赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「――というわけで、現在の宰相府の業務効率は、先月比で三百パーセント向上しています」

「素晴らしいな。君が来てから、私の残業時間もゼロになった」

夕暮れの執務室。

私は本日の業務報告を終え、アレクセイ閣下と向かい合っていた。

机の上には、綺麗に片付いた書類と、空になったティーカップ。

かつて「不夜城」と呼ばれた宰相府が、定時で消灯できる日が来るとは誰も思わなかっただろう。

「では、本日の業務は終了ですね。お疲れ様でした、閣下」

「ああ。……送っていこう」

「いえ、離れまでは徒歩三分ですので。お気遣いなく」

私はカバンを手に取り、軽く一礼して執務室を出た。

廊下を歩きながら、私は小さく鼻歌を歌う。

(定時退社。なんて甘美な響きでしょう)

王太子妃時代にはあり得なかった生活だ。

このまま部屋に戻り、ゆっくりとお風呂に入って、読みかけの経済誌を読む。

最高の夜だ。

そう思いながら、中庭の回廊を歩いていた時だった。

「――おや。君が噂の『神算の令嬢』かな?」

不意に、甘い声がかかった。

足を止めて振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。

月明かりを背に、キザなポーズで壁に寄りかかっている。

燃えるような赤い髪に、エメラルドの瞳。

仕立ての良い服を着ているが、この国の貴族ではない。

独特の訛り……南の大国、ガルディア帝国の人間だ。

「……どちら様でしょうか? ここは関係者以外立ち入り禁止ですが」

私が事務的に尋ねると、男は優雅に歩み寄ってきた。

「失礼。僕はクリス。ガルディア帝国の通商代表団の一員さ。……君の噂を聞いてね。どうしても一目会いたかったんだ」

クリスと名乗った男は、私の目の前で立ち止まり、熱っぽい視線を送ってきた。

「美しい……。噂以上の美貌だ。その冷ややかな瞳、ゾクゾクするね」

「はぁ。どうも」

「君のような宝石が、書類仕事に埋もれているなんて世界の損失だ。どうだい? 僕と一緒に帝国へ来ないか?」

ナンパか。

いや、これは――引き抜き(ヘッドハンティング)だ。

私の警戒レベルが跳ね上がる。

しかし、表情には出さない。

「帝国へ、ですか。それは旅行のお誘いでしょうか? それとも亡命の勧誘でしょうか?」

「愛の逃避行、と言ってほしいな」

クリスは私の手を取ろうとしたが、私は半歩下がって回避した。

「君の能力は高く評価している。我が国に来れば、宮廷の華として迎えるよ。ドレスも宝石も、君が望むものは全て与えよう」

「全て?」

「ああ。君の瞳に似合うエメラルドの首飾り、最高級のシルクのドレス。そして何より、僕の愛を」

彼は自信満々に微笑んだ。

普通の令嬢なら、この甘いマスクと言葉に頬を染めるのかもしれない。

だが、残念ながら相手が悪かった。

私は懐から電卓を取り出した。

「条件提示、承りました。では精査させていただきます」

「えっ? け、計算?」

「まず『宮廷の華』というポジションですが、これは具体的な職務記述書(ジョブディスクリプション)はありますか? 単なる愛人枠であれば、福利厚生や年金が期待できませんので却下です」

「あ、愛人枠というか、僕のパートナーとして……」

「法的拘束力のないパートナーシップはリスクが高すぎます。次に『ドレスと宝石』ですが、これは現物支給ということですね? 私は換金性の高い資産、つまり現金を希望しますが、変更は可能ですか?」

「げ、現金……?」

「最後に『あなたの愛』ですが」

私は彼を頭のてっぺんからつま先までジロジロと観察した。

「失礼ですが、あなたの個人資産と将来性は? 帝国での継承順位は? 保有している領地の年間収益は?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! ムードも何もないな!」

クリスが狼狽える。

「君は、僕の愛をお金で測るのかい!?」

「当然です。愛などという不確定な概念で、祖国を裏切るリスクは負えません。対価としてのメリットを数字で提示してください」

「き、君は……本当に変わっているね」

クリスは引きつった笑みを浮かべた。

だが、すぐにその瞳に怪しい光が戻る。

「……面白い。ますます欲しくなったよ。金が望みならいくらでも積もう。だから――」

彼が強引に私の肩を掴もうとした、その瞬間。

ピキィッ……!

空気が凍りついた。

比喩ではない。

物理的に、周囲の気温が急激に下がったのだ。

「――私の庭で、害虫駆除が必要になるとはな」

地獄の底から響くような声。

クリスがビクリと肩を震わせて振り返る。

回廊の闇の中から、青白い殺気を纏ったアレクセイ閣下が歩いてきた。

その背後には、冷気による霧すら漂っているように見える。

「ア、アレクセイ宰相……!」

「帝国のネズミが、我が国の重要機密(人材)に何をしている?」

「ご、誤解しないでいただきたい。僕はただ、彼女と挨拶を……」

「挨拶? 私の補佐官に触れようとすることがか?」

アレクセイ閣下が一歩踏み出す。

それだけで、クリスは三歩後ずさった。

「警告しておく。その手に触れていいのは、私だけだ」

「なっ……!?」

クリスの顔が青ざめる。

「彼女は私のものだ。指一本でも触れてみろ。帝国との通商条約、全て白紙に戻してやる」

「そ、それは困る! 分かった、退散するよ!」

クリスは両手を上げて降参のポーズをとった。

そして、去り際に私にウィンクを投げかける。

「残念だ。でも、気が変わったら連絡してくれ。僕のオファーは有効だよ、ミス・リーナ!」

そう言い残し、彼は闇夜に消えていった。

嵐が去り、静寂が戻る。

私はほっと息を吐き、電卓をしまった。

「……助かりました、閣下。なかなかしつこい勧誘員でしたので」

「……勧誘員ではない。あれは帝国の第三皇子だ」

「皇子? 通りで、服装の生地が高そうでした。もっと吹っかけておけば良かったですね」

私が冗談めかして言うと、アレクセイ閣下は深い溜息をついた。

そして、無言のまま私に近づき――。

ギュッ。

いきなり、強く抱きしめられた。

「……か、閣下!?」

硬い胸板に顔が埋まる。

氷の宰相と呼ばれる彼だが、その体温は驚くほど熱かった。

「……焦った」

耳元で、彼の吐息がかかる。

「君が、あんな男の口車に乗るはずはないと分かっている。だが……『好条件』を提示されたら、君が揺らぐのではないかと」

その声は、いつもの冷静な彼とは違い、どこか弱々しく、そして独占欲に満ちていた。

「ええと……閣下?」

「行くな、リーナ。君にどんな条件を提示されようと、私がそれ以上の好条件を出す。金貨でも、地位でも、なんでもやる」

抱きしめる腕の力が強まる。

「だから、私のそばにいろ。これは命令ではない……懇願だ」

その言葉に、私の胸の奥がキュンと音を立てた。

計算ではない。

論理でもない。

ただの感情の波が、私を襲っていた。

私は、自分の顔が熱くなるのを感じながら、そっと彼に答えた。

「……閣下。ご安心ください。今のところ、あなたの提示条件(職場環境)を超えるオファーはありません」

「今のところ、か?」

「はい。ですから、契約更新の際には、さらなる好待遇を期待しております」

私がそう言うと、アレクセイ閣下はようやく腕を緩め、私の顔を覗き込んだ。

その瞳は、熱を帯びて揺れている。

「……ああ。約束しよう。君が逃げ出せないほど、甘やかしてやる」

彼はそう言って、私の額にそっと唇を寄せた。

チュッ。

「えっ……」

「残業手当だ。……続きは、また明日」

アレクセイ閣下は悪戯っぽく微笑むと、私を解放して去っていった。

残された私は、中庭で一人、呆然と立ち尽くしていた。

「……計算、できません」

額に残る感触。

高鳴る心臓。

これは一体、どういう勘定科目に仕訳すればいいのだろうか。

「……とりあえず、明日の朝食には、糖分多めのパンケーキを要求します」

私は赤くなった顔を両手で覆い、夜風に熱を冷ましてもらうしかなかった。

私の完璧な計算人生に、初めて「計算外」のバグが発生した瞬間だった。
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