婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「――紹介しよう。隣国ガーネットの特使、レオン・ハルフォード伯爵だ」

午後の宰相執務室。
セリウス閣下の紹介で入室してきたのは、歩くフェロモンとでも呼ぶべき男だった。

「やあ、お初にお目にかかる。噂の『氷の宰相』の懐刀、テレナ嬢だね?」

レオン伯爵は、甘い栗色の髪を揺らし、人懐っこい笑顔で私に歩み寄った。
その動作一つ一つが洗練されており、いかにも「女性の扱いに慣れています」というオーラが出ている。

彼は私の手を取ると、手の甲に口付けを落とす……寸前で止めて、上目遣いに私を見た。

「美しい。薔薇のような棘があると聞いていたが、実物は宝石のように輝いている」

「……お上手ですね、伯爵」

私はビジネスライクな笑顔で応対し、スッと手を引いた。

「ですが、お世辞で関税は下がりませんよ?」

「ハハハ! 噂通り手厳しい! だが、そこがいい!」

レオン伯爵は楽しげに笑った。
どうやら、私の塩対応も「エンタメ」として楽しめるタイプのようだ。厄介な手合いである。

「座ってください。商談を始めましょう」

セリウス閣下が不機嫌そうに促した。
閣下は先ほどから、眉間に深い皺を刻んでいる。

無理もない。このレオン伯爵、予定時刻より三十分も遅刻してきた上に、謝罪の一言もなく「道端の猫と遊んでいてね」と言い放ったのだ。
時間厳守の閣下にとっては、最も相性の悪いタイプだろう。

          ◇

商談が始まった。
議題は、ガーネット国からの宝石輸入に関する関税率の改定だ。

「我が国としては、関税を現在の五パーセントから三パーセントへ引き下げてほしい。その代わり、貴国への果物の輸出量を増やそう」

レオン伯爵が提案書を広げる。
内容は悪くない。だが、私は即座に電卓を叩き、首を横に振った。

「却下です。果物の市場価格は変動が激しい。安定財源である関税を下げてまで、リスクを取るメリットがありません」

「おや、つれないね。なら、この条件ならどうだい?」

伯爵は、懐から別の資料を取り出した。
それは、ガーネット国特産の『魔法銀』の独占取引権に関するものだった。

「……!」

私の目が、カッと見開かれた。
魔法銀。魔導具の素材として高騰している希少金属だ。これを独占できるとなれば、我が国の利益は計り知れない。

「……伯爵。これ、本気ですか? 市場価格より二割も安い卸値になっていますが」

「君となら、特別な関係を築きたいと思ってね。……個人的にも、国家的にも」

レオン伯爵は、意味ありげにウィンクをした。
机の下で、彼の靴先が私の足にコツンと触れる。

(……なるほど。ハニートラップならぬ、イケメントラップか)

普通の令嬢なら、この甘いマスクと甘い条件にコロリといくかもしれない。
だが、私はテレナ・フォン・ベルベットだ。

私の脳内計算機が弾き出した答えは――『カモがネギを背負って鍋に入ってきた』だった。

「素晴らしいご提案ですわ、レオン様!」

私はパァッと満面の笑みを咲かせた。
演技ではない。心からの歓喜だ。金貨の山が見えたからだ。

「この条件なら、関税の引き下げどころか、輸送ルートの護衛費用もこちらで持ちましょう! その代わり、契約期間は十年! 途中解約の場合は違約金として取引額の倍額をいただきます!」

「おっと、十年拘束か。君は独占欲が強いね」

「優良物件は逃さない主義ですので」

「フフッ、気に入った。君のような強欲な女性、大好きだよ」

「奇遇ですね。私も、お金持ちで気前のいい殿方は大好きです」

私たちは顔を見合わせて笑い合った。
私の目には「利益」の二文字しか映っていないし、おそらく彼も裏があるだろうが、表面上は実に和やかなムードだ。

「いやあ、楽しいな! どうだいテレナ嬢、今夜食事でも? 契約の細部を詰めながら、君のその美しい瞳について語り合いたい」

「ええ、喜んで! 一番高いレストランを予約しておきますわ! 割り勘はなしですよ?」

「もちろん。君のためなら全財産投げ出してもいい」

商談は最高潮に達していた。
この契約が成立すれば、私のボーナスも跳ね上がる。老後資金が一気に目標額に近づくビッグチャンスだ。

私はウキウキしながら、契約書のドラフトを作成しようとペンを取った。

その時だった。

バキィッ!!

乾いた破砕音が、執務室に響き渡った。

「……?」

私とレオン伯爵は、同時に音のした方を見た。

そこには、セリウス閣下が座っていた。
閣下の手には、無惨にもへし折られた万年筆が握られていた。

インクがボタボタと、白い書類の上に黒い染みを作っている。

「……閣下?」

私は恐る恐る声をかけた。

「万年筆が……お亡くなりに……」

「……粗悪品だったようだ」

セリウス閣下は、折れた万年筆をゴミ箱に投げ捨てた。
その声は、地獄の底から響いてくるように低い。

そして、ゆっくりと顔を上げる。

ヒッ。

私とレオン伯爵は、同時に息を呑んだ。
閣下の目が、笑っていないどころではない。光が消えている。ハイライトがない。
絶対零度の吹雪が、その瞳の奥で吹き荒れている。

「……レオン卿」

「は、はい」

あの軽薄なレオン伯爵が、直立不動になった。

「商談は終わりだ。帰れ」

「えっ? で、でもまだ細部が……」

「我が国の外交官を口説く暇があるなら、自分の国の防衛予算でも見直してこい。貴国の北部は盗賊被害が増えているそうじゃないか?」

「なっ……なぜそれを!?」

「知らないとでも? その程度の情報管理で、私と渡り合えると思うな」

閣下は立ち上がり、机をバンと叩いた。

「魔法銀の件は持ち帰りだ。十年契約など甘い。五十年契約で、かつ価格はさらに一割引き。それが飲めないなら、貴国の輸出品すべての関税を倍にする」

「ば、倍!? そんな無茶な!」

「嫌なら帰れ。今すぐだ」

「ひぃっ! け、検討します! 持ち帰って検討しますぅ!」

レオン伯爵は資料をひったくり、逃げるように執務室を飛び出していった。
去り際に私を見て「ごめんね、デートはまた今度!」と叫んだが、閣下の鋭い視線に射抜かれて転びそうになっていた。

パタン。
扉が閉まる。

静寂が戻った室内で、私は呆然としていた。

「……閣下」

私は立ち尽くす閣下に声をかけた。

「やりすぎです。あんな条件、向こうが飲むわけないじゃないですか」

せっかくの好条件が台無しだ。私のボーナスが、遠のいていく。

「……飲ませる」

「はい?」

「飲ませてみせる。私の手腕でな」

閣下はドカッと椅子に座り直し、新しいペンを取り出した。
その手つきが、少し乱暴だ。

「……どうなさいました? ご機嫌斜めですね」

私はお茶を淹れ直し、閣下のデスクに置いた。

「もしかして、レオン伯爵の香水の匂いがキツすぎました? 私も少し鼻につきましたが」

「……違う」

閣下はカップを手に取らず、じっと私を見つめた。
その視線に、妙な熱がこもっている。

「テレナ。君は、あんなチャラついた男が好みなのか?」

「は? まさか」

私は即答した。

「あの方はただの『カモ』です。お金を持っているから、愛想良くしただけですよ」

「……楽しそうに笑っていたじゃないか」

「利益が出る商談は、いつだって楽しいものです」

「……『美しい瞳について語り合いたい』と言われて、喜んでいただろう」

「『一番高いレストラン』に行けるから喜んだのです。瞳なんてどうでもいいです。なんなら眼球の解剖図でも見せてやりますよ」

私の説明を聞いて、閣下の表情が少しずつ和らいでいく。
こわばっていた肩の力が抜け、いつもの冷静な雰囲気が戻ってきた。

「……そうか。カモか」

「はい。それ以外の何に見えたんですか?」

「……いや」

閣下は口元を手で覆い、ふいっと顔を背けた。

「……私が愚かだった」

「はあ?」

よく分からないが、機嫌は直ったらしい。

「それにしても、閣下。万年筆を折るなんて勿体ないですよ。あれ、特注品ですよね? 修理費、経費で落としませんからね」

「……給料から引いてくれ」

「承知しました」

私は手帳に『万年筆破損代:金貨二枚』と書き込んだ。
ふと、床に落ちたインクの染みを見る。

(……待てよ?)

私は首を傾げた。
さっきの閣下の態度。
レオン伯爵が私を口説き始めたタイミングでの、ペンの破壊。
そして、「あんな男が好みか」という問い詰め。

これって、もしかして。

(……いやいやいや)

私は脳内でその可能性を即座に否定した。

『嫉妬』?
あの氷の宰相が? 私に?
あり得ない。計算式が成立しない。

きっと、職場の規律を乱されたことへの怒りだろう。
あるいは、自分が進めていた商談のペースを、私が勝手に握ってしまったことへの不満か。

「……以後、気をつけます」

私は反省の意を示した。

「独断で話を進めすぎました。これからは、閣下の合図を待ちます」

「……いや、いい」

閣下は私の方に向き直り、真剣な眼差しを向けた。

「テレナ。今後、男と二人きりで食事に行くことは禁止する」

「えっ? なぜですか? 情報収集の場として有用ですが」

「業務命令だ」

「……パワハラでは?」

「特別手当を出す」

「……いくらですか?」

「デート一回分につき、金貨五枚」

「承認します」

私は即座に頷いた。
誰かと食事に行くだけで金貨五枚? 行かないだけで五枚? どちらにせよ美味しい話だ。

「ただし、私との食事は例外とする」

「……はい?」

「私となら、行っていい。むしろ行け。業務だ」

「……はあ。まあ、閣下が奢ってくださるなら」

「もちろんだ」

閣下は満足げに頷き、ようやく書類に目を戻した。

私は自分の席に戻りながら、首を捻った。

(……変な契約が増えたわね)

男と食事禁止。ただし上司はOK。
なんだか、囲い込みが激化しているような気がするが、手当が出るなら文句はない。

私はレオン伯爵の名刺をゴミ箱に捨て(カモじゃなくなったので用はない)、仕事に戻った。

だが、背後で閣下が呟いた一言を、私は聞き逃さなかった。

「……次は、ペンじゃ済まないかもしれん」

その声が、妙に切迫していて、少しだけ背筋が寒くなった。
嫉妬の正体に気づかないフリをするのも、そろそろ限界が近づいているのかもしれない。
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