婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「……ねえ、見た? 今朝のテレナ様」
「見た見た! お肌がつやつやだったわ!」
「やっぱり、愛の力ってすごいのねぇ……」

登城して数分。
私は強烈な違和感を抱いていた。

廊下を歩くだけで、すれ違う侍女や騎士たちが、なぜか私を見て頬を赤らめたり、ニマニマと笑ったりしているのだ。

いつもなら「悪役令嬢だ、目を合わせるな」と避けられるか、「捨てられた女」と嘲笑されるかのどちらかだというのに。

今日の空気は、まるで春のお花畑のようにファンシーだ。

「……おはようございます、テレナ様!」

顔見知りのメイドが、カゴいっぱいの花を抱えて駆け寄ってきた。

「あら、おはよう。その花は?」

「お祝いです! 執務室に飾ってください! 花言葉は『永遠の愛』と『情熱』です!」

「は?」

メイドは花束を私に押し付け、「キャッ!」と叫んで走り去った。

「……何なの、これ」

私は呆然と花束を見下ろした。
中には真っ赤なバラと、ピンクのチューリップ。どう見てもプロポーズ用だ。

さらに進むと、今度は年配の騎士団長に呼び止められた。

「やあ、テレナ嬢! 聞いたぞ!」

「何をですか?」

「いやあ、宰相閣下とついに、な! めでたい! 昨夜は『赤い紙』を交換したとか? 若い二人の門出に乾杯だ!」

騎士団長は私の背中をバンバンと叩き、豪快に笑って去っていった。

「……」

私の脳内で、断片的な情報が繋がっていく。

『愛』、『お祝い』、『赤い紙』。

昨日の外交文書(赤い表紙)の回収劇。あれを目撃されていたのか。
しかも、「赤い紙」=「婚姻届」と誤変換されて。

「……誤解だ。しかも特大の」

私は頭を抱えた。
これはマズい。早急に訂正しなければ、既成事実にされかねない。

私は花束を抱えたまま、足早に宰相執務室へと向かった。

          ◇

バンッ!

私はノックもそこそこに、執務室の扉を開けた。

「閣下! 緊急事態です!」

「……おはよう、テレナ。朝から元気だな」

セリウス閣下は、いつものように書類の山に埋もれていたが、その表情は心なしか晴れやかだった。
机の上には、なぜか高級そうな菓子折りの山ができている。

「そのお菓子、どうしたんですか?」

「今朝から各方面から届いている。『祝・ご成婚』だそうだ」

「やっぱり!!」

私は花束を机にドンと置いた。

「閣下、笑い事ではありません! 城中でとんでもない噂が流れています! 私たちが『極秘結婚』したことになっているんですよ!?」

「知っている」

「知っているなら、なぜ否定しないんですか!?」

「否定する必要があるか?」

閣下はペンを置き、優雅にコーヒーを啜った。

「実害はないだろう。むしろ、菓子がタダで手に入って好都合だ」

「実害は大ありです! 私の『独身貴族・優雅な隠居計画』に傷がつきます! それに、こんな噂が広まったら、私の再婚……いえ、将来の婚活に支障が!」

「……婚活?」

閣下の眉がピクリと跳ねた。
部屋の温度が二度ほど下がった気がする。

「君は、誰かと結婚するつもりなのか?」

「い、いつかはするかもしれませんよ? お金持ちで、優しくて、私の尻に敷かれてくれる人と」

「……却下だ」

「はい?」

「そんな軟弱な男に君は扱えん。君の才能を飼い殺しにするだけだ」

閣下は不機嫌そうに書類をめくった。

「いいか、テレナ。この噂は、戦略的に放置する」

「戦略的放置?」

「ああ。考えても見ろ。私と君が『恋仲』という噂が広まれば、どうなる?」

閣下は指を一本立てた。

「第一に、私への縁談攻撃が止む。誰も『悪役令嬢』から男を奪おうとは思わんからな」

「……確かに、昨日の夜会でも効果は絶大でした」

「第二に、君への嫌がらせも減る。『氷の宰相の愛人』に手を出せば、どうなるか……貴族たちは恐怖して君を遠巻きにするだろう」

「……ボディーガード代わり、ということですか」

「そうだ。相互にメリットがある。『虫除け』として最適だ」

閣下はニヤリと笑った。

合理的だ。
悔しいけれど、反論の余地がないほど理に適っている。

私は腕を組み、しばし計算した。

噂を利用することで得られる『平穏な職場環境』と、『誤解されるリスク』。
天秤にかければ、前者が勝る。仕事の効率化は私の至上命題だ。

「……分かりました。業務上の『偽装カップル』として、噂を利用しましょう」

「賢明な判断だ」

「ただし!」

私は机をバンと叩いた。

「『名誉毀損手当』および『プライバシー侵害手当』を要求します。月額金貨二十枚!」

「……承認する」

「よろしい。では、早速仕事にかかりましょう」

私は自分の席に着き、ペンを取った。
これで話は終わり――のはずだった。

「失礼しますぅ……」

扉が開くと、そこには文官たちが数名、モジモジしながら立っていた。

「どうしたの? 決裁なら箱に入れておいて」

「あ、あの……テレナ様。これ、法務省の女性職員一同からです」

差し出されたのは、可愛らしいラッピング袋に入ったクッキーだった。

「……賄賂?」

「い、いえ! 『応援グッズ』です!」

文官の一人が、目をキラキラさせて言った。

「実は、城内の女性職員の間で、テレナ様は『希望の星』なんです!」

「は?」

「だって、あの『氷の宰相閣下』を陥落させたんですよ!? しかも、婚約破棄された翌日に! その手腕と行動力、まさに働く女性の鑑です!」

「いや、陥落させてないけど」

「『私たちが閣下に怒られても、テレナ様がいれば空気が和む』って、みんな感謝してるんです! どうかこれからも、閣下の氷を溶かし続けてください!」

「頑張ってください、未来の宰相夫人!」

文官たちはクッキーを置いて、逃げるように去っていった。

残された私は、小袋を手にしたまま固まった。

「……未来の、宰相夫人……?」

その単語の響きに、背筋がゾワリとした。

「……閣下。これ、本当に放置して大丈夫なんですか? 外堀が埋められすぎて、コンクリートで固められている気がするんですけど」

「気にするな。クッキーは美味そうだ」

閣下は私の手からクッキーを奪い取り、パクっと一口で食べた。

「うん、悪くない。……君も食べるか?」

「食べますよ! 私の分です!」

私はもう一枚を奪い返した。

ふと見ると、閣下は口元の端にクッキーの粉をつけていた。

「……閣下。子供ですか」

私は無意識にハンカチを取り出し、閣下の口元を拭った。

「あ」

拭いてから気づいた。
これは、非常に、カップルっぽい行動ではないか?

閣下も少し驚いたように目を見開き、それからふわりと微笑んだ。

「……君には、世話を焼かれるな」

「……業務の一環です。上司の身だしなみを整えるのも、補佐官の仕事ですから」

私は慌てて手を引っ込めたが、心臓がまたしても裏切り者のように騒ぎ出した。

この距離感。
噂が真実味を帯びてしまう最大の原因は、他ならぬ私たちのこの『無自覚な距離の近さ』にあるのではないだろうか。

「……テレナ」

「な、なんですか」

「今日の昼食だが、食堂へ行こうか」

「え? いつも執務室でサンドイッチ片手に済ませているのに?」

「たまには外の空気を吸いたい。それに……」

閣下は悪戯っぽく笑った。

「二人で仲良く食事をすれば、噂の信憑性が増して、さらに虫除け効果が高まるだろう?」

「……計算高いですね」

「君ほどではないさ」

「分かりました。ただし、デザートは一番高いやつを頼みますからね!」

「望むところだ」

私たちは顔を見合わせて笑った。

こうして、「噂の二人」は、自らその噂に燃料を投下しにいくことになった。
それが、城中の人々に見守られ、生温かい視線に包まれるランチタイムになるとは知らずに。

そして、その様子を影からじっと見つめる、鋭い視線があることにも気づかずに。

「……ふん。面白くないわね」

柱の陰で、扇子を握りしめる一人の女性。
隣国の美貌の外交官、イザベラが目を細めていた。

「私が狙っていた『氷の宰相』を、あんな小娘が……」

新たな火種が、すぐそこまで迫っていた。
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