婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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嵐(レイド殿下)が去り、執務室に再び平穏が訪れた――かと思われた。

だが、神は私に休憩を与えるつもりはないらしい。

「失礼いたしますぅ……」

扉の隙間から、おずおずと顔を覗かせたのは、ピンクブロンドのふわふわした髪の少女。

昨日の婚約破棄騒動のヒロイン、男爵令嬢ミナである。

(げっ)

私は心の中で盛大に舌打ちをした。

レイド殿下の次は、その恋人か。

このカップルは、揃いも揃って宰相執務室をデートスポットか何かと勘違いしているのではないか。

「……何の御用でしょうか、ミナ様」

私は書類から目を離さず、氷点下の声で応対した。

「レイド殿下なら、先ほど追い返しましたわよ。後を追うなら出口はあちらです」

「あ、いえ……殿下のことではなくて……」

ミナはモジモジしながら、部屋の中に入ってきた。

その瞳は潤み、小動物のように震えている。

(出たわね、その上目遣い)

私は警戒レベルを最大に引き上げた。

これは「私、いじめられてます」アピールの前兆だ。ここで私が冷たくあしらえば、彼女は「怖い!」と泣き出し、どこからともなく現れた取り巻きが私を非難する――というのが王道パターン。

だが、ここは宰相執務室。観客は仕事中毒のセリウス閣下と、私に餌付けされた文官たちだけだ。

「テレナ様……あ、あの……」

ミナが私のデスクの前に立つ。

私はペンを置き、腕を組んで彼女を見据えた。

「はっきりおっしゃったらどうです? 『私をいじめるのはやめてください』? それとも『殿下を諦めてください』? どちらも時間の無駄ですので、お引き取りを」

「ち、違いますっ!」

ミナが勢いよく首を横に振った。

そして、彼女は背中に隠していた「何か」を、バッと私の目の前に差し出した。

「これにっ……サインをください!!」

「……は?」

私の思考が停止した。

差し出されたのは、真っ白な色紙……ではなく、私が以前、学園の課題で提出し、優良模範解答として掲示された論文の写しだった。

「……えっと、サイン? 誰の?」

「テレナ様の! テレナ様のサインですぅ!」

ミナは興奮気味に鼻息を荒くした。

さっきまでの小動物のような怯えはどこへやら、その瞳は獲物を狙う肉食獣のようにギラギラと輝いている。

「私、ずっとテレナ様のファンだったんです!」

「……はい?」

「入学式の代表挨拶で、テレナ様が『学園の予算配分における不公平性の是正』について演説された時から、もう心奪われちゃって! あんなに堂々と、教師陣を論破する姿……痺れましたぁ!」

「……」

私は口をポカンと開けたまま、助けを求めるようにセリウス閣下を見た。

閣下もペンを空中で止めたまま、珍しく呆然としている。

「あ、あと! 食堂で貴族令息が騒いでいた時に、『うるさい。食事の味が落ちる』って一喝して黙らせたあの冷たい視線! 最高にクールでした! 私、あの時のテレナ様のブロマイド(隠し撮り)を持ってるんです!」

「捨てなさいそんなもの!」

私は思わずツッコミを入れた。肖像権の侵害だ。

「ですから、その……近くでお話ししたくて……でも、私みたいな下級貴族じゃテレナ様に近づけないし……」

ミナは頬を染め、恥ずかしそうに指をこね合わせた。

「だから、手っ取り早く近づくために、レイド殿下を利用させてもらいました」

「……ん?」

今、とんでもない発言が聞こえた気がする。

「利用?」

「はい。殿下の近くにいれば、婚約者のテレナ様とも会えるチャンスがあるかなって。殿下ってチョロ……いえ、純粋なので、ちょっと『すごいですねぇ』って褒めたら、すぐに婚約者にしてくれるって言うんですもの」

「……」

執務室が、しんと静まり返った。

文官たちが震え上がっている。

この子、天然のフリをした猛獣だ。

それも、私とは別ベクトルの。

「で、でもまさか、婚約破棄までしちゃうなんて計算外でしたぁ。私としては、テレナ様の側室……じゃなくて、専属メイドとかになれれば良かったんですけど」

「目標設定がおかしいわよ」

「それで、テレナ様が国外追放されちゃうって聞いて、もう居ても立ってもいられなくて! でも、ここにいらっしゃるって聞いて安心しました! やっぱりテレナ様は不死身ですね!」

ミナは満面の笑みで、論文のコピーを私に押し付けた。

「お願いします! ここに『ミナへ』って書いてください! 家宝にします!」

私は頭痛をこらえながら、こめかみを押さえた。

状況を整理しよう。

一、ヒロインだと思っていた女は、私の強火ファンだった。
二、王子はただの「推しに近づくための踏み台」だった。
三、現在、私の目の前でサインをねだっている。

(……どういうことなの、この世界)

「テレナ。……してやれ」

背後から、セリウス閣下の震える声が聞こえた。笑いを堪えているらしい。

「仕事の邪魔だ。さっさとサインをして追い返……いや、帰ってもらえ」

「……分かりましたよ」

私は溜息をつき、ペンを取った。

サラサラと流れるような筆記体で『ミナ嬢へ テレナ・フォン・ベルベット』と署名する。

「はい。これでいい?」

「きゃあああ! ありがとうございますぅ!!」

ミナは色紙を抱きしめ、頬ずりした。

「一生ついていきます! あ、テレナ様のゴミとかあったらください! コレクションします!」

「あげません。帰りなさい」

バンッ!!

その時、三度(みたび)扉が開かれた。

「ミナ! 無事か!?」

肩で息をするレイド殿下が飛び込んできた。

どうやら、ミナが一人で私のところへ来たと聞いて、慌てて追いかけてきたらしい。

「テ、テレナ! 貴様、ミナに何を……! 彼女をいじめるなら僕が相手だ!」

殿下は私とミナの間に割って入り、ミナを背にかばうようにして私を睨みつけた。

「大丈夫かミナ! 酷いことを言われなかったか!?」

「……」

ミナは、自分の推し活(サイン鑑賞)を邪魔されたことで、スッと真顔になった。

そして、殿下の背中越しに冷ややかな視線を向ける。

「殿下。今、大事なところなので黙っててもらえます?」

「えっ」

殿下が固まった。

「い、今、なんて……?」

「テレナ様の筆跡の美しさを堪能しているんです。空気読んでください」

「く、空気……?」

「あと、邪魔です。テレナ様が見えません」

ミナは殿下を手で押し退け、再び私に向かってキラキラした笑顔を向けた。

「テレナ様! 今度、お茶会してくださいね! 私、最高級の茶葉を持っていきますから!」

「……ああ、あの『泥水』騒ぎの時の?」

「はいっ! あれ、テレナ様に指導していただいた通りに淹れたら、すっごく美味しくなったんです! やっぱりテレナ様の味覚は神です!」

「……まあ、悪い気はしないわね」

私はまんざらでもない気分になった。

自分の技術や知識を正当に評価されるのは、悪くない。相手がちょっと変な子でも。

「な、な、な……」

置き去りにされたレイド殿下は、パクパクと口を開閉させている。

「ミナ? どうしたんだ? 僕だよ? レイドだよ?」

「知ってますけど。あ、殿下。私、今日はもう帰りますね。このサインを額縁に入れて飾らないといけないので」

「えっ、デートは……?」

「また今度で。テレナ様、失礼します! 閣下も失礼しましたぁ!」

ミナは嵐のように手を振り、スキップしながら部屋を出て行った。

残されたのは、魂が抜けたようなレイド殿下と、呆れ果てた私と閣下。

「……」

殿下は、呆然とミナが消えた扉を見つめている。

その背中があまりにも哀れで、私は少しだけ同情した。

少しだけだ。

「……振られましたね、殿下」

「う、嘘だ……ミナは、恥ずかしがっていただけだ……」

殿下は震える声で呟き、フラフラと廊下へ出て行った。

「……僕のミナ……どこへ……」

その姿が完全に見えなくなってから、セリウス閣下が吹き出した。

「くっ……はははは! 傑作だ!」

閣下は机を叩いて大笑いしている。

「まさか、あのミナ嬢が君の崇拝者だったとはな! レイドの立場がなさすぎる!」

「笑い事ではありませんよ。私のストーカー予備軍が増えただけです」

私は頭を抱えた。

「ですが……まあ、敵対されるよりはマシ、でしょうか」

「そうだな。上手く使えば、レイドの制御装置として使えるかもしれん」

閣下は涙を拭いながら、真面目な顔に戻った。

「テレナ。ミナ嬢を君の『親衛隊長』に任命する」

「嫌な役職を作らないでください」

「レイドが暴走しそうになったら、彼女をけしかけろ。君の命令なら、彼女はレイドを物理的にでも止めるだろう」

「……確かに」

あの熱量は使える。

殿下が私の悪口を言おうものなら、ミナが背後から殿下を刺しかねない勢いだった。

「分かりました。私のファンクラブ……いえ、『対レイド用防衛システム』として活用させていただきます」

「頼もしい限りだ」

私は手元の「要注意人物リスト」からミナの名前を消し、新たに「使い魔(仮)」と書き加えた。

こうして、私の職場環境は、また一つカオスを極めつつも、盤石なものとなりつつあった。

だが、平和な時間は長くは続かない。

次なる試練は、華やかな外交の舞台――夜会への強制参加という形で訪れようとしていた。
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