婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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平和とは、かくも脆いものである。

バラン侯爵を撃退し、午後のティータイムを兼ねた書類整理が順調に進んでいた、その時だった。

バンッ!!

宰相執務室の重厚な扉が、本日二度目の悲鳴を上げて開かれた。

「テレナ! いるのは分かっているぞ!」

聞き覚えのある、無駄に張りのある声。

入ってきたのは、金髪をなびかせた美青年――我が国の元婚約者、レイド・アークライト王太子殿下その人である。

彼は部屋の中を見渡し、文官たちへ指示を出していた私を見つけるなり、勝ち誇ったような笑顔で指を差した。

「はっ! やはりな! まだ城にいたのか!」

執務室の空気が、一瞬にして弛緩……いや、呆れの色に染まった。

文官たちは「またか」という顔で視線を逸らし、セリウス閣下は書類から目を離さずに大きな溜息をついた。

私は持っていたファイルを小脇に抱え、無表情で殿下に向き直る。

「……何用でしょうか、レイド殿下。ここは宰相閣下の執務室です。アポなしでの訪問はご遠慮いただきたいのですが」

「ふん、強がるな!」

殿下はズカズカと歩み寄り、私の目の前で仁王立ちした。

「国外追放と言われて泣いて出て行ったくせに、まだ城をウロウロしているとはな。さては……僕に未練があるんだな?」

「はい?」

私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

未練? 私が? この歩く赤字製造機に?

「素直になれよ。昨日の今日で忘れられるはずがないもんな。僕の顔が見たくて、叔父上(セリウス)に頼み込んで城に置いてもらっているんだろう?」

殿下は前髪をファサッとかき上げた。

キラキラとした効果音が見えるようだ。顔だけは本当に良いのが腹立たしい。

「……殿下。大変申し上げにくいのですが、病院に行かれた方がよろしいのでは?」

「照れるな照れるな。可愛い奴め」

「……(イラッ)」

私のこめかみに青筋が浮かぶのが分かった。

この男の脳内フィルターは、一体どうなっているのか。世界が自分を中心に回っていると信じて疑わない、ある意味で幸せな回路だ。

私は深呼吸をして、努めて事務的なトーンで告げた。

「誤解を解かせていただきます。私がここにいるのは、貴方への未練などでは断じてございません」

「じゃあ何だと言うんだ」

「時給が発生しているからです」

「……は?」

「業務です。ビジネスです。私はセリウス閣下に雇われた『臨時補佐官』として、この部屋の惨状を片付ける対価として、極めて高額な報酬を受け取っております」

私は指を三本立てた。

「貴方の顔を見るためではなく、貴方が散らかした書類を片付けるため。そして、貴方が作った赤字を埋めるため。それ以外の理由は一ミリもありません」

「う、嘘だ! そんな金目当てみたいな……!」

「金目当てですが、何か?」

私は即答した。

「愛だの恋だのでお腹は膨れません。私は現実を見ています。殿下こそ、現実(と書いて請求書と読む)をご覧になった方がよろしいのでは?」

私は机の上にあった『レイド殿下私費請求書ファイル(未払分)』を手に取り、パタパタと扇いだ。

「ぐぬぬ……」

殿下は言葉を詰まらせたが、すぐに気を取り直してニヤニヤし始めた。

「ふっ、そうやって冷たくあしらって、僕の気を引こうという作戦か? 『ツンデレ』というやつだな? ミナが言っていたぞ」

「……ミナ嬢、余計な知識を……」

頭痛がしてきた。話が通じない。

この男とは周波数が違うのだ。AMラジオとWi-Fiくらい違う。

そこへ、これまで沈黙を守っていたセリウス閣下が、静かに口を開いた。

「レイド」

低い、地を這うような声。

「……な、なんだよ叔父上。僕とテレナの痴話喧嘩を邪魔しないでくれないか」

「誰が痴話喧嘩だ。不法侵入だ」

閣下はペンを置き、氷のような視線を甥に向けた。

「今すぐ出て行け。貴様の相手をしている暇はない。テレナの手を止めるな。彼女の時間は、貴様の一分よりも遥かに高価だ」

「ひどいな叔父上! テレナは僕の元婚約者だぞ!? 僕のものみたいなもんじゃないか!」

「元、だ。今は私の部下だ」

閣下は立ち上がり、私の肩をポンと抱き寄せた。

「彼女の所有権……いや、雇用権は私にある。彼女の能力も、時間も、全て私が買い取った。部外者が気安く触れるな」

「えっ」

私は思わず閣下を見上げた。

所有権? 買い取った?

なんだか微妙に聞き捨てならない単語が混じっていた気がするが、閣下の表情は真剣そのものだ。

「な、なんだよそれ! 叔父上までテレナに騙されてるんじゃないの!?」

殿下はジタバタと地団駄を踏んだ。

「テレナなんて、可愛げもないし、口うるさいし、金のことばっかり言うし、最悪な女だぞ!」

「その『口うるさい』諫言のおかげで、貴様は今まで王太子の地位を保てていたのだ。感謝こそすれ、侮辱するなど言語道断」

セリウス閣下の目が据わってきた。

「それとも、昨日の婚約破棄騒動の責任を、今ここで追及されたいか? 貴様の浪費リストを国王陛下に提出してもいいんだぞ?」

「ひいっ! そ、それは困る!」

「なら去れ。二度とこの部屋に顔を出すな」

「くっ、くそー! 覚えてろよテレナ! いつか泣いて謝ってきても知らないからな!」

殿下は捨て台詞を吐き、脱兎のごとく部屋から逃げ出した。

バタンッ!

再び静寂が戻る。

私はふぅ、と息を吐き、セリウス閣下から離れた。

「……助かりました、閣下。あの方と話していると、IQが下がる気がして」

「災難だったな。だが、これで少しは懲りただろう」

「そうだといいのですが……あのポジティブさは、ある種の才能ですね」

「悪性だがな」

閣下は苦笑し、椅子に座り直した。

「それにしても、閣下」

私は少し意地悪な質問をしてみることにした。

「先ほどの『私のもの』発言、少し独占欲が強すぎませんか? あくまで雇用契約上の上司と部下ですよね?」

「……訂正するつもりはない」

セリウス閣下は、書類に視線を落としたまま、さらりと言った。

「有能な人材を囲い込むのは、上に立つ者の義務だ。……それに」

「それに?」

「君が他の誰かのために働く姿など、想像したくもないのでな」

ボソリと呟かれたその言葉は、私の耳にだけ届く音量だった。

「……っ」

不意打ちだ。

この人、無自覚にこういうことを言うから心臓に悪い。

私は熱くなりかけた頬をごまかすように、手元の書類をバサバサと音を立てて整理し始めた。

「さ、さあ仕事に戻りますよ! 雑音が消えた分、集中して片付けないと!」

「ああ。頼むぞ、私の優秀な補佐官」

背中で閣下の笑う気配を感じながら、私はペンを握り直した。

だが、この時の私たちはまだ甘かった。

レイド殿下の「ポジティブな勘違い」が、単独犯で終わるはずがないことを。

その背後には、彼を焚き付ける本当の黒幕――天然(?)令嬢ミナの存在があることを、まだ軽く見ていたのだ。
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