赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「リーナ・ベルモンド! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」

王城の大広間に、よく通る男の声が響き渡った。

豪奢なシャンデリアが揺れるほどの声量で叫んだのは、この国の第一王子、ギルバートである。

その宣言を聞いた瞬間、きらびやかな夜会に参加していた貴族たちは一斉に動きを止め、水を打ったように静まり返った。

人々の視線が、会場の中央に立つ二人の人物に注がれる。

一人は、怒りに顔を赤く染め、金髪を振り乱しているギルバート王子。

その腕には、小動物のように震える男爵令嬢、ミミアがしがみついている。

そしてもう一人は、彼らの正面で扇を優雅に閉じた黒髪の令嬢――悪役令嬢と名高い、私、リーナ・ベルモンドだ。

周囲の貴族たちが、扇で口元を隠しながらひそひそと囁き合う音が聞こえる。

「まあ、ついに……」

「あんなに美しいのに、中身が冷酷だから」

「可哀想なリーナ様。きっと泣き崩れてしまうわ」

同情、嘲笑、あるいは好奇の視線。

それらを一身に浴びながら、私はゆっくりと瞬きをした。

そして、ギルバート王子の瞳を真っ直ぐに見据え、静かに口を開く。

「……殿下。今、なんと仰いましたか?」

私の問いかけに、ギルバートは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「ふん、ショックで耳が遠くなったか? 何度でも言ってやる。貴様との婚約は破棄だ! 真実の愛を見つけた私に、貴様のような冷血女はふさわしくない!」

「きゃっ、ギルバート様ぁ。そんなに大きな声を出したら、リーナ様が可哀想ですぅ」

ミミアが甘ったるい声を出しながら、ギルバートの胸に顔を埋める。

その様子を見ながら、私は胸の奥で湧き上がる感情を抑えきれずにいた。

(やったあああああああああああああ!!)

心の中で、私は盛大にガッツポーズを決めていた。

ついに来た。

待ちに待った瞬間だ。

幼い頃から「王太子妃教育」という名の重労働を課され、休日は公務の手伝いで潰れ、デートと言えば彼の尻拭いばかり。

私の青春を返せと何度叫びたかったことか。

しかし、王命による婚約は、こちらから破棄すれば実家の侯爵家に迷惑がかかる。

だからこそ、私は虎視眈々と待っていたのだ。

彼の方から「願い下げだ」と言ってくる、この瞬間を。

けれど、ここでニヤけてはいけない。

私は表情筋を総動員して、いつもの「鉄仮面」を維持した。

「……そうですか。婚約破棄、ですね」

「なんだ、その態度は! もっと取り乱したらどうだ! 泣いて許しを乞えば、修道院送りを少し待ってやらなくもないぞ!」

ギルバートが期待外れだと言わんばかりに叫ぶ。

彼は、私が泣いてすがりつく姿を想像していたのだろう。

残念ながら、私の涙腺はそのような茶番のために機能しない。

「いいえ、殿下。お言葉ですが、私は安堵しているのです」

「な、なに……?」

「これでようやく、殿下の補佐という名の『無料奉仕』から解放されるのですから」

私は懐から、愛用している魔道具を取り出した。

それは、私が開発させた小型の計算機――通称「電卓」である。

手のひらサイズの魔石が埋め込まれたその板を取り出すと、ギルバートが怪訝な顔をした。

「なんだそれは。武器か? 抵抗しても無駄だぞ!」

「いいえ、ただの計算機です。さて、殿下。婚約破棄ということは、両家の契約解除ということになりますね」

私は慣れた手つきで電卓のボタンを叩き始めた。

パチパチパチパチッ!

静まり返った広場に、軽快な打鍵音が響く。

「は? けいやく……?」

「ええ。当家と王家との間で取り交わされた婚約契約書、第十四条。『当事者の一方的な都合による破棄の場合、相応の慰謝料および、それまでの教育費・被服費・その他諸経費を全額返還するものとする』」

私は一息で言い切り、さらに電卓を叩く速度を上げた。

その指の動きは、宮廷魔術師が呪文を唱えるよりも速い。

「ちょ、ちょっと待て! 何を計算しているんだ!」

「決まっているでしょう。請求書を作成しているのです」

「せ、請求書だと!?」

「はい。まず、私がこれまでに殿下の公務を代行した件数が、合計で四千三百二十八件。これを宰相補佐官クラスの時給で換算します」

「金の話か! 貴様、それでも貴族か!」

「貴族である以前に、私は労働者ですので」

「わけがわからないことを言うな!」

ギルバートが顔を真っ赤にして怒鳴るが、私は止まらない。

「次に、ミミア嬢への『いじめ』の件ですが」

私の言葉に、ミミアがびくりと肩を震わせた。

「そ、そうよ! リーナ様は酷いんです! 私のドレスにワインをかけたり、階段から突き落とそうとしたり……!」

ミミアが涙目で訴える。

周囲の貴族たちが、「なんて酷いことを」と私を非難するような目で見た。

ギルバートが勢いづく。

「聞いたか! これこそが貴様の罪だ! ミミアのような純真な少女を傷つけるなど、許されることではない!」

「証拠は?」

「は?」

「証拠です。私がワインをかけたというドレス、及びその時刻。階段から突き落とそうとした目撃者の証言。すべて提出してください」

淡々と告げる私に、ギルバートは言葉を詰まらせた。

「そ、それは……ミミアがそう言っているのだから、事実に決まっているだろう!」

「被害者の証言のみでは証拠になりません。ちなみに、先日の夜会でミミア嬢のドレスが汚れた件ですが、あれは彼女が自分でグラスを倒したのを、私がハンカチで拭いて差し上げただけです」

「嘘をつくな!」

「嘘ではありません。その時のクリーニング代、ハンカチ代、及び私の精神的苦痛に対する慰謝料。これらも加算させていただきます」

パチパチパチパチパチッ!

再び響く打鍵音。

私の指先は、怒りではなく歓喜に震えていた。

これまで積み上げてきた我慢が、すべて「数字」という確かな力に変わっていく。

「さて、締めさせていただきますね。……出ました」

私は電卓の表示を確認し、にっこりと微笑んだ。

それは、淑女の微笑みというよりは、獲物を前にした商人の笑みに近かったかもしれない。

「ギルバート殿下。今回の婚約破棄に伴う慰謝料、及び過去十年にわたる未払い労働賃金の合計は、金貨五億枚となります」

「ご、ごお……っ!?」

会場中の人々が息を呑んだ。

金貨五億枚。

それは、小国の国家予算に匹敵する金額である。

「ふ、ふざけるな! そんな大金、払えるわけがないだろう!」

「おや、払えませんか? 王太子ともあろうお方が?」

「貴様……っ!」

「払えないのであれば、現物支給でも構いませんよ。例えば、殿下が所有している北の鉱山採掘権とか」

「あそこは王家の重要資産だぞ!」

「では、南の港湾都市の徴税権でも」

「国の根幹に関わるだろうが!」

ギルバートが地団駄を踏む。

しかし、私は一歩も引かない。

引くわけがない。

これは、私の自由と老後の安泰がかかった、人生最大の商談なのだから。

「ひどい……ひどいですぅ、リーナ様。愛をお金で換算するなんて……」

ミミアが信じられないものを見るような目で私を見る。

私は彼女に向き直り、冷静に告げた。

「ミミア様。愛は素晴らしいものですが、パンを買うことはできません。ドレスも、宝石も、あなたが今つけているその香水も、すべてお金で対価を支払って手に入れたものです」

「そ、それは……」

「殿下の愛を手に入れるのはご自由ですが、その維持費がどれほど掛かるか、計算されたことはありますか?」

「い、維持費……?」

「殿下は一着数十万する衣装を、一度着ただけで捨てます。食事は最高級の食材しか口にしません。公務の失敗による損失補填も頻繁に発生します」

私はギルバートを指差した。

「この男は、見た目は良いですが『超・高燃費』の不良債権ですよ? それでもよろしいのですか?」

「ふ、ふりょうさいけん……?」

ミミアがぽかんと口を開ける。

ギルバートは顔を真っ青にして震えていた。

「き、貴様……そこまで言うか……!」

「事実を申し上げたまでです。さて、支払いの話に戻りましょうか。即金でご用意いただけますね? 分割払いは利息がつきますが、よろしいですか?」

私が一歩踏み出すと、ギルバートは後ずさった。

その時である。

「――騒がしいな。何事だ」

低く、けれど絶対的な威厳を持った声が、入り口の方から聞こえた。

空気が一変する。

広間の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感。

現れたのは、黒の礼服を完璧に着こなした長身の男性。

銀色の髪をオールバックにし、氷のように冷ややかな青い瞳を持つ男。

この国の宰相であり、現国王の弟。

そして、「氷の宰相」と恐れられる、アレクセイ・フォン・アークライト公爵その人であった。

「お、叔父上……!」

ギルバートが救世主を見たかのように声を上げる。

しかし、アレクセイの冷ややかな視線は、甥であるギルバートを通り越し、真っ直ぐに私へと向けられていた。

「リーナ嬢。君が電卓を叩く音が、廊下まで聞こえていたぞ」

アレクセイが私の手元を見つめる。

私は慌てて電卓を背中に隠そうとしたが、時すでに遅し。

「も、申し訳ありません、閣下。少々、込み入った商談をしておりまして」

「商談? 婚約破棄の現場でか?」

「はい。転んでもただでは起きるな、が我が家の家訓ですので」

私が開き直って答えると、アレクセイの美しい顔に、微かな笑みが浮かんだような気がした。

「……なるほど。相変わらず、君は面白い」

彼はゆっくりと私に近づいてくる。

その威圧感に、周囲の貴族たちが道を開ける。

私の目の前まで来ると、アレクセイは意外な行動に出た。

彼は私の手を取り、その指先に恭しく口づけを落としたのだ。

「えっ……」

思考が停止する。

商談や計算ならいくらでもできるが、こうした色恋沙汰の免疫は皆無だ。

「その請求書、私が買い取ろう」

「は……?」

アレクセイが顔を上げ、楽しげに目を細めた。

「ギルバートには払えまい。だが、私なら即金で払える。……ただし」

「た、ただし?」

「金貨五億枚の代わりに、私から一つ条件がある」

彼はギルバートとミミアを尻目に、私だけに聞こえる声で囁いた。

「君のその優秀な頭脳と計算能力、私のために使ってはくれないか?」

これが、悪役令嬢と呼ばれた私と、氷の宰相と呼ばれる彼との、波乱に満ちた契約の始まりだった。
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