悪役令嬢は断罪される前に、既に攻略済ですわ。

恋の箱庭

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会場を埋め尽くす貴族たちが、一斉に息を呑んだ。


サインがなされた婚約解消合意書が、エクレアの手によって恭しく回収される。
それは、ラングドシャ公爵家と王家の絆が、紙一枚の重みで霧散した瞬間だった。


レオン王子は、腕を組んで傲慢に胸を張った。
彼は今か今かと待ち構えているのだ。
私が顔を覆って泣き崩れ、「行かないで、レオン様!」と床に縋り付く無様な姿を。


「……さあ、どうしたミルフィー。今ならまだ、特別に最後の言葉を聞いてやってもいいぞ。惨めに許しを請う言葉ならば、多少の慈悲をかけてやらないこともない」


王子の言葉に、周囲からも「可哀想に……」「公爵令嬢としての誇りもズタズタね」という同情的な声が漏れ始める。


私は、ゆっくりと顔を上げた。
扇で隠していた口元が、わずかに震えている。


(……っ。……あ、危なかった。笑いが漏れるところだったわ!)


私は深呼吸をし、溢れ出しそうな歓喜を「驚愕」の色に塗り替えて、王子の目を見据えた。


「殿下。……本気で、これで終わりなんですのね? もう私は、貴方の婚約者ではなく、ただのミルフィー・ラングドシャに戻ったということで、間違いございませんのね?」


「フン、何度言わせるつもりだ。そうだ、君は自由(フリー)……いや、追放された身だ! もはや私の隣に立つ資格はない!」


「……自由……フリー……。ああ、なんて甘美な響きかしら」


私は天を仰いだ。
脳内では今、数百人の天使がラッパを吹き鳴らし、バラの花びらが舞い踊るパレードが開催されている。


明日からは、朝の五時に起きて王妃教育の予習をしなくていい。
三日に一度の、王子の自慢話を聞かされるだけの苦行のような茶会に出なくていい。
「公爵令嬢らしくしなさい」と口うるさい教育係の目を盗んで、夜食のケーキを食べる背徳感に怯える必要もないのだ!


「……お嬢様。喜びが顔から漏れすぎて、周囲がドン引きしております」


隣でエクレアが、低く鋭いツッコミを入れてきた。


「お、おほほほ! 失礼。あまりのショックに、少しばかり気が動転してしまいましたわ!」


私は慌てて扇で顔を隠し、肩を震わせた。
……笑いすぎて、本当にお腹が痛い。


「そうだろう、そうだろう! さあ、泣け! 叫べ! 君の傲慢さが招いた結末を、その身で噛みしめるがいい!」


レオン王子が、待ってましたとばかりに勝ち誇る。


しかし、そこで再びクララが空気をぶち壊した。


「お姉様! 泣かないでください! 私、お姉様が自由の身になったお祝いに、明日は特大のシュークリームを作って持って行きますから!」


「クララ嬢……君、今、お祝いと言ったか?」


王子の顔が引き攣る。


「はい! お祝いです! だって、お姉様はいつも仰っていましたもの。『あの金ピカナルシストの相手をするより、庭の雑草を数えている方が有意義だわ』って!」


会場に、冷たい風が吹き抜けた。


「……ミルフィー、君。私のことを、金ピカナルシストと?」


王子の目が、ドロリとした何かに染まっていく。


「え、ええっと、それは……。殿下、言葉の綾というものが……」


「綾じゃないですよ、お姉様! 『あの鏡ばかり見て前髪を気にする暇があるなら、少しは国政の勉強をしたらどうなの、あのカボチャ頭は』とも仰ってました!」


「クララ! 余計な情報を追加するのをやめなさい!」


私はついに扇を叩きつけ、クララの口を塞いだ。
だが、もう遅い。
会場の貴族たちは、私を「婚約破棄された可哀想な女」から、「王子をカボチャ頭と呼んでいた恐ろしい女」へと、認識を上書きしてしまった。


「……いい。もういい、ミルフィー。君の正体はよく分かった」


レオン王子が、震える指で出口を指差した。


「今すぐ私の前から消えろ! ラングドシャ公爵家には、追って正式に断罪の沙汰を下す! 君のような不敬極まりない女、牢獄へ送ってやる!」


「あら、それは楽しみですわ。牢獄のベッドは硬そうですから、マイ枕を持参してもよろしいかしら?」


私は優雅に一礼し、軽やかな足取りで出口へと向かった。
もはや、隠しきれない喜びが歩調に現れている。


「お姉様ー! 私も行きます! 待ってくださいー!」


クララがドレスを捲り上げて、私の後を追ってくる。


「待て、クララ! 君はここに……私の妃になるための儀式が……!」


「嫌です! お姉様のいないパーティーなんて、砂糖の入っていないジャムと同じです! さようなら、カボチャ頭の殿下!」


「……カボチャ……。私が、カボチャ……」


崩れ落ちる王子を背後に置き去りにし、私たちは夜風が心地よい王宮のバルコニーへと飛び出した。


「お嬢様。馬車の準備が整っております。……ちなみに、公爵様からは『娘が自由になったなら、今夜は赤飯だ』との伝言を預かっております」


「お父様も気が早いわね。……でも、悪くないわ。クララ、貴女も来るでしょう?」


「はい! 公爵家のお赤飯、食べてみたいです!」


夜空に浮かぶ満月が、私たちの自由を祝福しているように見えた。


「さあ、行きましょう。明日からは、誰にも邪魔されない『女子会』の始まりよ!」


私は、人生で一番晴れやかな気分で、夜の街へと馬車を走らせた。
婚約破棄。
それは一般的には終わりの合図かもしれない。
けれど、私とクララにとっては、最高に愉快な物語の、たった序章に過ぎなかった。
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