婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「――以上で、レイド・アークライト元殿下に関する残務整理、および廃嫡に伴う公的書類の処理を完了といたします」

レイドが北の大地へドナドナされてから一週間後。
宰相執務室にて、私は分厚いファイルの束を机に置き、パンパンと手を払った。

「これにて、私の『王太子補佐官(臨時)』としての任務は全工程終了です。お疲れ様でした、私」

私は清々しい笑顔で宣言し、自分のデスクに置いてあった私物――愛用の電卓、高級羽ペン、マイ・ティーカップなどを段ボール箱に詰め始めた。

「……おい」

セリウス閣下が、決裁の手を止めて顔を上げた。
その表情が、みるみるうちに険しくなっていく。

「何を勝手に片付けている?」

「え? 退職準備ですが」

私はキョトンとして答えた。

「私の雇用契約書、第12条をご確認ください。『本契約は、対象となる業務(レイド殿下の補佐および不祥事処理)が完了した時点で終了するものとする』。……完了しましたので、本日付で契約満了です」

「……」

閣下が固まった。
氷の宰相が、彫像のようにフリーズしている。

「あ、引継書はここに置いておきますね。文官たちの教育も済ませてあるので、明日から私がいなくても業務は回るはずです。彼ら、私のスパルタ指導で処理速度が二倍になりましたから」

私はテキパキと荷造りを進める。
心はすでに南の島『アズライト』へ飛んでいた。

さあ、これからは第二の人生だ。
貯まりに貯まった慰謝料と報酬、そしてこの一ヶ月の激務で得た特別手当。
これだけあれば、リゾート地でハンモックに揺られながら、死ぬまでトロピカルジュースを飲んで暮らせる。

「……待て」

閣下が立ち上がった。
椅子がガタッと倒れる音がして、私は振り返る。

「なんですか? まだ何か? あ、離職票なら後で郵送してくだされば……」

「違う!」

閣下は大股で私に歩み寄り、私が抱えようとしていた段ボール箱をガシッと掴んだ。
そして、無言でそれを床に戻した。

「……閣下?」

「辞めるな」

「はい?」

「契約終了など認めん。更新だと言ったはずだ」

閣下の目は血走っていた。
まるで、締切直前の作家のような切羽詰まった表情だ。

「ええ、お話は伺いました。ですが、私は申し上げたはずです。『条件次第』と」

私は腕を組んで、交渉モードに入った。

「閣下。私はこの一ヶ月、過労死ラインギリギリで働きました。レイド殿下の尻拭い、バラン侯爵の反乱鎮圧、そして通常業務の効率化。……十分すぎるほど貢献したと思いますけれど?」

「ああ、その通りだ。君以上の人材はいない」

「でしょう? ですから、もういいじゃありませんか。私は自由になりたいんです。朝寝坊がしたいんです」

「……」

「それに、お金ならもう一生分稼ぎました。これ以上働いて資産を増やす意味がありません。相続税対策が面倒になるだけです」

私が最強のカード「金ならある」を切ると、閣下はぐっと言葉を詰まらせた。

通常の雇用交渉なら、「給与アップ」が最大の武器になる。
だが、今の私にはそれが通用しない。
私は「働く理由」を失ってしまったのだ。

「……テレナ」

閣下は焦りを隠せない様子で、必死に言葉を探している。

「だ、だが……まだ引継ぎが完全ではないだろう! 隣国との通商条約の運用フローが……」

「マニュアル化してあります。ページ15参照」

「予算編成の最終調整が……」

「ドラフト作成済みです。あとは閣下が判を押すだけです」

「……文官たちのメンタルケアは!?」

「彼らには『私のブロマイド(サイン入り)』を配布しました。それを拝めば士気は保たれるはずです」

「……くっ」

完璧だ。
私の退職準備に死角はない。

「閣下、諦めてください。私は渡り鳥です。一つの場所に留まる女ではないのです」

私は再び段ボールを持ち上げた。

「それでは、お元気で。たまには絵葉書でも送りますわ」

「行くな!!」

ドンッ!!

本日四度目(くらい)の壁ドンが炸裂した。
今度は私の背中ではなく、私が持っていた段ボール箱ごと壁に押し付けられた形だ。

「うぐっ……か、閣下! 中のティーカップが割れます! ウェッジウッドの限定品なんですけど!?」

「割れてもいい! 工場ごと買い与えてやる!」

「そういう問題じゃ……!」

「頼む、テレナ。行かないでくれ」

閣下の声が、悲痛な響きを帯びた。

至近距離で見上げる閣下の顔。
その瞳は、いつもの冷徹さなど微塵もなく、ただひたすらに懇願の色を浮かべていた。

「……私が、困るんだ」

「ですから、業務ならマニュアルを……」

「業務の話ではない!」

閣下は叫んだ。

「朝、執務室に来て君がいないと……コーヒーが不味い」

「……は?」

「昼食のサンドイッチの味がしない。夕方、君の『残業代請求します』という声を聞かないと、調子が狂う」

「……」

「夜、誰もいない執務室で……君が隣にいない静寂が、以前より何倍も冷たく感じるんだ」

閣下は私の肩に額を預けた。
その銀髪が、私の頬をくすぐる。

「……これは、マニュアルでは解決できないエラーだ。君にしか修復できない」

(……なにそれ)

私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

それは、これまでのどんな口説き文句よりも、不器用で、論理的ではなくて、でもどうしようもなく切実な言葉だった。

「……閣下」

私は段ボール箱を下ろそうとした。
だが、閣下の手がそれを許さない。

「条件なら、なんでも飲むと言っただろう」

閣下は顔を上げ、私の目を覗き込んだ。

「南の島へ行きたいなら、行けばいい。だが、移住はダメだ。長期休暇だ」

「……え?」

「一ヶ月……いや、二週間の有給休暇を与える。その間、アズライトで好きなだけ寝ていい。フルーツも食べ放題だ。費用は全額国費で持つ」

「……国費で?」

「『宰相補佐官の視察旅行』という名目にする。だから……必ず戻ってこい」

なりふり構わぬ提案だ。
公私混同も甚だしい。だが、その必死さが、なぜか愛おしく思えてしまう。

「……二週間ですか」

私は少し考えた。

「短すぎますね。せめて一ヶ月です」

「……分かった。一ヶ月だ」

「その間、現地からの業務連絡には一切応じませんよ?」

「……善処するが、緊急時は魔導通信を入れるかもしれん」

「電源切っておきます」

「……手紙を書く」

閣下は食い下がった。

「毎日書く。君が戻ってくる日を指折り数えて待っていると、毎日書き送る」

「……重いです」

「構わん。私の執着を見くびるな」

閣下は真顔で言った。
この人、本当にやる気だ。毎日、南の島に宰相からのラブレター(という名の業務報告兼ポエム)が届く恐怖。

私はため息をつき、段ボール箱を床に置いた。

「……分かりました。負けましたよ」

「! 更新してくれるか?」

「保留です。まずは『視察旅行(バカンス)』に行って、そこで考えます」

私はニヤリと笑った。

「もし、その一ヶ月で閣下が過労死していなかったら、あるいは私が現地のイケメンに心を奪われていなければ……戻ってきて差し上げます」

「……現地のイケメンは排除リストに入れておく」

「やめてください、国際問題になります」

閣下はようやく、安堵の表情を浮かべた。
その顔を見て、私もなんだかんだでホッとしている自分に気づいた。

まったく。
いつの間に、こんなに絆されてしまったのだろう。
計算高い悪役令嬢の名折れだ。

「では、出発は明日です。今日はその準備を……」

私が言いかけた、その時だった。

コンコン。

控えめなノックと共に、執務室の扉が開いた。

「失礼いたします。……お取り込み中でしたか?」

現れたのは、初老の紳士だった。
上質なスーツを着こなし、片眼鏡をかけている。その背後には、数名の従者を従えていた。

「……父上?」

セリウス閣下が、驚いて声を上げた。

「アークライト公爵……?」

私も目を見開いた。
セリウス閣下の父親であり、国王陛下の弟。前宰相を務めていた重鎮、アークライト公爵その人だ。

「久しぶりだな、セリウス。……そして、そちらが噂のテレナ嬢か」

公爵は鋭い眼光で私を値踏みした。
その目は、セリウス閣下によく似ている。冷徹で、全てを見透かすような氷の瞳。

「お、お初にお目にかかります。テレナ・フォン・ベルベットです」

私は慌ててカーテシーをした。
段ボール箱を抱えたままだったので、少し不格好になってしまったが。

「ふむ」

公爵は部屋の中を見渡し、散らかった荷物と、微妙な距離感で立っている私たちを見て、眉をひそめた。

「どうやら、込み入った話の最中だったようだが……単刀直入に言おう」

公爵は、懐から一枚の書類を取り出した。

「セリウス。お前に縁談を持ってきた」

「……は?」

空気が凍りついた。

「縁談、ですか?」

閣下の声が低くなる。

「今さら何を。私は結婚する気など……」

「今だからこそだ。レイドが廃嫡となり、王位継承権はお前に移る可能性が高い。ならば、身元不確かな女……例えば『悪役令嬢』などと浮名を流している場合ではない」

公爵は冷ややかに私を一瞥した。

「相手は隣国ガーネットの第三王女だ。この婚姻が成立すれば、両国の同盟は盤石となり、お前の立場も安定する」

「……断る」

閣下は即答した。

「私は政略結婚などするつもりはない。それに、私には既に……」

閣下が私の方を見ようとした。
だが、公爵はそれを遮るように言葉を被せた。

「これは決定事項だ。王家の意向でもある」

「兄上(陛下)が承認したと?」

「ああ。陛下も『セリウスにはそろそろ身を固めさせねばならん』と仰っていた」

公爵は私に向き直り、冷徹に告げた。

「テレナ嬢。君の働きぶりは聞いている。優秀な事務官だそうだな」

「……恐縮です」

「だが、宰相……ひいては未来の国王の伴侶となれば話は別だ。家柄はともかく、その『悪名』は国益を損なう」

ズバリと言われた。
ぐうの音も出ない。

「手切れ金なら用意しよう。君の希望額を言いたまえ」

公爵は小切手帳を取り出した。

「……」

私の脳内計算機が作動した。
手切れ金。公爵家が出すなら、きっと莫大な額だ。
これを貰って、南の島へ行けば、私の人生は上がりだ。
何の憂いもなく、完璧なリタイア生活が手に入る。

これが、私が望んでいたことではなかったか?

私はチラリとセリウス閣下を見た。
閣下は拳を握りしめ、父親を睨みつけている。

「……父上。彼女を侮辱するなら、たとえ父上でも容赦はしない」

「侮辱ではない。取引だ。彼女は金にシビアな合理主義者だと聞いている。ならば、この提案は彼女にとっても最良のはずだ」

公爵は私に小切手を突きつけた。

「さあ、テレナ嬢。金額を書き込みたまえ。それでこの件は終わりだ」

私は小切手を受け取った。
白紙の小切手。好きな数字を書ける魔法の紙。

私はペンを取り出した。

セリウス閣下が、息を呑んで私を見ている。

(……ごめんなさい、閣下)

私は心の中で謝った。

(私は合理主義者なんです。損得勘定でしか動けない女なんです)

私は小切手に、サラサラと数字を書き込んだ。

そして、それを公爵に突き返した。

「……なっ!?」

公爵が目を見開いた。

そこに書かれていたのは、金額ではなかった。

『見積もり不能(Not for Sale)』

「……どういう意味だ?」

「言葉通りの意味です、公爵閣下」

私はニッコリと笑った。

「セリウス閣下の価値は、金銭には換算できません。よって、この取引は成立しません」

「……貴様、金がいらないと言うのか?」

「いいえ、お金は大好きです。ですが」

私はセリウス閣下の隣に歩み寄り、その腕をギュッと抱きしめた。

「この『優良物件』を手放すことによる機会損失(ロス)の方が、手切れ金よりも遥かに大きいと判断しました。将来性、資産価値、そして何より……私との相性(互換性)。全てにおいてプライスレスです」

私は公爵に向かって、堂々と宣言した。

「ですから、お引き取りください。この男は、私が予約済みです」

「……!」

セリウス閣下が、驚きと、そして爆発しそうなほどの歓喜をたたえて私を見下ろしている。

公爵はしばらくポカンとしていたが、やがて「ふん」と鼻を鳴らした。

「……面白い。金で動かない女がいるとはな」

公爵は小切手を破り捨てた。

「だが、王女との縁談は消えんぞ。どうするつもりだ?」

「計算して解決します」

私は即答した。

「隣国との同盟? 王女との婚姻よりも、もっと効率的で利益の出る『代替案』を提示してみせます。一週間以内に」

「ほう。大口を叩く」

公爵はニヤリと笑った。

「いいだろう。一週間だ。それまでに私と陛下を納得させる対案を出せなければ……セリウスは王女と結婚し、君はクビだ」

「望むところです」

公爵は踵を返し、部屋を出て行った。
嵐のような訪問者が去り、静寂が戻る。

「……テレナ」

セリウス閣下が、震える声で私を呼んだ。

「……予約済み、とは?」

「あ、それはその場の勢いで……」

私が言い訳しようとした瞬間、閣下に強く抱きしめられた。

「もう逃がさない。キャンセル料は命懸けだぞ」

「……重いです、閣下」

でも、その重さが、今は心地よかった。

こうして、私の「退職」はまたしても失敗し、代わりに「一週間で国家レベルの難題を解決する」という、とんでもない残業が確定してしまったのだった。
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