赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「――はい、次。この予算案は却下。計算が合っていません。再提出」
「こ、この決裁書は……」
「前例踏襲の無駄な文章が多すぎます。三行にまとめて書き直してください」
「は、はいぃぃ!」

宰相府の執務室に、私の指示が飛ぶ。

私がこの席に座ってから、まだ二時間しか経っていない。

けれど、私の机の上に山のように積まれていた「未決裁書類」の塔は、見る影もなく消滅していた。

パチパチパチパチッ!

私の指先が電卓の上を踊る。

左手で書類をめくり、右手で電卓を叩き、視線だけで次の書類をスキャンする。

このマルチタスクこそが、私の真骨頂だ。

周囲にいる宰相府の官僚たちが、ポカンと口を開けて私を見ていた。

「な、なんだあの動きは……」

「指が見えない……残像か?」

「アレクセイ閣下が連れてきた『悪役令嬢』だろう? ただのお飾りかと思っていたが……」

ひそひそ話が聞こえてくるが、私は構わず手を動かす。

雑音に気を取られている暇はない。

この宰相府、一見エリート集団に見えるが、内部の事務フローは前時代的すぎる。

手書きの台帳、多すぎる回覧印、無意味な会議。

「非効率の塊ですね……! 燃えてきました」

私は書類に承認印を「バンッ!」と叩きつけ、次の束を手に取った。

「あの、リーナ様……?」

恐る恐る声をかけてきたのは、私の補佐についた若い文官だった。

「なんでしょう。手短にお願いします」

「そ、そのペースで進められると、我々の整理が追いつきません。少し休憩されては……」

「休憩? まだ午前中ですよ?」

私は手を止めずに答える。

「それに、この程度の量、王太子殿下の尻拭いをしていた頃に比べれば準備運動にもなりません」

「じゅ、準備運動……?」

「ええ。あの方は、締め切り一時間前に『この書類、まだやってなかった』と五百枚の束を持ってくるような方でしたから」

文官が青ざめた。

「そ、それは……人権侵害では?」

「いいえ、王太子妃教育という名の修行です。おかげで私は、並大抵の激務では動じない鋼のメンタルを手に入れました」

バンッ! バンッ! バンッ!

承認印を押す音が、まるでドラムのビートのようにリズムよく響く。

そこに、奥の扉が開いてアレクセイ閣下が現れた。

「調子はどうだ、リーナ嬢」

「閣下。業務改善提案があります」

私は即座に挙手した。

「なんだ? 言ってみろ」

「この部署のコーヒーメーカー、抽出速度が遅すぎます。私の処理速度に追いついていません。最新式への買い替えを申請します」

執務室が静まり返った。

新人が初日に、しかも「氷の宰相」に向かって設備投資を要求するなど前代未聞だ。

官僚たちが「終わった……」という顔で私を見る。

しかし、アレクセイ閣下は楽しそうに笑った。

「許可する。君の燃料切れは国益の損失だからな。最高級のマシンを導入しよう」

「ありがとうございます。では、仕事に戻ります」

私が再び電卓に向かおうとした時、執務室の入り口が騒がしくなった。

「通せ! 緊急事態なんだ!」

「困ります! ここは宰相府ですよ!」

衛兵の制止を振り切って飛び込んできたのは、見覚えのある顔だった。

王太子の側近、スタンである。

彼は髪を振り乱し、目の下に濃い隈を作り、まるで亡霊のような形相だった。

「リ、リーナ様……! ここにいらしたのですか!」

彼は私を見つけるなり、床に膝をついてすがりつこうとした。

「スタン様? どうされました、その酷いお顔は」

「どうされたも何もありません! あなたが城を出て行ってから、城内は大パニックなんです!」

スタンが泣きながら訴える。

「殿下が……殿下が、執務室で泣き叫んでおられます! 『分からない、何も分からない!』と!」

「そうですか。それは大変ですね」

私は手元の書類から目を離さずに答える。

「た、他人事のように! 隣国との会談の資料がどこにあるか分からず、殿下は会議をすっぽかしました! 外交問題になりかけています!」

「資料なら、金庫の三段目、青いファイルの裏表紙のポケットに入っていますよ」

「えっ」

「あの方はよく重要な書類をコースター代わりにする癖があるので、汚れないように隠しておいたのです」

「そ、そうだったのか……! ありがとうございます!」

スタンが顔を輝かせるが、私はすぐに冷水を浴びせた。

「教えるのは今回だけです。私はもう、王城の人間ではありませんので」

「そ、そんなこと言わずに! 戻ってきてください! 殿下も『リーナがいないと靴下も履けない』と仰っています!」

「……二十歳を過ぎた成人男性のセリフとは思えませんね」

呆れを通り越して感心する。

「とにかく、私は現在、宰相府の職員です。王太子の私的なお世話係に戻るつもりはありません」

「そこをなんとか! 給金なら弾みます! 今の倍……いや、三倍!」

「現在、こちらの待遇は王太子時代の五十倍ですが?」

「ご、五十倍ぃ!?」

スタンが絶句する。

その背後から、アレクセイ閣下がゆっくりと歩み寄ってきた。

「おい。私の部下に何をしている」

「ひぃっ! か、閣下……!」

アレクセイ閣下の冷気が、室温を一気に下げる。

「引き抜き工作か? それとも業務妨害か? どちらにせよ、私の執務室で騒ぐとはいい度胸だ」

「い、いえ! 決してそのような……ただ、王城の危機でして……」

「ギルバートの無能さが露呈しただけだろう。自業自得だ」

アレクセイ閣下は冷たく切り捨てた。

「帰って伝えろ。『泣き言を言う暇があるなら、自分でペンを持って働け』とな」

「し、しかし……!」

「衛兵。つまみ出せ」

「はっ!」

スタンは両脇を抱えられ、ズルズルと引きずられていった。

「リーナ様ぁぁ! お助けをぉぉぉ!」

断末魔のような叫びが遠ざかっていく。

静寂が戻った執務室で、私は小さく息を吐いた。

「……よかったのですか、閣下。あそこまで突き放して」

「構わん。獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、あいつの場合は谷底に家を建てて住み着きそうだからな。一度、徹底的に困らせる必要がある」

「なるほど。スパルタ教育ですね」

「それに」

アレクセイ閣下は私の机に手をつき、顔を近づけた。

「君を返すと、私の仕事の効率が落ちる。君がいなくなると困るのは、私も同じだ」

至近距離で見つめられ、私は心臓がトクンと跳ねるのを感じた。

この方は、無自覚にこういうことを言うから心臓に悪い。

「……光栄です。では、その期待に応えるためにも、午後のおやつには高級エクレアを要求します」

「承知した。二つ用意させよう」

「交渉成立です」

私は照れ隠しのために、再び猛スピードで電卓を叩き始めた。

その日の夕方。

王城から「ギルバート王太子、過労により気絶」という報告が届いたが、私は「エクレアが美味しい」という感想と共に、その報告書をシュレッダーにかけた。
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