! 光で目を眩ませ、その隙に僕を捕獲する算段だろう! そうはいかないぞ!」
シリウスは盾にしていた椅子を投げ捨て(シャリーはそれを片手でキャッチした)、窓から飛び降りようとした。
「あ、王子、そこは二階ですから大丈夫ですよ!」
ララの能天気な声が響く。
シリウスはそのまま庭の植え込みにダイブし、「覚えていろよー!」という定番の捨て台詞を残して走り去っていった。
倉庫に残されたのは、椅子を片手で軽々と持ち上げたまま、ピカピカのボタンを見つめるシャリー。
「……また、怖がらせてしまったわ」
「いいえシャリー様! 見てください、あの王子の動き! 野生の鹿のように躍動感がありました! あなたの愛が、彼を生物として進化させているのです!」
「……進化……?」
「そうです! 愛とは、相手を強くするもの。シャリー様と結ばれる頃には、王子はきっと世界最強の騎士になっているはずです!」
(……そうなの? 私が怖がらせるたびに、シリウス様が強くなるのなら……それは、良いことなのかしら?)
シャリーは、自分の怪力と強面が、図らずも王子のトレーニングになっているというポジティブ(?)な解釈を受け入れ始めた。
しかし、その日の放課後。
シリウスが「護身術」の特別講習を緊急で申し込んだという噂が学園中に広まった。
彼は本気で、婚約者という名の魔王から生き延びる術を模索し始めたのである。
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