赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「君のその優秀な頭脳と計算能力、私のために使ってはくれないか?」

アレクセイ閣下のその言葉に、私はパチクリと瞬きをした。

甘い言葉のようにも聞こえるが、要するにこれは「ヘッドハンティング」だ。

私はすぐに電卓を叩く手を止め、頭の中で高速計算を開始する。

アレクセイ・フォン・アークライト。

この国の宰相であり、実質的な最高権力者。

彼の下で働くということは、ブラック企業も真っ青の激務が予想されるが、対価としての報酬は王太子の婚約者時代の比ではないはずだ。

「……閣下。それは、正規雇用ということでよろしいのでしょうか?」

私が真顔で問い返すと、アレクセイ閣下はくつくつと喉を鳴らして笑った。

「もちろんだ。福利厚生も万全に保証しよう。ただし、その前に……」

彼は視線をギルバート王太子へと移した。

その瞳から笑みが消え、絶対零度の冷徹さが戻る。

「まずはこの不毛な『負債処理』を終わらせねばな」

「負債処理……だと?」

ギルバートが顔を歪めた。

彼は自分の叔父にあたるアレクセイが大の苦手なのだ。

優秀すぎる叔父と、出来の悪い甥。

そのコンプレックスが、彼を今回の愚行へと走らせた一因でもあるのだが、今はそんな精神分析をしている場合ではない。

「ギルバート。リーナ嬢が提示した請求書だ。支払う義務があるぞ」

「お、叔父上まで何を仰るのですか! 彼女は稀代の悪女ですよ!? ミミアを虐げ、私との神聖な婚約を金銭勘定で汚したのです!」

ギルバートが必死に訴える。

その横で、ミミアも涙を浮かべて同意を求めた。

「そうですぅ、宰相様ぁ。リーナ様はとっても怖いんです。私のこと、何度も睨みつけてきて……」

「睨みつけた?」

私が口を挟むと、ミミアがびくりと震えた。

「は、はい! その目つきの悪さが証拠です!」

「……ミミア様。それは生まれつきです」

「え?」

「私は視力が少々悪いので、遠くを見る時に目を細める癖があるのです。それを睨んだと解釈されては心外ですね。眼科医の診断書を提出しましょうか?」

私は懐から予備の書類を取り出そうとする素振りを見せた。

「そ、そんなの言い訳です! 先月だって、私の足をわざと踏んだじゃないですか!」

「ああ、あの日ですか。あの日、ミミア様はダンスの練習中に五回も転ばれましたね。私が支えなければ、あなたは鼻を折っていたはずですが?」

「うっ……」

「その際、私の靴のつま先にはあなたのヒールによる傷がつきました。修理費は請求していませんが、今から追加しましょうか?」

パチリ、と電卓を叩く。

「な、なんてがめつい……!」

「事実確認をしているだけです。殿下、先ほど『いじめ』の証拠とおっしゃいましたが、具体的にいつ、どこで、どのような被害があったのか。時系列順に説明できますか?」

私は手帳を開き、ペンを構えた。

「さあ、どうぞ。日付と時刻、場所、目撃者の有無。すべて正確にお答えください。曖昧な記憶に基づく証言は採用しません」

「ぐ、ぬ……」

ギルバートが言葉に詰まる。

彼らの主張はすべて「なんとなくそんな気がする」「ミミアが泣いていたから」という感情論に基づいている。

論理的な精査に耐えられるはずがないのだ。

「ええと、あれは……いつだったか……」

「思い出せないのであれば、捏造の可能性が高いと判断せざるを得ませんね」

私は手帳を閉じ、冷ややかに告げた。

「では、いじめの事実は『立証不可能』ということで棄却させていただきます」

「かっ、勝手なことを!」

「勝手ではありません。法治国家において、証拠なき断罪はただの言いがかりです。そうですよね、宰相閣下?」

私が水を向けると、アレクセイ閣下は深く頷いた。

「その通りだ。ギルバート、お前の主張には客観性が欠けている。リーナ嬢への名誉毀損で訴えられても文句は言えんぞ」

「そ、そんな……」

王太子の顔色が青から白へと変わっていく。

味方だと思っていた叔父に切り捨てられ、彼は完全に孤立していた。

「さて、いじめの件が片付いたところで、本題の『お金』の話に戻りましょう」

私は再び電卓を掲げた。

「先ほど申し上げた金貨五億枚。内訳を詳しく説明させていただきますね」

「ま、まだ言うか!」

「当然です。まず、慰謝料が一億枚。これは婚約破棄による私の社会的信用の失墜、及び精神的苦痛に対する対価です」

「高い! 高すぎる!」

「侯爵家の令嬢に泥を塗ったのですから、妥当な金額です。次に、過去十年の労働対価が三億枚」

「さ、三億だと!? たかが手伝いだろう!」

「手伝い?」

私はピクリと眉を上げた。

その言葉は、私の導火線に火をつけるには十分だった。

「殿下。先月の予算会議、資料を作成したのは誰ですか?」

「それは……私が……」

「いいえ、私です。あなたが『数字を見ると頭が痛くなる』と言って逃げ出したので、私が三日徹夜して仕上げました。あの資料がなければ、国庫は大赤字でしたよ?」

「うっ……」

「半年前の隣国との通商条約。あの交渉のシナリオを書いたのは?」

「……」

「私です。あなたが『平和が一番』などと寝言を言っている間に、関税率の撤廃を勝ち取ったのは私の原稿のおかげです」

私は一歩ずつ、ギルバートに詰め寄った。

「書類の代筆、スケジュールの管理、パーティーの手配、果てはあなたが愛人に贈るプレゼントの選定まで。すべて私が業務として行いました。これを『手伝い』と呼ぶのであれば、この国の労働基準法は崩壊します」

「あ、愛人のプレゼントまで……?」

ミミアがぎょっとしてギルバートを見る。

「あ、いや、あれは……!」

「そのプレゼント選びの手数料もしっかり計上しておりますのでご安心を。そして残りの一億枚は、迷惑料及び、今後の口止め料です」

「く、口止め料……?」

「はい。殿下がこれまでにやらかした数々の失態。公になれば廃嫡間違いなしの案件が、私の手元に山ほど残っております。これらを墓場まで持っていくための手数料とお考えください」

私はニッコリと微笑んだ。

「安いものでしょう? 王太子の地位が、たった一億枚で守れるのですから」

「き、貴様……脅す気か!」

「交渉と言ってください。どうされますか? 払いますか? それとも、全てを公表して、潔く王位継承権を放棄されますか?」

ギルバートはガタガタと震え出した。

彼に王位を捨てる覚悟などあるはずがない。

温室育ちの彼にとって、王太子という肩書きを失うことは死に等しい。

「は、払う……払えばいいのだろう!」

ついに、ギルバートが白旗を上げた。

「ですが、今すぐ五億枚など無理だ! 王家の財産を切り崩すにしても時間がかかる!」

「そうおっしゃると思いまして、こちらを用意しました」

私は別の書類を取り出した。

「債務承認弁済契約書です。連帯保証人には国王陛下のお名前を記入する欄も設けてあります」

「ち、父上を巻き込む気か!?」

「当然です。未成年の不始末は親の責任ですから。……アレクセイ閣下、立会人をお願いできますか?」

「喜んで」

アレクセイ閣下が流れるような動作でペンを取り出し、サインをする。

そのあまりの手際の良さに、ギルバートは完全に退路を断たれた。

「くっ、くそぉぉぉぉ!」

ギルバートは涙目で契約書にサインをした。

震える手で書かれた署名は、彼の敗北の証そのものだった。

「はい、確かに。これで契約成立です」

私はインクが乾いたのを確認し、書類を大切に懐へしまった。

そして、深々と一礼する。

「ありがとうございます、ギルバート殿下。これにて、私たちの関係は綺麗さっぱり清算されました。あとの人生は、どうぞご勝手に」

「お、覚えてろよ! 絶対に後悔させてやるからな!」

捨て台詞を吐いて、ギルバートはミミアの手を引いて逃げるように去っていった。

大広間には、呆気にとられた貴族たちと、私、そしてアレクセイ閣下が残された。

静寂が戻る。

ふぅ、と私は小さく息を吐いた。

終わった。

長年の重荷が、今ようやく私の肩から降りたのだ。

達成感で足が震えそうになるのをこらえていると、頭上から拍手の音が降ってきた。

「素晴らしい。見事な手腕だ、リーナ嬢」

アレクセイ閣下が、心底楽しそうに私を見下ろしていた。

「あそこまで徹底的にやるとはな。ギルバートが憐れに見えるほどだった」

「慈悲は無駄なコストですので」

私が即答すると、彼は声を上げて笑った。

「気に入った。本当に、君は私が求めていた人材だ」

彼は私の手を取り、再びその瞳を覗き込んできた。

今度は、先ほどのような芝居がかったものではなく、どこか真剣な熱を帯びた眼差しで。

「さて、負債処理は終わった。次は私の番だな」

「え?」

「先ほどの話だ。私の元へ来るだろう? まさか、NOとは言わせないが」

その笑顔は美しいが、断ればどうなるか分からないという無言の圧力を秘めていた。

まあ、断る理由もない。

実家とは縁を切るつもりだし、当面の住処と仕事は必要だ。

それに、この方なら、少なくともギルバートのように「話が通じない」ということはないだろう。

「……条件次第です」

「望むままを与えよう。給与は言い値でいい。住居は私の屋敷の離れを使えばいい。食事も三食、最高級のものを用意させる」

「……随分と好待遇ですね。裏がありそうで怖いのですが」

「裏などない。ただ、君には存分に働いてもらいたいだけだ。……私の『パートナー』としてな」

パートナー。

その響きに少しだけ引っかかりを覚えたが、私はそれを「ビジネスパートナー」の意味だと解釈した。

「承知いたしました。では、雇用契約を結ばせていただきます」

「ああ。契約成立だ」

アレクセイ閣下は満足げに頷き、私の手を強く握った。

こうして、私は王太子妃という立場を捨て、新たに「宰相補佐官」としての人生を歩み始めることになった。

この時の私はまだ知らなかったのだ。

彼が言う「パートナー」の意味が、単なる仕事上の関係だけではないということを。

そして、翌日から私が直面することになる、王城の恐るべき惨状を。
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