赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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ギルバート王太子が逃げ出した後の大広間は、奇妙な静寂に包まれていた。

私は懐にしまったばかりの契約書――総額五億枚の債権証書――の感触を確かめ、満足げに頷いた。

これで老後の資金は安泰だ。

あとは、この場を速やかに撤収し、物件探しを始めなければならない。

アレクセイ閣下との雇用契約は結んだが、住居までお世話になるのはリスク管理の観点から避けたいところだ。

「……閣下。先ほどのお話ですが、住居の提供は辞退させていただきます」

私が切り出すと、アレクセイ閣下は意外そうに眉を上げた。

「なぜだ? 私の屋敷ならセキュリティも万全だぞ」

「職場と住居が近すぎると、オンとオフの切り替えが困難になります。それに、私は『残業代が出ない持ち帰り仕事』が何よりも嫌いですので」

「なるほど。君らしい理由だ」

彼が苦笑したその時だった。

「待ちなさい! リーナ!」

人垣をかき分けて、ひとりの男が顔を真っ赤にして歩み寄ってきた。

私の父、ベルモンド侯爵である。

立派な口髭を蓄えているが、その本性は「長いものには巻かれろ」を地で行く事なかれ主義者だ。

「お父様。ごきげんよう」

「ごきげんよう、ではない! なんだ今の騒ぎは!」

父は私の目の前で立ち止まると、扇子で手のひらを叩きながら怒鳴り散らした。

「王太子殿下に慰謝料を請求するなど、正気の沙汰ではないぞ! 我が家を取り潰す気か!」

「取り潰し? いえ、むしろ救ったのですよ」

「なに?」

「あのまま殿下と結婚していれば、我が家は殿下の浪費癖の補填で破産していました。そのリスクを回避できたのですから、感謝していただきたいくらいです」

「屁理屈を言うな! とにかく、今すぐ殿下を追いかけて謝罪するのだ! そして慰謝料の請求を取り下げろ!」

父の言葉に、周囲の貴族たちが「さすがにそれは……」といった顔をする。

あれだけの屈辱を受けてなお、娘に頭を下げさせようとする父の姿は、滑稽を通り越して哀れだった。

私は冷めた目で父を見つめた。

「お断りします」

「なんだと!?」

「私は殿下と、法的に有効な契約解除と慰謝料の合意に至りました。これを破棄することは、私個人の資産形成において重大な損失となります」

「個人の資産だと? 貴様のものは家のものだ! 親の命令が聞けないのか!」

父が激昂して手を振り上げた。

その手が私の頬を打つ――その前に。

ガシッ。

横から伸びてきた手が、父の腕を強引に掴んで止めた。

「……私の『最高戦力』に、気安く触れないでもらおうか」

低く、地を這うような声。

アレクセイ閣下だ。

彼は凍てつくような眼差しで父を射抜いていた。

「あ、ア、アレクセイ閣下……!?」

父が悲鳴のような声を上げて縮み上がる。

「侯爵。君は今、何をしようとした?」

「い、いえ、これは、娘への教育的指導でして……!」

「教育? これから国の重要ポストに就く人間に、暴力を振るうことがか?」

「は? じゅうようぽすと……?」

父がぽかんと口を開ける。

アレクセイ閣下は私の肩を抱き寄せ、宣言するように言った。

「リーナ・ベルモンド嬢は、本日付で宰相府の特別補佐官に任命された。彼女の身体および精神への加害は、国家への反逆とみなす」

「な、ななな……っ!?」

父の顔色が土気色に変わる。

宰相府の特別補佐官といえば、大臣クラスと同等の権限を持つ役職だ。

一介の侯爵が手を出していい相手ではない。

(……さすが閣下。ハッタリも一流ですね)

まだ正式な辞令も出ていないのに、既成事実化する手腕は見事だ。

私はこの機を逃さず、もう一つの「書類」を取り出した。

「お父様。ちょうど良い機会ですので、これをお渡しします」

「な、なんだこれは……」

「『家督相続権放棄および除籍願い』です」

「はぁ!?」

父が目を剥く。

「私はこの家を出て行きます。これ以上、皆様の『事なかれ主義』にお付き合いしていては、私のキャリアに傷がつきますので」

「ま、待て! 何を言っている! お前がいなくなったら、領地の経営はどうなる! 帳簿の管理は誰がやるんだ!」

「お母様か、あるいは弟君にお任せすればよろしいのでは?」

「あいつらに計算などできるわけがないだろう!」

「でしょうね。ですが、それは私の問題ではありません。経営コンサルタントとして私を雇うなら考えますが、顧問料は高いですよ?」

「ぐぬぬ……」

父は言葉を詰まらせた。

今まで私が裏でどれだけ家を支えていたか、この期に及んでようやく理解したらしい。

だが、もう遅い。

「それでは、これまでお世話になりました。荷物は明日、業者に引き取りに行かせますので」

私は優雅にカーテシー(礼)をした。

「行きましょう、閣下」

「ああ。馬車を回させてある」

アレクセイ閣下がエスコートしてくれる。

私たちは呆然と立ち尽くす父と、ざわめく貴族たちを背に、颯爽と会場を後にした。

夜風が心地よい。

王城の出口には、宰相家の紋章が入った漆黒の馬車が待機していた。

御者が扉を開け、私たちは中に乗り込む。

ふかふかのシートに腰を下ろすと、ようやく緊張の糸が切れた。

「……ふぅ。やれやれ、大立ち回りでしたね」

「見事だったぞ。あの強欲な侯爵を黙らせるとは」

向かいに座ったアレクセイ閣下が、楽しそうに笑う。

「しかし、本当に良かったのか? 家を捨てて」

「構いません。あそこは私にとって『職場』であって『家庭』ではありませんでしたから。ブラック企業から退職できて清々しています」

「ブラック企業か。……私のところはホワイトであることを祈るよ」

「それは条件次第ですね。さて、閣下。先ほどの住居の話ですが」

「ああ、それなら心配ない。君のために用意した部屋は、宰相府の敷地内にある『離れ』だ」

「離れ?」

「かつて王族の別荘として使われていた建物だ。プライバシーは完全に守られているし、執務室への通勤時間は徒歩三分。どうだ、効率的だろう?」

通勤三分。

その言葉に、私の心が揺らいだ。

通勤時間の削減は、人生の可処分時間を増やすことと同義だ。

「……家賃は?」

「福利厚生に含まれる。タダだ」

「光熱費は?」

「経費で落ちる」

「食堂は?」

「王宮の一流シェフが、君の好みに合わせて作る。もちろん無料だ」

私はゴクリと喉を鳴らした。

家賃、光熱費、食費が無料。しかも職住近接。

これを断る理由は、もはや「意地」以外に見当たらない。

そして私は、意地よりも実利を取る女だ。

「……契約しましょう。その条件、乗りました」

「交渉成立だな」

アレクセイ閣下が満足げに頷き、サイドテーブルからワインボトルを取り出した。

「祝杯といこう。君の新たな門出と、我が国の未来に」

グラスに注がれた深紅の液体が揺れる。

私はそれを受け取り、小さく笑った。

「乾杯。……でも閣下、明日の朝には後悔することになりますよ?」

「私がか? なぜ?」

「私がいない王城がどうなるか。……想像するだけで恐ろしいことになっていますから」

「ほう。それは楽しみだ」

アレクセイ閣下は余裕の笑みを崩さない。

だが、私は知っている。

明日、この国の行政機能が一時停止することを。

ギルバート王太子が担当していた(はずの)書類の山が、雪崩のように彼を襲うことを。

馬車は石畳を走り、私の新しい拠点へと向かう。

窓の外に流れる王都の夜景を見ながら、私は明日からの「業務」に思いを馳せた。

これからは、誰の尻拭いでもない。

私の能力を、正当に評価してくれる場所で、思い切り暴れ回れるのだ。

(さて、まずは執務室のレイアウト変更からですね。あの非効率な動線、我慢なりませんし)

私の頭の中は、すでに仕事モードに切り替わっていた。

隣でワインを傾ける「氷の宰相」が、私の横顔を愛おしそうに見つめていることには気づかないまま。

***

翌朝。

私の予言通り、王城は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

「な、ない! 書類がない! 昨日の決裁書はどこだ!?」

「予算案の計算が合いません! 誰かリーナ様を呼んでくれ!」

「隣国からの使者が到着されました! 応対のマニュアルが見当たりません!」

執務室を走り回る官僚たちの悲鳴。

そして、その中心で顔面蒼白になっているギルバート王太子。

「ど、どうすればいいんだ……! いつもなら、机の上に完成した書類が置いてあるのに……!」

彼は知らなかったのだ。

小人が夜中に靴を作ってくれるわけではないように、書類もまた、誰かが血と汗を流して作らなければ存在しないということを。

「リーナ……戻ってきてくれ……!」

王太子の虚しい叫びがこだまする。

だが、その頃、私はアレクセイ閣下の用意してくれた最高級の羽毛布団の中で、優雅に二度寝を楽しんでいた。

「……あと五分」

幸せな朝。

私の「ざまぁ」劇は、まだ始まったばかりである。
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