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「――レイド・アークライト。面を上げよ」
謁見の間。
静寂の中、国王陛下の厳粛な声が響き渡った。
玉座に座る陛下は、病み上がりとは思えないほどの威厳を放っている。
その御前で、レイド殿下は床に額を擦りつけるように平伏していた。
泥だらけのボロ服、伸び放題の髭。かつての煌びやかな王太子の面影は、どこにもない。
「……はい」
殿下はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は虚ろだが、以前のような逃避の色はない。諦念と、わずかな覚悟が混じり合っていた。
「其の方の罪状は、明白である。バラン侯爵と結託し、武装した私兵を率いて王城に侵入しようとしたこと。これは国家転覆罪、ならびに王族への反逆行為に該当する」
「……弁明の余地もございません」
殿下の声が震える。
いつもなら「違うんだ!」「騙されたんだ!」と叫ぶところだが、今日はおとなしい。
一週間の路上生活と、あの断罪劇を経て、ようやく自分の置かれた立場を理解したらしい。
「よって、本日この時をもって……」
陛下は一呼吸置き、重い宣告を下した。
「レイド・アークライトを廃嫡とし、王位継承権を剥奪する」
「……謹んで、お受けいたします」
殿下は深く頭を下げた。
周囲の貴族たちから、どよめきが起こるかと思ったが、反応は静かなものだった。
「やはりな」「当然だ」という冷ややかな納得の空気が流れている。
「本来ならば死罪、あるいは国外追放が妥当である。……だが」
陛下は視線を横にずらし、セリウス閣下と私を見た。
「宰相セリウス、および特別補佐官テレナより、嘆願書が出されている」
「え?」
殿下が驚いて顔を上げた。
「た、嘆願書……?」
「『彼に死を与えるのは非効率である』とな」
陛下は苦笑しながら、手元の書類を読み上げた。
「『彼には王としての資質はないが、エンターテイナーとしての才能と、驚異的な生命力がある。これを国益に還元させるべきだ』……だそうだ」
「……はい?」
殿下はポカンとして私を見た。
私は扇子で口元を隠し、涼しい顔で頷いた。
「当然ですわ、殿下。死なれては、私の『コンサルティング料』や『慰謝料』を回収できませんから」
「そ、そこ……?」
「生きて、働いて、返していただきます。利子をつけて」
私はニッコリと、悪魔の微笑みを向けた。
セリウス閣下が前に進み出た。
「陛下。レイドの身柄は、王籍を剥奪した後、一市民として『社会更生プログラム』に参加させることを提案します」
「うむ。具体的には?」
「北方の開拓地における、農業従事です」
「の、農業!?」
殿下が叫んだ。
「北方は寒冷地で、人手が不足している。そこで大地を耕し、作物を育てる苦労を知れば、食べ物のありがたみも分かるだろう」
閣下は冷徹に告げた。
「安心しろ、レイド。お前が一週間、ゴミ箱を漁ってまで生き延びた生命力があれば、きっと立派な農夫になれる」
「そ、そんな……僕の手は、剣とペンを持つために……」
「どちらもまともに使えなかっただろう。クワなら使えるかもしれん」
ぐうの音も出ない正論。
「ミナ嬢」
閣下が呼びかけると、控えの間にいたミナが進み出た。
「は、はいっ!」
ミナは緊張した面持ちで、しかし背筋を伸ばして立った(筋肉のせいで姿勢が良い)。
「貴女には、監視役としての任を解く。……自由にしていい」
「……」
ミナはチラリとレイド殿下を見た。
王籍を剥奪され、ただの平民となり、北の果てへ送られる男。
玉の輿どころか、泥舟確定の物件だ。
「……あの、閣下」
ミナは手を挙げた。
「北方の開拓地って、トレーニングジムはありますか?」
「……ないな。だが、丸太運びや岩石除去といった自然のトレーニングなら無限にある」
「!」
ミナの目が輝いた。
「行きます」
「えっ」
殿下が振り向いた。
「ミ、ミナ……? 君、何を……」
「私、ついて行きます。殿下の監視役……じゃなくて、パーソナルトレーナーとして」
ミナは力こぶを作ってみせた。
「殿下は一人じゃ絶対サボりますから。私が横で叱咤激励して、立派な『筋肉農家』にしてみせます!」
「き、筋肉農家……!?」
「嫌ですか?」
ミナがジッと殿下を見つめる。
「嫌ならいいです。私は王都でマッチョな騎士団長を探しますから」
「い、いやだ! 待ってくれ!」
殿下はミナの足に縋り付いた。
「行く! 行くよ! 君と一緒なら、北極でも南極でも行く! だから捨てないでくれぇぇ!」
「……はぁ。仕方ないですね」
ミナは呆れつつも、少し嬉しそうに殿下の頭を撫でた。
「じゃあ、これから毎日スクワット五百回ですよ?」
「ご、五百……死ぬ……」
「死にません。筋肉は裏切りませんから」
会場の空気が、少しだけ和んだ。
バカップル……いや、凸凹コンビの誕生である。
◇
謁見が終わると、私は廊下でレイド殿下(元)を呼び止めた。
「レイド様」
「……テレナ」
殿下はバツが悪そうに私を見た。
もう「殿下」ではない。ただのレイドだ。
「これにて、私たちの婚約破棄騒動も完全決着ですね」
私は懐から、あの一番最初の『婚約破棄合意書』と、追加の『諸経費請求書』の束を取り出した。
「こちらの借金ですが、特別措置として『出世払い』にして差し上げます」
「え?」
「北の大地で成功し、最高級のジャガイモを作って送ってください。それを市場価格で買い取り、借金返済に充当します」
「……ジャガイモでいいのか?」
「ええ。貴方が作ったものなら、それなりの価値はあるでしょう。……ネタとして」
「ひどいな」
レイドは苦笑した。
その顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……ごめん、テレナ。今まで」
彼は小さく呟いた。
「君が口うるさく言っていたことの意味が、今なら少し分かる気がする。……僕は、君に甘えていただけだったんだな」
「気づくのが遅すぎますわ。ですが、気づかないよりはマシです」
「……ありがとう。君のおかげで、僕はやっと……自分の足で立てそうだ」
レイドは私に手を差し出した。
かつて婚約者として繋いだ手。今はもう、別の道を歩む他人の手だ。
私はその手を握り返した。
「お元気で。ミナ様を泣かせたら、北の果てまで請求書を送りつけますからね」
「分かってるよ。……あいつ、僕より強いから、泣かされるのは僕の方だと思うけど」
レイドは笑い、待っていたミナの元へと歩き出した。
二人の背中が、夕陽の中に消えていく。
「……終わりましたね」
隣に立ったセリウス閣下が、ポツリと言った。
「ああ。長かったような、短かったような騒動だった」
閣下は私の横顔を覗き込んだ。
「寂しいか?」
「まさか。清々しています」
私は即答し、大きく伸びをした。
「これでやっと、私の仕事も一段落ですね。レイド様がいなくなったので、私の『尻拭い役』としての任務も終了です」
そう。
私が雇われた名目は、あくまで「王太子の補佐」および「不祥事の後始末」だった。
その元凶がいなくなった今、私の雇用契約も満了となるはずだ。
「……そうだな」
閣下の声が、少し沈んだ。
「王太子不在の今、王位継承問題が片付くまでは、私が暫定的に摂政を務めることになる。……仕事量は減るどころか、倍になるだろう」
「うわぁ、ブラックですね。お悔やみ申し上げます」
私は他人事のように言った。
「では、私はこれにて。退職金の手続きをして、当初の予定通り南の島へ……」
「待て」
閣下が私の手首を掴んだ。
その力が強くて、私は驚いて振り返った。
「……か、閣下?」
「契約終了とは言っていない」
セリウス閣下は、真剣な眼差しで私を射抜いた。
「レイドの尻拭いは終わったが、私の補佐は終わっていない。いや、これからが本番だ」
「……えっと、人件費削減は?」
「必要ない。君一人がいれば、文官十人分の働きをする。コストパフォーマンスは最高だ」
閣下は一歩、私に近づいた。
「それに……君がいなくなると、私が困る」
「仕事が回らなくなるからですか?」
「それもある。だが……」
閣下は言葉を濁し、視線を泳がせた。
氷の宰相らしくない、不器用な反応。
「……とにかく、契約更新だ。条件は見直そう。君の希望を言え」
「希望?」
「給与、休暇、福利厚生。なんでもいい。君を引き止めるためなら、私は国の予算を多少私物化しても構わん」
「職権乱用ですよ」
私は呆れて笑ったが、胸の奥がトクンと鳴った。
この人は、私を必要としてくれている。
「便利な道具」としてではなく、「私」という人間を。
(……南の島かぁ)
私はチラリと窓の外を見た。
青い海、白い砂浜。憧れの隠居生活。
でも、今の私には、書類の山と格闘するこの男の背中の方が、なぜか魅力的に見えてしまうのだから不思議だ。
「……分かりました」
私はため息交じりに言った。
「では、契約更新の交渉に入りましょうか。ただし、私の条件は厳しいですよ?」
「望むところだ」
閣下は安堵の表情を浮かべ、私の手を離さなかった。
「執務室に戻ろう。……コーヒーを淹れてくれ。甘いやつを」
「自分で淹れてください。……と言いたいところですが、特別サービスです」
私たちは並んで歩き出した。
まだ「上司と部下」の枠を出ないけれど、その距離は確実に縮まっていた。
だが、私はまだ気づいていなかった。
閣下が考えている「契約更新」の中身が、単なる雇用契約ではないことに。
そして、その「条件」提示が、私の予想を遥かに超えるものであることに。
謁見の間。
静寂の中、国王陛下の厳粛な声が響き渡った。
玉座に座る陛下は、病み上がりとは思えないほどの威厳を放っている。
その御前で、レイド殿下は床に額を擦りつけるように平伏していた。
泥だらけのボロ服、伸び放題の髭。かつての煌びやかな王太子の面影は、どこにもない。
「……はい」
殿下はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は虚ろだが、以前のような逃避の色はない。諦念と、わずかな覚悟が混じり合っていた。
「其の方の罪状は、明白である。バラン侯爵と結託し、武装した私兵を率いて王城に侵入しようとしたこと。これは国家転覆罪、ならびに王族への反逆行為に該当する」
「……弁明の余地もございません」
殿下の声が震える。
いつもなら「違うんだ!」「騙されたんだ!」と叫ぶところだが、今日はおとなしい。
一週間の路上生活と、あの断罪劇を経て、ようやく自分の置かれた立場を理解したらしい。
「よって、本日この時をもって……」
陛下は一呼吸置き、重い宣告を下した。
「レイド・アークライトを廃嫡とし、王位継承権を剥奪する」
「……謹んで、お受けいたします」
殿下は深く頭を下げた。
周囲の貴族たちから、どよめきが起こるかと思ったが、反応は静かなものだった。
「やはりな」「当然だ」という冷ややかな納得の空気が流れている。
「本来ならば死罪、あるいは国外追放が妥当である。……だが」
陛下は視線を横にずらし、セリウス閣下と私を見た。
「宰相セリウス、および特別補佐官テレナより、嘆願書が出されている」
「え?」
殿下が驚いて顔を上げた。
「た、嘆願書……?」
「『彼に死を与えるのは非効率である』とな」
陛下は苦笑しながら、手元の書類を読み上げた。
「『彼には王としての資質はないが、エンターテイナーとしての才能と、驚異的な生命力がある。これを国益に還元させるべきだ』……だそうだ」
「……はい?」
殿下はポカンとして私を見た。
私は扇子で口元を隠し、涼しい顔で頷いた。
「当然ですわ、殿下。死なれては、私の『コンサルティング料』や『慰謝料』を回収できませんから」
「そ、そこ……?」
「生きて、働いて、返していただきます。利子をつけて」
私はニッコリと、悪魔の微笑みを向けた。
セリウス閣下が前に進み出た。
「陛下。レイドの身柄は、王籍を剥奪した後、一市民として『社会更生プログラム』に参加させることを提案します」
「うむ。具体的には?」
「北方の開拓地における、農業従事です」
「の、農業!?」
殿下が叫んだ。
「北方は寒冷地で、人手が不足している。そこで大地を耕し、作物を育てる苦労を知れば、食べ物のありがたみも分かるだろう」
閣下は冷徹に告げた。
「安心しろ、レイド。お前が一週間、ゴミ箱を漁ってまで生き延びた生命力があれば、きっと立派な農夫になれる」
「そ、そんな……僕の手は、剣とペンを持つために……」
「どちらもまともに使えなかっただろう。クワなら使えるかもしれん」
ぐうの音も出ない正論。
「ミナ嬢」
閣下が呼びかけると、控えの間にいたミナが進み出た。
「は、はいっ!」
ミナは緊張した面持ちで、しかし背筋を伸ばして立った(筋肉のせいで姿勢が良い)。
「貴女には、監視役としての任を解く。……自由にしていい」
「……」
ミナはチラリとレイド殿下を見た。
王籍を剥奪され、ただの平民となり、北の果てへ送られる男。
玉の輿どころか、泥舟確定の物件だ。
「……あの、閣下」
ミナは手を挙げた。
「北方の開拓地って、トレーニングジムはありますか?」
「……ないな。だが、丸太運びや岩石除去といった自然のトレーニングなら無限にある」
「!」
ミナの目が輝いた。
「行きます」
「えっ」
殿下が振り向いた。
「ミ、ミナ……? 君、何を……」
「私、ついて行きます。殿下の監視役……じゃなくて、パーソナルトレーナーとして」
ミナは力こぶを作ってみせた。
「殿下は一人じゃ絶対サボりますから。私が横で叱咤激励して、立派な『筋肉農家』にしてみせます!」
「き、筋肉農家……!?」
「嫌ですか?」
ミナがジッと殿下を見つめる。
「嫌ならいいです。私は王都でマッチョな騎士団長を探しますから」
「い、いやだ! 待ってくれ!」
殿下はミナの足に縋り付いた。
「行く! 行くよ! 君と一緒なら、北極でも南極でも行く! だから捨てないでくれぇぇ!」
「……はぁ。仕方ないですね」
ミナは呆れつつも、少し嬉しそうに殿下の頭を撫でた。
「じゃあ、これから毎日スクワット五百回ですよ?」
「ご、五百……死ぬ……」
「死にません。筋肉は裏切りませんから」
会場の空気が、少しだけ和んだ。
バカップル……いや、凸凹コンビの誕生である。
◇
謁見が終わると、私は廊下でレイド殿下(元)を呼び止めた。
「レイド様」
「……テレナ」
殿下はバツが悪そうに私を見た。
もう「殿下」ではない。ただのレイドだ。
「これにて、私たちの婚約破棄騒動も完全決着ですね」
私は懐から、あの一番最初の『婚約破棄合意書』と、追加の『諸経費請求書』の束を取り出した。
「こちらの借金ですが、特別措置として『出世払い』にして差し上げます」
「え?」
「北の大地で成功し、最高級のジャガイモを作って送ってください。それを市場価格で買い取り、借金返済に充当します」
「……ジャガイモでいいのか?」
「ええ。貴方が作ったものなら、それなりの価値はあるでしょう。……ネタとして」
「ひどいな」
レイドは苦笑した。
その顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……ごめん、テレナ。今まで」
彼は小さく呟いた。
「君が口うるさく言っていたことの意味が、今なら少し分かる気がする。……僕は、君に甘えていただけだったんだな」
「気づくのが遅すぎますわ。ですが、気づかないよりはマシです」
「……ありがとう。君のおかげで、僕はやっと……自分の足で立てそうだ」
レイドは私に手を差し出した。
かつて婚約者として繋いだ手。今はもう、別の道を歩む他人の手だ。
私はその手を握り返した。
「お元気で。ミナ様を泣かせたら、北の果てまで請求書を送りつけますからね」
「分かってるよ。……あいつ、僕より強いから、泣かされるのは僕の方だと思うけど」
レイドは笑い、待っていたミナの元へと歩き出した。
二人の背中が、夕陽の中に消えていく。
「……終わりましたね」
隣に立ったセリウス閣下が、ポツリと言った。
「ああ。長かったような、短かったような騒動だった」
閣下は私の横顔を覗き込んだ。
「寂しいか?」
「まさか。清々しています」
私は即答し、大きく伸びをした。
「これでやっと、私の仕事も一段落ですね。レイド様がいなくなったので、私の『尻拭い役』としての任務も終了です」
そう。
私が雇われた名目は、あくまで「王太子の補佐」および「不祥事の後始末」だった。
その元凶がいなくなった今、私の雇用契約も満了となるはずだ。
「……そうだな」
閣下の声が、少し沈んだ。
「王太子不在の今、王位継承問題が片付くまでは、私が暫定的に摂政を務めることになる。……仕事量は減るどころか、倍になるだろう」
「うわぁ、ブラックですね。お悔やみ申し上げます」
私は他人事のように言った。
「では、私はこれにて。退職金の手続きをして、当初の予定通り南の島へ……」
「待て」
閣下が私の手首を掴んだ。
その力が強くて、私は驚いて振り返った。
「……か、閣下?」
「契約終了とは言っていない」
セリウス閣下は、真剣な眼差しで私を射抜いた。
「レイドの尻拭いは終わったが、私の補佐は終わっていない。いや、これからが本番だ」
「……えっと、人件費削減は?」
「必要ない。君一人がいれば、文官十人分の働きをする。コストパフォーマンスは最高だ」
閣下は一歩、私に近づいた。
「それに……君がいなくなると、私が困る」
「仕事が回らなくなるからですか?」
「それもある。だが……」
閣下は言葉を濁し、視線を泳がせた。
氷の宰相らしくない、不器用な反応。
「……とにかく、契約更新だ。条件は見直そう。君の希望を言え」
「希望?」
「給与、休暇、福利厚生。なんでもいい。君を引き止めるためなら、私は国の予算を多少私物化しても構わん」
「職権乱用ですよ」
私は呆れて笑ったが、胸の奥がトクンと鳴った。
この人は、私を必要としてくれている。
「便利な道具」としてではなく、「私」という人間を。
(……南の島かぁ)
私はチラリと窓の外を見た。
青い海、白い砂浜。憧れの隠居生活。
でも、今の私には、書類の山と格闘するこの男の背中の方が、なぜか魅力的に見えてしまうのだから不思議だ。
「……分かりました」
私はため息交じりに言った。
「では、契約更新の交渉に入りましょうか。ただし、私の条件は厳しいですよ?」
「望むところだ」
閣下は安堵の表情を浮かべ、私の手を離さなかった。
「執務室に戻ろう。……コーヒーを淹れてくれ。甘いやつを」
「自分で淹れてください。……と言いたいところですが、特別サービスです」
私たちは並んで歩き出した。
まだ「上司と部下」の枠を出ないけれど、その距離は確実に縮まっていた。
だが、私はまだ気づいていなかった。
閣下が考えている「契約更新」の中身が、単なる雇用契約ではないことに。
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