婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「……ふぅ。作戦終了、といったところでしょうか」

ダンスが終わると、私はすぐにセリウス閣下を促してバルコニーへと避難した。

夜風が火照った頬に心地よい。

会場からはまだ、興奮冷めやらぬ拍手とざわめきが聞こえてくるが、このバルコニーは静寂に包まれていた。

私は手元の扇子をパタパタと動かしながら、大きく息を吐いた。

「お疲れ様でした、閣下。私の『防波堤』としての機能は、期待通りでしたか?」

「ああ。期待以上だ」

セリウス閣下は手すりに寄りかかり、夜空を見上げながらグラスを傾けた。

その横顔は、執務室で見せる鬼のような厳しさが消え、どこか憑き物が落ちたように穏やかだ。

「これほど静かな夜会は初めてだ。いつもなら、この時間帯は『姪をよろしく』だの『娘を側室に』だのという猛攻に晒され、頭痛薬が手放せないのだが」

「私の『悪名』が役に立ったようで何よりです。これでもう、誰も閣下に近づこうとはしないでしょう。『あの女と関わると、家計の恥部を暴露される』と広まりましたから」

「フッ……頼もしい限りだ」

閣下は短く笑った。

その笑い声が、あまりにも自然で、そして優しかったので、私は少しだけドキリとした。

(……変な感じ)

いつもは「効率」だの「承認」だの、業務的な単語しか交わさない相手だ。

それなのに、今の空気は妙に柔らかい。

まるで、長年連れ添った夫婦が、仕事終わりに晩酌をしているような――。

(いやいや、何を考えているのテレナ! これはビジネスよ!)

私はブンブンと首を振って、邪念を追い払った。

「そ、それで閣下。今回の報酬ですが、基本給に加えて『ダンス同伴手当』と『風評被害手当』を追加させていただきますね」

「構わない。好きなだけ請求しろ」

「えっ」

即答だった。

いつもなら「その根拠は?」とか「算出式を出せ」とか言ってくるはずなのに。

「……いいのですか? 私、結構ふっかけますよ?」

「今の私にとって、君との時間は金には代えられない価値がある」

「……はい?」

セリウス閣下が、ゆっくりとこちらを向いた。

月明かりの下、その銀色の瞳が、吸い込まれそうなほど深く輝いている。

「テレナ。君といると……楽だ」

「それは……私が先回りして雑務を処理するからでは?」

「それもある。だが、それだけではない」

閣下は一歩、私に近づいた。

その距離、わずか三十センチ。

大人の男性の香りと、微かなワインの香りが鼻をくすぐる。

「君の前では、私は『宰相』の仮面を外せる。無理に愛想笑いをする必要もなければ、腹の探り合いをする必要もない」

「……私が腹芸のできない、即物的な人間だからですね」

「言葉を飾る必要がない、ということだ。君のその、飾らない合理性が……私には心地いい」

「……」

私は言葉を失った。

褒められているのだろうか。それとも「お前は可愛げがない」と言われているのだろうか。

論理的に分析しようとするが、脳内の計算機がエラーを吐いて止まってしまう。

「……閣下、酔っていらっしゃいます?」

「シラフだ」

「では、熱でも? 働きすぎで思考回路がショートしているのでは?」

私が背伸びをして、閣下の額に手を伸ばそうとした時だった。

スッ、と。

閣下の大きな手が、私の手を空中で優しく包み込んだ。

「っ!?」

「テレナ」

名前を呼ばれる。

低く、甘く、鼓膜を揺らす声。

閣下は私の手を握ったまま、もう片方の手を私の顔へと伸ばしてきた。

その指先が、風で乱れた私の横髪を掬い、耳にかける。

指が頬に触れた。

冷たいはずの「氷の宰相」の指先は、驚くほど熱かった。

「……髪が、乱れている」

「……あ、ありがとうございます」

心臓が、早鐘を打っていた。

ドクン、ドクン、と五月蝿いくらいに鳴っている。

これは何だ?

不整脈か? 過労か? それともダンスによる有酸素運動の影響がまだ残っているのか?

「……君は」

閣下の手が、私の頬から離れない。

そのまま親指で、私の唇の端をなぞるように触れた。

「……意外と、可愛い顔をするんだな」

「ッ!!??」

ブワッ!!

私の顔面温度が急上昇したのが分かった。沸点到達。オーバーヒートだ。

「か、かかか、閣下!? 何を仰っているのですか!? 見積もりにない発言は控えてください!」

私はパッと飛び退いた。

心臓が口から飛び出しそうだ。

「可愛い」だって? 私が? この悪役令嬢テレナが?

レイド殿下には「可愛げがない」「鉄仮面」「守銭奴」と罵られ続けてきた私が?

「事実を述べただけだ」

閣下は少しだけ残念そうに手を下ろしたが、その瞳は悪戯っ子のように楽しげに細められている。

「計算外だったか?」

「だいぶ計算外です! 誤差の範囲を超えています!」

私は熱い頬を両手で覆い、必死に冷静さを取り戻そうとした。

「そ、そういう冗談は、心臓に悪いので禁止します! 労災認定しますよ!」

「冗談ではないのだがな」

「聞こえません! あー、あー!」

私は子供のように耳を塞いだ。

この男、危険すぎる。

仕事ができる上に、天然でこういうことをしてくるなんて。これでは私の精神的防壁(ファイアウォール)が持たない。

「……ふっ」

閣下は再び、クスクスと笑い出した。

「分かった、降参だ。君を困らせるつもりはなかった」

「……絶対、楽しんでいましたよね?」

「否定はしない。君の反応が新鮮でな」

閣下はグラスを置き、私に向かって手を差し出した。

「そろそろ戻ろうか、テレナ。あまり長く姿を消していると、また変な噂が立つ」

「……そうですね」

私は深呼吸を一つして、まだ少し震えている自分の手を、閣下の手のひらに重ねた。

「……業務再開です」

「了解した」

私たちは再び、鉄壁の「ビジネスパートナー」の顔に戻り、バルコニーを後にした。

だが。

繋いだ手から伝わる熱だけは、先ほどまでとは明らかに違っていた。

ただの「上司と部下」という枠組みには、もう収まりきらない何かが、私たちの間に芽生え始めていた。

(……危険だわ)

私は会場へ戻る廊下を歩きながら、こっそりとため息をついた。

(このままだと、私の『老後計画』に、とんでもない変数が組み込まれてしまう気がする)

国外への高飛び。優雅な独身生活。

その完璧な青写真の端っこが、セリウス閣下という存在によって、少しずつ、しかし確実に書き換えられようとしている。

それが吉と出るか、凶と出るか。

今の私には、まだ計算できなかった。

          ◇

会場に戻ると、再び好奇の視線が突き刺さったが、私たちは何食わぬ顔で振る舞った。

「あら、セリウス閣下。口紅が少し乱れていましてよ?」

「……おや、そうか。直そう」

わざとらしい会話を交わし、「バルコニーで何かありました感」を演出する。これも「防波堤」としての業務の一環だ。

周囲の令嬢たちが「キーッ!」とハンカチを噛む音が聞こえてきそうだ。

「……やりすぎではないか?」

閣下が小声で聞いてくる。

「これくらいで丁度いいのです。これで閣下は『悪役令嬢の毒牙にかかった哀れな宰相』として同情されつつ、誰も手出しできなくなります」

「……君の毒牙になら、かかっても悪くない気もするが」

「何か仰いました?」

「独り言だ」

その時だった。

「テ、テレナ……!」

会場の隅から、亡霊のような声が聞こえた。

見ると、壁際にうずくまるようにして、レイド殿下がこちらを見ていた。

その目は真っ赤に充血し、手には空になったワイングラスが握られている。

「……僕とは、あんな風に踊ってくれなかったのに……」
「……僕とは、あんな楽しそうに笑わなかったのに……」

殿下の周囲にだけ、どんよりとした雨雲が見えるようだ。

「……レイド殿下、大丈夫でしょうか?」

「放っておけ。自業自得だ」

セリウス閣下は冷たく切り捨てたが、私は少しだけ胸が痛んだ。

いや、胸が痛んだのではない。

「あの方、ワインを飲みすぎて高価な絨毯に粗相をしないかしら?」という、清掃費用の心配をしただけだ。

「ミナ様は?」

見回すと、ミナはビュッフェコーナーの前で、山盛りの肉料理を皿に積み上げていた。

「テレナ様ー! このローストビーフ、絶品です! あ、後でタッパーに入れて持ち帰ってもいいですか!?」

遠くから手を振るミナ。

……うん、あの子は通常運転だ。

「……平和ですね」

「君の感覚は独特だな」

閣下は苦笑しつつ、私の腰に手を回した。

「さあ、最後の挨拶回りだ。終わったら、私の執務室で……」

「仕事、ですよね?」

「ああ。もちろん」

閣下はニヤリと笑った。

「君との『夜の残業』を楽しみにしている」

「言い方! 誤解を招きますから!」

私は閣下の脇腹を肘でつついた。

こうして、波乱と胸キュン(不認可)に満ちた夜会は、一応の成功を収めて幕を閉じた。

だが翌日。

この夜会の成功が、新たな、そしてとんでもないトラブルの引き金になるとは、私たちはまだ知る由もなかった。

「……外交文書が、ない?」

翌朝の執務室で、私の悲鳴が響き渡ることになる。
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