婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「――さて、仕事の時間だ、テレナ」

夕刻。
山積みの書類をあらかた片付け、私が「本日の業務終了」の札を掲げようとした瞬間、セリウス閣下が爆弾を投下した。

「今夜は隣国ガーネットの外交使節団歓迎パーティーがある。同行しろ」

私はピタリと動きを止め、能面のような顔で閣下を見た。

「……お断りします」

「なぜだ」

「契約書第4条。『乙(私)は裏方の事務作業に専念し、表舞台への露出は原則行わない』。昨日、閣下が承認したばかりですが?」

「続きがあるだろう。『ただし、甲(閣下)が特に必要と認めた場合はこの限りではない』」

セリウス閣下は、ニヤリと口角を上げた。

「これは『特に必要な場合』だ」

「ただのパーティーでしょう? 閣下お一人で十分では? 愛想を振りまいて、適当にワインを飲んでいれば終わります」

「それができないから頼んでいる」

閣下は苦々しい顔でネクタイを緩めた。

「今回の使節団長は、極度の噂好きだ。私が独身だと知れば、自国の姪だの従姉妹だのを押し付けようと縁談攻勢をかけてくる。さらに国内の有力貴族たちも、ここぞとばかりに娘を売り込んでくるだろう」

「モテる男は辛いですね」

「他人事のように言うな。私の周囲が騒がしくなれば、業務効率が落ちる。それは君にとっても不利益だろう?」

「……む」

痛いところを突かれた。
閣下が縁談対応に時間を取られれば、その分、決裁が遅れる。決裁が遅れれば、私の残業が増える。

それは困る。非常に困る。

「私の役目は?」

「『防波堤』だ。私のパートナーとして振る舞い、寄ってくる有象無象を、その『悪役令嬢』としての悪名と威圧感で蹴散らせ」

「……人聞きが悪いですわね。私はただ、事実を陳列しているだけですのに」

「それが一番効くんだ」

閣下は懐から、金色の封筒を取り出した。

「特別手当だ。ドレスと装飾品代、および精神的苦痛手当として金貨五十枚」

「……!」

私は瞬時に計算した。
ドレスは手持ちのもので済ませればタダ。つまり、五十枚が丸儲け。

「……商談成立です、閣下。その仕事、承りました」

私は封筒をひったくるように受け取った。

「その代わり、私のやり方に口出ししないでくださいね? 多少、手荒になりますから」

「構わん。私の半径二メートル以内を『静寂』にしてくれれば、それでいい」

          ◇

一時間後。王城の大広間。

煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑する会場に、静かな衝撃が走った。

「おい、あれを見ろ……」
「宰相閣下だ。相変わらず氷のようにお美しい……」
「待て、隣にいるのは……まさか!?」

入り口に現れたセリウス閣下。
その腕に手を添えているのは、昨日、婚約破棄されたばかりの私、テレナ・フォン・ベルベットである。

今日のドレスは、深紅のベルベット生地。
「悪役令嬢」のイメージカラーをあえて選び、唇にも鮮烈な赤を引いた。
背筋をピンと伸ばし、顎を上げて会場を見下ろすその姿は、我ながら「反省の色ゼロ」に見えることだろう。

「……視線が痛いですね」

私は唇を動かさずに囁いた。

「『国外追放されたはずの女がなぜここに』という顔だらけです」

「気にするな。堂々としていろ」

閣下は私の手をリードし、会場の中央へと進んでいく。

その瞬間、獲物を見つけたハイエナのように、着飾った令嬢たちの集団が押し寄せてきた。

「セリウス様ぁ~! お久しぶりですぅ!」
「今夜はパートナーがいらっしゃらないと伺っていたのですが……あら?」
「なんで泥棒猫がいるのかしら?」

令嬢たちは、閣下に媚びた視線を送りつつ、私にはあからさまな敵意を向けてくる。

通常なら、ここで私が萎縮するか、あるいは彼女たちの嫌味に腹を立てて騒ぎを起こすところだ。

だが、今の私は「業務中」である。

「皆様、ごきげんよう」

私は扇子を広げ、優雅に微笑んだ。

「あら、そこにいらっしゃるのはマルティナ伯爵令嬢ではありませんか?」

「え、ええ、そうよ! わたくしの名前を覚えているなんて光栄ね!」

「もちろんですわ。先月、お父上の伯爵様が『事業拡大のための融資』を宰相閣下に嘆願にいらっしゃいましたもの」

「っ!?」

「ですが、審査の結果は『不承認』でしたわね。理由は……ああ、これ以上はここで申し上げるべきではありませんわね。伯爵家の資金繰りが火の車だなんて、皆様の前では言えませんもの」

「な……な、な……っ!」

マルティナ嬢の顔が真っ青になった。
周囲の令嬢たちが「え、破産寸前なの?」とざわめき始め、サーッと彼女から距離を取る。

「あ、貴女……!」

「閣下はお忙しい身です。個人的な『お願い』なら、まずは財務省の窓口へどうぞ。整理券をお配りしていますわよ?」

私はニッコリとトドメを刺した。
マルティナ嬢は涙目になり、逃げるようにその場を去っていった。

それを見た他の令嬢たちも、「やばい、家の内情を暴露される」と察したのか、蜘蛛の子を散らすように閣下から離れていく。

「……すごいな」

閣下が感嘆の声を漏らした。

「一撃か」

「私は閣下の執務室にある全ての陳情書に目を通していますから。誰がどのくらい借金があり、誰がどのくらい脱税疑惑があるか、全て頭に入っています」

「歩く極秘ファイルだな」

「情報こそが最大の武器です」

今度は、男性貴族の集団が近づいてきた。
彼らは閣下ではなく、私に興味があるようだ。

「やあやあ、テレナ嬢。昨夜は災難だったねえ」
「殿下に捨てられた傷心の君を、僕が慰めてあげようか?」
「ハハハ、追放先が決まってないなら、我が家の愛人枠が空いているよ?」

下卑た笑いを浮かべる男たち。
セリウス閣下の眉がピクリと動き、殺気を放とうとするのを、私は手で制した。

「あら、皆様。お気遣いありがとうございます」

私は艶然と微笑んだ。

「ですが、愛人契約をご希望でしたら、まずは私の『維持費』をご確認いただけますか?」

「い、維持費?」

「ええ。月額金貨五百枚。これに加えて、ドレス代、宝石代、そして『無能な会話を聞かされるストレス手当』が別途発生します」

「ご、五百……!?」

「それと、そちらの男爵様。奥様の機嫌を取るために購入されたダイヤのネックレス、まだローンが残っていらっしゃいますよね? 新たな女性を囲う余裕がおありで?」

「ギクッ!」

「そちらの子爵様も。領地の特産ワインが不作で、国税の支払い猶予を申請中でしたわよね? そんな中で愛人を囲ったと知れたら、監査局がどう判断するか……」

「ヒッ、ヒィィッ!」

男たちの顔色が土色に変わる。

「さあ、商談を続けますか? それとも、お家に帰って家計簿を見直しますか?」

「し、失礼したぁーっ!!」

男たちは脱兎のごとく逃げ出した。

かくして。
セリウス閣下の周囲半径五メートルには、誰も寄り付かない「完全な空白地帯」が完成した。

「……快適だ」

閣下はワイングラスを傾け、心底満足そうに息を吐いた。

「かつてないほど空気が美味い。パーティーとは、こんなに静かなものだったのか」

「毒を持って毒を制す、です。私が『毒』である限り、誰も近寄ってきません」

「君は毒ではない。特効薬だ」

閣下は優しい目で私を見た。

「感謝する、テレナ。おかげで使節団長とも、余計な茶々を入れられずに建設的な話ができそうだ」

「それは重畳。では私は、壁の花として待機して……」

私が壁際へ下がろうとした時、楽団の演奏がワルツへと変わった。

「待て」

閣下が私の手を取った。

「え?」

「『防波堤』の仕上げだ。私と君が不仲だと思われれば、またハイエナが寄ってくる。円満なビジネスパートナーであることを誇示する必要がある」

「……つまり?」

「踊るぞ」

有無を言わせぬ圧力で、私はダンスフロアへと連れ出された。

衆人環視の中、氷の宰相と悪役令嬢が向かい合う。

「……足を踏んでも知りませんよ。私、殿下と踊る時はいつもわざと踏んでいましたから」

「私をあのバカと一緒にするな。リードは任せろ」

閣下が私の腰に手を回す。
その手つきは驚くほど手慣れていて、そして強引だった。

音楽に合わせて、私たちは回る。

驚いた。
レイド殿下とのダンスは、いつも私が必死に合わせて、転ばないように支える介護のようなものだったのに。

セリウス閣下とのダンスは、まるで自分が無重力空間にいるかのように軽い。
私の次の動きを完全に予測し、最適な位置へ導いてくれる。

仕事の時と同じだ。
阿吽の呼吸。最高効率の動作。

「……悪くない」

閣下が耳元で囁いた。

「君とのダンスは、計算式のように美しい」

「……ロマンチックのかけらもない褒め言葉ですね」

「事実だ。無駄がない」

私たちはフロアを支配していた。
誰もが息を呑んで見つめる中、深紅のドレスと漆黒の礼服が交差する。

視界の端に、呆然と立ち尽くすレイド殿下と、その隣でペンライト(?)を振って応援しているミナの姿が見えた気がしたが、私は見なかったことにした。

今はただ、この完璧な時間を楽しもう。
これも業務の一環。
そう、高額な手当分の仕事をしているだけなのだから。

……胸の鼓動が少し早くなっているのは、きっと運動不足のせいだ。
絶対にそうだ。

「テレナ」

曲が終わる直前、閣下が私を引き寄せた。

「この契約、延長を希望したいのだが」

「……条件次第ですね」

私は顔を背け、赤くなりそうな頬を隠した。

「検討しておきます」

フィナーレの音が鳴り響き、会場からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。
それは、私たちが「最強のペア」として社交界に認知された瞬間でもあった。
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