赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「ん~っ! このカスタード、絶品です!」

私は執務室のソファで、至福の声を上げた。

右手には、王都で人気のパティスリー『ラ・レーヌ』の特製エクレア。

左手には、香り高いアールグレイ。

これが、アレクセイ閣下が約束してくれた「午後のおやつタイム」である。

「気に入ってくれたようで何よりだ」

向かいのデスクで執務をしていたアレクセイ閣下が、書類から顔を上げて微笑む。

「糖分補給は脳の潤滑油ですからね。これで午後の生産性が二割向上します」

「費用対効果が高い投資だ。毎日用意させよう」

「閣下、一生ついていきます」

私が現金の極みのような忠誠を誓った、その時だった。

バンッ!!

執務室の扉が、乱暴に開け放たれた。

「リーナ! 無事か!!」

大声で怒鳴り込んできたのは、昨日過労で倒れたはずのギルバート王太子だった。

その後ろには、おろおろとした様子のミミアもついてきている。

私はエクレアを口に入れたまま、ポカンとしてしまった。

「……(モグモグ)」

「おお、なんてことだ……! やつれ果てて、言葉も出ないのか!」

ギルバートが悲痛な面持ちで叫ぶ。

私は急いでエクレアを飲み込み、ナプキンで口を拭った。

「……殿下。ノックもなしに入室とは、マナー講師が泣いておりますよ」

「マナーなどどうでもいい! 聞いたぞ、叔父上にこき使われているそうだな!」

「は?」

「とぼけるな! スタンの奴から聞いたぞ。『リーナ様は悪鬼のような形相で書類を捌いていた』と! あんな恐ろしい叔父上の下で、無理やり働かされているのだろう!?」

ギルバートの脳内変換機能は、どうやら故障しているらしい。

私は呆れてため息をついた。

「殿下。私は自分の意思で、非常に快適に働いております」

「嘘をつくな! 見ろ、その目の下のクマを!」

「ありません。昨夜は十時間寝ました」

「その痩せ細った体を!」

「体重は変わっていません。むしろ、この屋敷の食事が美味しすぎて太り気味なくらいです」

「強がるな! 可哀想に……恐怖で正常な判断ができなくなっているんだな」

ギルバートは涙ぐみながら、私に手を伸ばそうとした。

しかし、その手は空を切った。

アレクセイ閣下が、氷のような冷気を纏って立ち上がったからだ。

「……ギルバート。私の執務室で、私の大事な補佐官に触れようとはどういうつもりだ?」

「ひっ……!」

ギルバートがカエルのような声を出して縮こまる。

やはり、この方への恐怖心は相当なものらしい。

それでも、今日のギルバートは違った。

震える足で踏ん張り、愛するミミアの手を握りしめて叫んだのだ。

「お、叔父上! 私はリーナを迎えに来たのです!」

「迎え? 婚約破棄した相手をか?」

「そ、そうです! 確かに婚約は破棄しましたが、彼女を見捨てるのは元婚約者として寝覚めが悪い! だから、王城で保護してやろうと……!」

「保護?」

私が聞き返すと、ギルバートは「そうだ」と胸を張った。

「リーナ、戻ってこい。正妃の座はミミアのものだが、特別に私の『側務官兼メイド長』として雇ってやる!」

「…………はい?」

「お前も辛いだろう? 慣れない宰相府で働くより、勝手知ったる私の部屋で、私の世話をする方が幸せなはずだ。給金も、以前の半分は出してやるぞ!」

以前の半分。

つまり、タダ働き同然だったあの頃の、さらに半分。

私は持っていたエクレアの皿を、危うく投げつけるところだった。

(この男……どこまでおめでたい脳みそをしているの?)

怒りを通り越して、感心すら覚える。

「あの、リーナ様ぁ」

ミミアが上目遣いで口を挟んできた。

「ギルバート様のご慈悲ですよぉ? 私だって、リーナ様がいなくて困ってるんですぅ。私のドレスの着付けとか、ダンスのステップを数える係とか、やってくれる人がいなくてぇ」

「……ミミア様。それは侍女の仕事です。あるいは、ご自分でなさっては?」

「ええっ? そんなの無理ですぅ。私、数字を見ると頭がクラクラしちゃうしぃ」

ミミアが可愛こぶって小首をかしげる。

その瞬間、私の何かがプツンと切れた。

「……お断りします」

「な、なんだと?」

「お断りします、と申し上げました。私は現在、宰相府の特別補佐官として、国家レベルのプロジェクトに参画しております。殿下の靴下を探したり、ミミア様のダンスの拍子を取ったりしている暇はありません」

「き、貴様……! この私が頭を下げてやっているのに!」

「頭を下げていただく必要はありません。ただ、お帰りください。邪魔です」

私がきっぱりと言うと、ギルバートの顔が怒りで赤く染まった。

「この……可愛げのない女め! せっかくの情けを無にしおって! いいだろう、そこまで言うなら、その『国家レベルの仕事』とやらを見せてもらおうじゃないか!」

「は?」

「叔父上の腰巾着になっているだけの貴様に、まともな仕事などできるはずがない! ミミアの方がよほど役に立つことを証明してやる!」

なぜそうなる。

論理の飛躍が凄まじいが、ギルバートは止まらない。

「ミミア! あの棚の書類を整理して見せてやれ!」

「えっ、わ、私がですかぁ?」

「大丈夫だ、五十音順に並べるだけだ! リーナごときに負けるな!」

「は、はぁい。やってみますぅ」

ミミアがおっかなびっくり、私が分類済みだった重要書類の棚に手を伸ばした。

「あっ、ちょっと待って! それは触らないで!」

私が止めるのも聞かず、ミミアはファイルの束を引き抜いた。

バササササッ!!

ファイルが逆さまになり、中身の書類が床に散乱した。

それは、まだ紐付けが終わっていない、機密費の領収書と監査データの束だった。

「きゃっ! 紙がいっぱい!」

「あーあ、散らかしちゃって。これだから紙は嫌いなんだ」

ギルバートが他人事のように言う。

私の頭の中で、血管がブチブチと切れる音がした。

「……殿下。ミミア様」

「な、なんだその目は」

「今、床に散らばった書類。これらを元の順番に戻すのに、どれくらいの時間がかかると思いますか?」

「ふん、そんなもの、拾えばすぐだろう」

「一万二千枚あります」

「は?」

「一万二千枚の伝票です。しかも、日付順ではなく、取引コード順に並んでいました。これを復元するには、熟練の文官でも三日はかかります」

「さ、三日……?」

ミミアが青ざめる。

「ごめんなさいぃ、わざとじゃ……」

「わざとでなくとも、損害は損害です。アレクセイ閣下、算出をお願いできますか?」

私が振り返ると、閣下は無表情のまま頷いた。

「復旧にかかる人件費、および業務遅延による損失。ざっと見積もって金貨一千万枚だな」

「い、一千万!?」

ギルバートとミミアが絶叫する。

「払えんのか? ギルバート」

アレクセイ閣下の目が、完全に据わっていた。

「お、叔父上……それはさすがに……」

「払えないなら、体で払ってもらおうか。ちょうど庭の草むしりの人手が足りていなくてな」

「く、草むしり!?」

「嫌なら、今すぐ消えろ。二度と私の執務室に顔を見せるな」

ドスの利いた声に、二人は震え上がった。

「お、覚えてろよ! リーナ! 絶対に後悔させてやるからな!」

「キャーッ! 待ってくださいギルバート様ぁ!」

二人は脱兎のごとく逃げ出した。

あとに残されたのは、床に散らばった一万二千枚の伝票と、怒りに燃える私だけ。

「……はぁ。やってくれましたね」

私は床に膝をつき、散乱した紙を拾い上げた。

「すまない、リーナ嬢。私の警備が甘かった」

アレクセイ閣下が申し訳なさそうに謝罪し、一緒に紙を拾おうとする。

「いいえ、閣下。手を出さないでください」

「しかし……」

「私がやります。……いえ、やらせてください」

私は電卓を置き、両手の指をポキポキと鳴らした。

「私の整頓スキルを侮辱されたままでは、気が済みませんので」

カッ!

私の目が光った(気がした)。

「ゾーンに入ります。話しかけないでください」

そこからの私の動きは、我ながら神懸かっていたと思う。

右手で伝票を拾い、左手でコードを確認し、空中に投げるようにして棚の定位置へ戻していく。

ババババババババッ!

紙が舞い、吸い込まれるようにファイルへ収まっていく。

通常の文官が三日かかる作業。

それを私は、わずか三十分で完遂した。

「――終了」

最後の一枚をファイルに収め、私は乱れた前髪をかき上げた。

「……信じられん」

アレクセイ閣下が、呆然とつぶやく。

「君は本当に人間か? もしかして、計算の精霊か何かなのか?」

「ただの元・社畜です」

私はニッコリと笑い、空になったエクレアの皿を指差した。

「閣下。労働基準法に基づき、追加の糖分補給を申請します。今の作業で、カロリーを使い果たしました」

「……許可する。店ごと買い取ってこよう」

こうして、王太子の襲撃は撃退された。

だが、この時の私はまだ気づいていなかった。

私のこの異常な能力が、隣国のスパイの目に留まってしまっていたことに。

窓の外。

庭木の陰から、怪しい視線が執務室を覗いていたのだ――。
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