1 / 28
1
しおりを挟む
「リーナ・ベルモンド! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
王城の大広間に、よく通る男の声が響き渡った。
豪奢なシャンデリアが揺れるほどの声量で叫んだのは、この国の第一王子、ギルバートである。
その宣言を聞いた瞬間、きらびやかな夜会に参加していた貴族たちは一斉に動きを止め、水を打ったように静まり返った。
人々の視線が、会場の中央に立つ二人の人物に注がれる。
一人は、怒りに顔を赤く染め、金髪を振り乱しているギルバート王子。
その腕には、小動物のように震える男爵令嬢、ミミアがしがみついている。
そしてもう一人は、彼らの正面で扇を優雅に閉じた黒髪の令嬢――悪役令嬢と名高い、私、リーナ・ベルモンドだ。
周囲の貴族たちが、扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合う音が聞こえる。
「まあ、ついに……」
「あんなに美しいのに、中身が冷酷だから」
「可哀想なリーナ様。きっと泣き崩れてしまうわ」
同情、嘲笑、あるいは好奇の視線。
それらを一身に浴びながら、私はゆっくりと瞬きをした。
そして、ギルバート王子の瞳を真っ直ぐに見据え、静かに口を開く。
「……殿下。今、なんと仰いましたか?」
私の問いかけに、ギルバートは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ふん、ショックで耳が遠くなったか? 何度でも言ってやる。貴様との婚約は破棄だ! 真実の愛を見つけた私に、貴様のような冷血女はふさわしくない!」
「きゃっ、ギルバート様ぁ。そんなに大きな声を出したら、リーナ様が可哀想ですぅ」
ミミアが甘ったるい声を出しながら、ギルバートの胸に顔を埋める。
その様子を見ながら、私は胸の奥で湧き上がる感情を抑えきれずにいた。
(やったあああああああああああああ!!)
心の中で、私は盛大にガッツポーズを決めていた。
ついに来た。
待ちに待った瞬間だ。
幼い頃から「王太子妃教育」という名の重労働を課され、休日は公務の手伝いで潰れ、デートと言えば彼の尻拭いばかり。
私の青春を返せと何度叫びたかったことか。
しかし、王命による婚約は、こちらから破棄すれば実家の侯爵家に迷惑がかかる。
だからこそ、私は虎視眈々と待っていたのだ。
彼の方から「願い下げだ」と言ってくる、この瞬間を。
けれど、ここでニヤけてはいけない。
私は表情筋を総動員して、いつもの「鉄仮面」を維持した。
「……そうですか。婚約破棄、ですね」
「なんだ、その態度は! もっと取り乱したらどうだ! 泣いて許しを乞えば、修道院送りを少し待ってやらなくもないぞ!」
ギルバートが期待外れだと言わんばかりに叫ぶ。
彼は、私が泣いてすがりつく姿を想像していたのだろう。
残念ながら、私の涙腺はそのような茶番のために機能しない。
「いいえ、殿下。お言葉ですが、私は安堵しているのです」
「な、なに……?」
「これでようやく、殿下の補佐という名の『無料奉仕』から解放されるのですから」
私は懐から、愛用している魔道具を取り出した。
それは、私が開発させた小型の計算機――通称「電卓」である。
手のひらサイズの魔石が埋め込まれたその板を取り出すと、ギルバートが怪訝な顔をした。
「なんだそれは。武器か? 抵抗しても無駄だぞ!」
「いいえ、ただの計算機です。さて、殿下。婚約破棄ということは、両家の契約解除ということになりますね」
私は慣れた手つきで電卓のボタンを叩き始めた。
パチパチパチパチッ!
静まり返った広場に、軽快な打鍵音が響く。
「は? けいやく……?」
「ええ。当家と王家との間で取り交わされた婚約契約書、第十四条。『当事者の一方的な都合による破棄の場合、相応の慰謝料および、それまでの教育費・被服費・その他諸経費を全額返還するものとする』」
私は一息で言い切り、さらに電卓を叩く速度を上げた。
その指の動きは、宮廷魔術師が呪文を唱えるよりも速い。
「ちょ、ちょっと待て! 何を計算しているんだ!」
「決まっているでしょう。請求書を作成しているのです」
「せ、請求書だと!?」
「はい。まず、私がこれまでに殿下の公務を代行した件数が、合計で四千三百二十八件。これを宰相補佐官クラスの時給で換算します」
「金の話か! 貴様、それでも貴族か!」
「貴族である以前に、私は労働者ですので」
「わけがわからないことを言うな!」
ギルバートが顔を真っ赤にして怒鳴るが、私は止まらない。
「次に、ミミア嬢への『いじめ』の件ですが」
私の言葉に、ミミアがびくりと肩を震わせた。
「そ、そうよ! リーナ様は酷いんです! 私のドレスにワインをかけたり、階段から突き落とそうとしたり……!」
ミミアが涙目で訴える。
周囲の貴族たちが、「なんて酷いことを」と私を非難するような目で見た。
ギルバートが勢いづく。
「聞いたか! これこそが貴様の罪だ! ミミアのような純真な少女を傷つけるなど、許されることではない!」
「証拠は?」
「は?」
「証拠です。私がワインをかけたというドレス、及びその時刻。階段から突き落とそうとした目撃者の証言。すべて提出してください」
淡々と告げる私に、ギルバートは言葉を詰まらせた。
「そ、それは……ミミアがそう言っているのだから、事実に決まっているだろう!」
「被害者の証言のみでは証拠になりません。ちなみに、先日の夜会でミミア嬢のドレスが汚れた件ですが、あれは彼女が自分でグラスを倒したのを、私がハンカチで拭いて差し上げただけです」
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。その時のクリーニング代、ハンカチ代、及び私の精神的苦痛に対する慰謝料。これらも加算させていただきます」
パチパチパチパチパチッ!
再び響く打鍵音。
私の指先は、怒りではなく歓喜に震えていた。
これまで積み上げてきた我慢が、すべて「数字」という確かな力に変わっていく。
「さて、締めさせていただきますね。……出ました」
私は電卓の表示を確認し、にっこりと微笑んだ。
それは、淑女の微笑みというよりは、獲物を前にした商人の笑みに近かったかもしれない。
「ギルバート殿下。今回の婚約破棄に伴う慰謝料、及び過去十年にわたる未払い労働賃金の合計は、金貨五億枚となります」
「ご、ごお……っ!?」
会場中の人々が息を呑んだ。
金貨五億枚。
それは、小国の国家予算に匹敵する金額である。
「ふ、ふざけるな! そんな大金、払えるわけがないだろう!」
「おや、払えませんか? 王太子ともあろうお方が?」
「貴様……っ!」
「払えないのであれば、現物支給でも構いませんよ。例えば、殿下が所有している北の鉱山採掘権とか」
「あそこは王家の重要資産だぞ!」
「では、南の港湾都市の徴税権でも」
「国の根幹に関わるだろうが!」
ギルバートが地団駄を踏む。
しかし、私は一歩も引かない。
引くわけがない。
これは、私の自由と老後の安泰がかかった、人生最大の商談なのだから。
「ひどい……ひどいですぅ、リーナ様。愛をお金で換算するなんて……」
ミミアが信じられないものを見るような目で私を見る。
私は彼女に向き直り、冷静に告げた。
「ミミア様。愛は素晴らしいものですが、パンを買うことはできません。ドレスも、宝石も、あなたが今つけているその香水も、すべてお金で対価を支払って手に入れたものです」
「そ、それは……」
「殿下の愛を手に入れるのはご自由ですが、その維持費がどれほど掛かるか、計算されたことはありますか?」
「い、維持費……?」
「殿下は一着数十万する衣装を、一度着ただけで捨てます。食事は最高級の食材しか口にしません。公務の失敗による損失補填も頻繁に発生します」
私はギルバートを指差した。
「この男は、見た目は良いですが『超・高燃費』の不良債権ですよ? それでもよろしいのですか?」
「ふ、ふりょうさいけん……?」
ミミアがぽかんと口を開ける。
ギルバートは顔を真っ青にして震えていた。
「き、貴様……そこまで言うか……!」
「事実を申し上げたまでです。さて、支払いの話に戻りましょうか。即金でご用意いただけますね? 分割払いは利息がつきますが、よろしいですか?」
私が一歩踏み出すと、ギルバートは後ずさった。
その時である。
「――騒がしいな。何事だ」
低く、けれど絶対的な威厳を持った声が、入り口の方から聞こえた。
空気が一変する。
広間の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感。
現れたのは、黒の礼服を完璧に着こなした長身の男性。
銀色の髪をオールバックにし、氷のように冷ややかな青い瞳を持つ男。
この国の宰相であり、現国王の弟。
そして、「氷の宰相」と恐れられる、アレクセイ・フォン・アークライト公爵その人であった。
「お、叔父上……!」
ギルバートが救世主を見たかのように声を上げる。
しかし、アレクセイの冷ややかな視線は、甥であるギルバートを通り越し、真っ直ぐに私へと向けられていた。
「リーナ嬢。君が電卓を叩く音が、廊下まで聞こえていたぞ」
アレクセイが私の手元を見つめる。
私は慌てて電卓を背中に隠そうとしたが、時すでに遅し。
「も、申し訳ありません、閣下。少々、込み入った商談をしておりまして」
「商談? 婚約破棄の現場でか?」
「はい。転んでもただでは起きるな、が我が家の家訓ですので」
私が開き直って答えると、アレクセイの美しい顔に、微かな笑みが浮かんだような気がした。
「……なるほど。相変わらず、君は面白い」
彼はゆっくりと私に近づいてくる。
その威圧感に、周囲の貴族たちが道を開ける。
私の目の前まで来ると、アレクセイは意外な行動に出た。
彼は私の手を取り、その指先に恭しく口づけを落としたのだ。
「えっ……」
思考が停止する。
商談や計算ならいくらでもできるが、こうした色恋沙汰の免疫は皆無だ。
「その請求書、私が買い取ろう」
「は……?」
アレクセイが顔を上げ、楽しげに目を細めた。
「ギルバートには払えまい。だが、私なら即金で払える。……ただし」
「た、ただし?」
「金貨五億枚の代わりに、私から一つ条件がある」
彼はギルバートとミミアを尻目に、私だけに聞こえる声で囁いた。
「君のその優秀な頭脳と計算能力、私のために使ってはくれないか?」
これが、悪役令嬢と呼ばれた私と、氷の宰相と呼ばれる彼との、波乱に満ちた契約の始まりだった。
王城の大広間に、よく通る男の声が響き渡った。
豪奢なシャンデリアが揺れるほどの声量で叫んだのは、この国の第一王子、ギルバートである。
その宣言を聞いた瞬間、きらびやかな夜会に参加していた貴族たちは一斉に動きを止め、水を打ったように静まり返った。
人々の視線が、会場の中央に立つ二人の人物に注がれる。
一人は、怒りに顔を赤く染め、金髪を振り乱しているギルバート王子。
その腕には、小動物のように震える男爵令嬢、ミミアがしがみついている。
そしてもう一人は、彼らの正面で扇を優雅に閉じた黒髪の令嬢――悪役令嬢と名高い、私、リーナ・ベルモンドだ。
周囲の貴族たちが、扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合う音が聞こえる。
「まあ、ついに……」
「あんなに美しいのに、中身が冷酷だから」
「可哀想なリーナ様。きっと泣き崩れてしまうわ」
同情、嘲笑、あるいは好奇の視線。
それらを一身に浴びながら、私はゆっくりと瞬きをした。
そして、ギルバート王子の瞳を真っ直ぐに見据え、静かに口を開く。
「……殿下。今、なんと仰いましたか?」
私の問いかけに、ギルバートは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ふん、ショックで耳が遠くなったか? 何度でも言ってやる。貴様との婚約は破棄だ! 真実の愛を見つけた私に、貴様のような冷血女はふさわしくない!」
「きゃっ、ギルバート様ぁ。そんなに大きな声を出したら、リーナ様が可哀想ですぅ」
ミミアが甘ったるい声を出しながら、ギルバートの胸に顔を埋める。
その様子を見ながら、私は胸の奥で湧き上がる感情を抑えきれずにいた。
(やったあああああああああああああ!!)
心の中で、私は盛大にガッツポーズを決めていた。
ついに来た。
待ちに待った瞬間だ。
幼い頃から「王太子妃教育」という名の重労働を課され、休日は公務の手伝いで潰れ、デートと言えば彼の尻拭いばかり。
私の青春を返せと何度叫びたかったことか。
しかし、王命による婚約は、こちらから破棄すれば実家の侯爵家に迷惑がかかる。
だからこそ、私は虎視眈々と待っていたのだ。
彼の方から「願い下げだ」と言ってくる、この瞬間を。
けれど、ここでニヤけてはいけない。
私は表情筋を総動員して、いつもの「鉄仮面」を維持した。
「……そうですか。婚約破棄、ですね」
「なんだ、その態度は! もっと取り乱したらどうだ! 泣いて許しを乞えば、修道院送りを少し待ってやらなくもないぞ!」
ギルバートが期待外れだと言わんばかりに叫ぶ。
彼は、私が泣いてすがりつく姿を想像していたのだろう。
残念ながら、私の涙腺はそのような茶番のために機能しない。
「いいえ、殿下。お言葉ですが、私は安堵しているのです」
「な、なに……?」
「これでようやく、殿下の補佐という名の『無料奉仕』から解放されるのですから」
私は懐から、愛用している魔道具を取り出した。
それは、私が開発させた小型の計算機――通称「電卓」である。
手のひらサイズの魔石が埋め込まれたその板を取り出すと、ギルバートが怪訝な顔をした。
「なんだそれは。武器か? 抵抗しても無駄だぞ!」
「いいえ、ただの計算機です。さて、殿下。婚約破棄ということは、両家の契約解除ということになりますね」
私は慣れた手つきで電卓のボタンを叩き始めた。
パチパチパチパチッ!
静まり返った広場に、軽快な打鍵音が響く。
「は? けいやく……?」
「ええ。当家と王家との間で取り交わされた婚約契約書、第十四条。『当事者の一方的な都合による破棄の場合、相応の慰謝料および、それまでの教育費・被服費・その他諸経費を全額返還するものとする』」
私は一息で言い切り、さらに電卓を叩く速度を上げた。
その指の動きは、宮廷魔術師が呪文を唱えるよりも速い。
「ちょ、ちょっと待て! 何を計算しているんだ!」
「決まっているでしょう。請求書を作成しているのです」
「せ、請求書だと!?」
「はい。まず、私がこれまでに殿下の公務を代行した件数が、合計で四千三百二十八件。これを宰相補佐官クラスの時給で換算します」
「金の話か! 貴様、それでも貴族か!」
「貴族である以前に、私は労働者ですので」
「わけがわからないことを言うな!」
ギルバートが顔を真っ赤にして怒鳴るが、私は止まらない。
「次に、ミミア嬢への『いじめ』の件ですが」
私の言葉に、ミミアがびくりと肩を震わせた。
「そ、そうよ! リーナ様は酷いんです! 私のドレスにワインをかけたり、階段から突き落とそうとしたり……!」
ミミアが涙目で訴える。
周囲の貴族たちが、「なんて酷いことを」と私を非難するような目で見た。
ギルバートが勢いづく。
「聞いたか! これこそが貴様の罪だ! ミミアのような純真な少女を傷つけるなど、許されることではない!」
「証拠は?」
「は?」
「証拠です。私がワインをかけたというドレス、及びその時刻。階段から突き落とそうとした目撃者の証言。すべて提出してください」
淡々と告げる私に、ギルバートは言葉を詰まらせた。
「そ、それは……ミミアがそう言っているのだから、事実に決まっているだろう!」
「被害者の証言のみでは証拠になりません。ちなみに、先日の夜会でミミア嬢のドレスが汚れた件ですが、あれは彼女が自分でグラスを倒したのを、私がハンカチで拭いて差し上げただけです」
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。その時のクリーニング代、ハンカチ代、及び私の精神的苦痛に対する慰謝料。これらも加算させていただきます」
パチパチパチパチパチッ!
再び響く打鍵音。
私の指先は、怒りではなく歓喜に震えていた。
これまで積み上げてきた我慢が、すべて「数字」という確かな力に変わっていく。
「さて、締めさせていただきますね。……出ました」
私は電卓の表示を確認し、にっこりと微笑んだ。
それは、淑女の微笑みというよりは、獲物を前にした商人の笑みに近かったかもしれない。
「ギルバート殿下。今回の婚約破棄に伴う慰謝料、及び過去十年にわたる未払い労働賃金の合計は、金貨五億枚となります」
「ご、ごお……っ!?」
会場中の人々が息を呑んだ。
金貨五億枚。
それは、小国の国家予算に匹敵する金額である。
「ふ、ふざけるな! そんな大金、払えるわけがないだろう!」
「おや、払えませんか? 王太子ともあろうお方が?」
「貴様……っ!」
「払えないのであれば、現物支給でも構いませんよ。例えば、殿下が所有している北の鉱山採掘権とか」
「あそこは王家の重要資産だぞ!」
「では、南の港湾都市の徴税権でも」
「国の根幹に関わるだろうが!」
ギルバートが地団駄を踏む。
しかし、私は一歩も引かない。
引くわけがない。
これは、私の自由と老後の安泰がかかった、人生最大の商談なのだから。
「ひどい……ひどいですぅ、リーナ様。愛をお金で換算するなんて……」
ミミアが信じられないものを見るような目で私を見る。
私は彼女に向き直り、冷静に告げた。
「ミミア様。愛は素晴らしいものですが、パンを買うことはできません。ドレスも、宝石も、あなたが今つけているその香水も、すべてお金で対価を支払って手に入れたものです」
「そ、それは……」
「殿下の愛を手に入れるのはご自由ですが、その維持費がどれほど掛かるか、計算されたことはありますか?」
「い、維持費……?」
「殿下は一着数十万する衣装を、一度着ただけで捨てます。食事は最高級の食材しか口にしません。公務の失敗による損失補填も頻繁に発生します」
私はギルバートを指差した。
「この男は、見た目は良いですが『超・高燃費』の不良債権ですよ? それでもよろしいのですか?」
「ふ、ふりょうさいけん……?」
ミミアがぽかんと口を開ける。
ギルバートは顔を真っ青にして震えていた。
「き、貴様……そこまで言うか……!」
「事実を申し上げたまでです。さて、支払いの話に戻りましょうか。即金でご用意いただけますね? 分割払いは利息がつきますが、よろしいですか?」
私が一歩踏み出すと、ギルバートは後ずさった。
その時である。
「――騒がしいな。何事だ」
低く、けれど絶対的な威厳を持った声が、入り口の方から聞こえた。
空気が一変する。
広間の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感。
現れたのは、黒の礼服を完璧に着こなした長身の男性。
銀色の髪をオールバックにし、氷のように冷ややかな青い瞳を持つ男。
この国の宰相であり、現国王の弟。
そして、「氷の宰相」と恐れられる、アレクセイ・フォン・アークライト公爵その人であった。
「お、叔父上……!」
ギルバートが救世主を見たかのように声を上げる。
しかし、アレクセイの冷ややかな視線は、甥であるギルバートを通り越し、真っ直ぐに私へと向けられていた。
「リーナ嬢。君が電卓を叩く音が、廊下まで聞こえていたぞ」
アレクセイが私の手元を見つめる。
私は慌てて電卓を背中に隠そうとしたが、時すでに遅し。
「も、申し訳ありません、閣下。少々、込み入った商談をしておりまして」
「商談? 婚約破棄の現場でか?」
「はい。転んでもただでは起きるな、が我が家の家訓ですので」
私が開き直って答えると、アレクセイの美しい顔に、微かな笑みが浮かんだような気がした。
「……なるほど。相変わらず、君は面白い」
彼はゆっくりと私に近づいてくる。
その威圧感に、周囲の貴族たちが道を開ける。
私の目の前まで来ると、アレクセイは意外な行動に出た。
彼は私の手を取り、その指先に恭しく口づけを落としたのだ。
「えっ……」
思考が停止する。
商談や計算ならいくらでもできるが、こうした色恋沙汰の免疫は皆無だ。
「その請求書、私が買い取ろう」
「は……?」
アレクセイが顔を上げ、楽しげに目を細めた。
「ギルバートには払えまい。だが、私なら即金で払える。……ただし」
「た、ただし?」
「金貨五億枚の代わりに、私から一つ条件がある」
彼はギルバートとミミアを尻目に、私だけに聞こえる声で囁いた。
「君のその優秀な頭脳と計算能力、私のために使ってはくれないか?」
これが、悪役令嬢と呼ばれた私と、氷の宰相と呼ばれる彼との、波乱に満ちた契約の始まりだった。
539
あなたにおすすめの小説
断罪の準備は完璧です!国外追放が楽しみすぎてボロが出る
黒猫かの
恋愛
「ミモリ・フォン・ラングレイ! 貴様との婚約を破棄し、国外追放に処す!」
パルマ王国の卒業パーティー。第一王子アリオスから突きつけられた非情な断罪に、公爵令嬢ミモリは……内心でガッツポーズを決めていた。
(ついにきたわ! これで堅苦しい王妃教育も、無能な婚約者の世話も、全部おさらばですわ!)
婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました
ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」
大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。
けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。
王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。
婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。
だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません
鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。
「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」
そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。
——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。
「最近、おまえが気になるんだ」
「もっと夫婦としての時間を持たないか?」
今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。
愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。
わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。
政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ
“白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!
婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!
パリパリかぷちーの
恋愛
クライネルト公爵令嬢のリーチュは、王太子ジークフリートから卒業パーティーで大勢の前で婚約破棄を告げられる。しかし、王太子妃教育から解放されることを喜ぶリーチュは全く意に介さず、むしろ祝杯をあげる始末。彼女は領地の離宮に引きこもり、趣味である薬草園作りに没頭する自由な日々を謳歌し始める。
王子、おひとり様で残りの人生をお楽しみください!
ちゃっぴー
恋愛
「ラーニャ、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの真っ最中、ナルシストな第一王子ウィルフレッドに身に覚えのない罪で断罪された公爵令嬢ラーニャ。しかし、彼女はショックを受けるどころか、優雅に微笑んで拍手を送った。
なぜなら、ラーニャはとっくに王子の無能さに愛想を尽かし、この日のために完璧な「撤退準備」を進めていたからだ。
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
婚約破棄?悪役令嬢の復讐は爆速で。
八雲
恋愛
「リリム・フォン・アスタロト! 貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの最中、婚約者である王太子エリオットから身に覚えのない罪を突きつけられた公爵令嬢リリム。隣には「真実の愛」を語るマシュマロ系男爵令嬢シャーリーの姿。
普通の令嬢なら泣き崩れる場面――だが、リリムは違った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる