婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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宰相執務室の朝は早い。というか、夜が終わっていないだけかもしれない。

徹夜明けのハイテンションな空気が落ち着き、窓の外が完全に明るくなった頃、新たな絶望――もとい、業務が押し寄せてきた。

「失礼します! 財務省より、追加の補正予算案です!」

「失礼します! 法務省より、貴族間の土地境界トラブルに関する陳情書が!」

「失礼します! 王宮料理長より、今夜のメニューの決裁を!」

扉が開くたびに、文官たちが雪崩のように入ってくる。

彼らの手には、それぞれ分厚いファイルの束。

せっかく昨晩、私が死に物狂いで更地にした机の上に、再び紙の塔が建設されようとしていた。

「……賽の河原かしら」

私は乾いた笑いを漏らした。

積んでも積んでも崩される石の塔。ここは地獄の刑場か何かなのだろうか。

「通常運転だ」

セリウス閣下は、眉一つ動かさずに言った。

「これでもマシな方だ。いつもはこれにレイドの『僕のハンカチが見つからない騒ぎ』が加わる」

「地獄に仏……いえ、地獄にバカがいなくなっただけマシ、ということですか」

「そういうことだ」

閣下は新しい書類の山を引き寄せ、猛然と処理を開始した。

その背中には、黒いオーラのようなものが漂っている。過労死ラインを反復横跳びしている人間の背中だ。

私は溜息をつき、自分の席――閣下の隣に新設された『特別補佐官席』に座った。

「分かりました。では、第二ラウンドといきましょうか」

私は愛用の羽根ペンを指でくるりと回し、ペン先をインク壺に浸した。

「文官たち! 整列なさい!」

私が手を叩くと、部屋に入ってきた者たちがビクリと肩を震わせた。

「え、あ、はいっ!」

「今から私が一時選別を行います。閣下の机に直接物を置くことを禁じます」

「し、しかし、これは緊急で……」

「緊急か否かは私が判断します。そこ! 貴方が持っているのは何?」

私は最前列の文官を指差した。

「はっ! 地方貴族からの『橋の建設許可申請』です!」

「却下」

私は即答した。

「えっ?」

「その申請書、先月も見たわ。予算不足で否決されたはずよ。内容が変わっていないなら、持ってくるだけ時間の無駄。出直しなさい」

「ひぃっ! は、はいっ!」

文官は脱兎のごとく逃げ出した。

「次! 貴方は?」

「えっと、あの、王太子殿下の誕生祭に関する企画書で……」

「ゴミ箱へ。殿下は現在謹慎中です。パーティーどころではありません」

「は、はいっ!」

「次! それは?」

「隣国からの輸入関税に関する……」

「それは重要。こっちへ回して。ただし、添付資料の三枚目が抜けているわよ。取ってきなさい」

「な、なぜ中身を見ずに分かるのですか!?」

「厚みが違うもの。いつもより〇・五ミリ薄い」

「ヒィィィッ!?」

文官たちは悲鳴を上げながら、それでも私の指示に従って右往左往し始めた。

私は門番のように書類を弾き、必要なものだけを閣下の机へと流していく。

「閣下、決裁をお願いします。優先度Sランクです」

「……助かる」

セリウス閣下は、流れてきた書類に目を通し、流れるようにサインをしていく。

そのリズムは心地よいほど一定だ。

「テレナ」

「はい」

「先ほどの橋の建設申請、なぜ先月の案件だと分かった?」

手を動かしながら、閣下が尋ねてきた。

「ああ、あの申請を出している男爵、以前私の父に賄賂を贈ろうとして追い返されたんです。その時の申請理由が『領民のため』ではなく『自分の別荘への近道のため』でしたから」

「……記憶力が良いな」

「恨みと金銭に関する記憶は鮮明ですので」

私は不敵に笑った。

「それに、無駄な書類を見るのは生理的に無理なんです。紙とインクの無駄遣いですから」

「同感だ」

閣下の口元が、わずかに緩む。

「君がいると、仕事がいつもの三倍速で進む。まるで時間が加速しているようだ」

「時は金なり、です。さっさと終わらせて、定時で帰りますよ」

「定時……? それは何語だ?」

「ベルベット家の家訓です。今日から覚えなさい」

私たちは視線を交わし、再びそれぞれの戦場へと戻った。

          ◇

昼下がり。

執務室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。

「おいセリウス! いるか!」

入ってきたのは、派手な服装の中年男性だった。

太った腹を揺らし、尊大な態度で部屋の中を見回す。

侯爵家の当主、バラン侯爵だ。王妃の実家筋にあたるため、いつも威張り散らしている古狸である。

「……バラン侯か。何用だ」

セリウス閣下はペンを止めず、顔も上げずに応対した。

「何用だ、ではない! 先月頼んでおいた、我が領地の鉱山開発の件はどうなっている! まだ許可が下りんのか!」

バラン侯爵はドカドカと歩み寄り、閣下の机をバンと叩いた。

「遅い! 遅すぎるぞ! 宰相の職務怠慢ではないか!」

「調査中だと言ったはずだ。あの山は水源地に近い。開発による水質汚染のリスク評価が終わるまでは許可できない」

「堅いことを言うな! 水などどうとでもなる! 王妃様にも口添えを頼んであるんだぞ!」

出た。虎の威を借る狐。

セリウス閣下が小さく溜息をつき、ペンを置こうとした――その時だ。

「あら、バラン侯爵ではありませんか」

私が、横からスッと口を挟んだ。

バラン侯爵が、ぎょっとしたようにこちらを向く。

「な……テレナ嬢!? なぜここに!?」

「こんにちは。昨夜ぶりですね。まだ『婚約破棄された惨めな女』の顔が見たいのですか?」

私はにっこりと、最高に意地の悪い「悪役令嬢スマイル」を浮かべた。

「いえ、今は『臨時特別補佐官』として、この部屋のゴミ……失礼、不要な案件を整理しておりますの」

「な、なんだと……?」

「侯爵。貴方の鉱山開発計画書、拝見しましたわ」

私は手元の書類の山から、一冊のファイルを抜き出した。

「これですね? 『バラン領北部の露天掘り計画』」

「そ、そうだ! それを早く通せ!」

「お断りします」

私はファイルを侯爵の目の前に放り投げた。

「なっ……!?」

「貴方、この計画書の収支見積もり、どうやって計算しました? 採掘コストが市場平均の半分以下になっていますけど」

「そ、それは……企業努力だ!」

「いいえ。違法労働です」

私は冷たく言い放った。

「近隣の孤児院から子供を集めて働かせようとしていますね? 人件費をタダ同然に抑えて利益を出そうなんて、浅ましいにも程があります」

「な、ななな、何を根拠に!」

「この孤児院への寄付金リスト。貴方の名前が急に増えています。そして、その日付は計画立案の直前。……『労働力の確保』という裏取引があったと見るのが妥当でしょう」

私は扇子を開き、口元を隠した。

「これ、公になれば鉱山開発どころか、爵位剥奪ものですよ? 王妃様のお顔にも泥を塗ることになりますが、よろしいのですか?」

「ひっ……!」

バラン侯爵の顔色が、赤から青、そして白へと変わっていく。

「証拠は?」

「私がそう判断しました。証拠が欲しければ、今すぐ監査官を派遣して孤児院を洗わせてもいいのですけれど?」

「……っ!」

侯爵は脂汗を流し、後ずさった。

私の「悪役令嬢」としての悪名は伊達ではない。「あいつならやりかねない」という恐怖心が、最大の武器になる。

「く、くそっ……! 覚えておれ!」

バラン侯爵は捨て台詞を吐き、転がるように部屋を出て行った。

パタン、と扉が閉まる。

静寂が戻った執務室で、私は扇子を閉じた。

「……ふぅ。大声を出して喉が渇きましたわ。お茶を淹れてくださる?」

私が振り返ると、セリウス閣下がポカンとした顔でこちらを見ていた。

「……どうなさいました? 私の顔にインクでも?」

「いや……」

閣下は、珍しく動揺したように瞬きをした。

「あのバラン侯を、たった三分で追い返すとは……。私が相手をすると、いつも一時間は粘られるのだが」

「閣下は真面目すぎますのよ。あのような手合いには、理屈よりも『弱み』と『恐怖』が効くのです」

「……頼もしいを通り越して、恐ろしいな」

「お褒めの言葉として受け取っておきます」

私がふんぞり返ると、閣下はクックックと肩を揺らして笑い出した。

「どうやら私は、とんでもない猛獣を飼ってしまったらしい」

「失礼な。猛獣ではなく、有能なビジネスパートナーとお呼びなさい」

「ああ、そうだな。……感謝する、テレナ」

閣下の瞳が、優しく細められる。

その視線に、胸の奥が少しだけムズ痒くなった。

「礼には及びません。今の対応で『害虫駆除手当』を追加しておきますから」

「構わない。好きなだけ請求しろ」

閣下は機嫌良さそうにペンを走らせ始めた。

どうやら、この「魔窟」での生活も、そう悪くはなさそうだ。

私は手元の帳簿に『バラン侯撃退報酬:金貨十枚』と書き込み、満足げに頷いた。

よし、順調に稼げている。

この調子なら、私の老後資金はさらに潤沢になるだろう。

だが、その時の私はまだ知らなかった。

この「魔窟」には、まだまだ厄介な魔物――もとい、トラブルが潜んでいることを。

そして、その最大のトラブルメーカーが、意外な形で再登場することを。
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