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「いってらっしゃい! 二度と帰ってくるな……いや、早く帰ってきてくれぇぇぇ!」
王都の城門前で、クリス皇子の悲痛な叫びがこだました。
私とアレクセイ(これからは『あなた』と呼ぶ練習中だ)を乗せた馬車が、ゆっくりと動き出す。
見送りに来たクリス皇子の手には、私が作成した『宰相代理業務マニュアル(全五十巻)』が握りしめられていた。
「クリス殿下。お土産は期待していてください」
私が窓から声をかけると、彼は涙目で叫び返した。
「土産なんかいらない! 僕が欲しいのは睡眠時間だ! なんだこのスケジュールの密度は! 宰相ってこんなに働いていたのか!?」
「私の夫は働き者ですので。では、国の運営をよろしく頼みます(丸投げ)」
「鬼ぃぃぃぃ!」
遠ざかるクリス皇子の絶叫をBGMに、私たちのハネムーンは始まった。
***
今回の行き先は、大陸南部に位置するリゾートアイランド『ソレイユ島』。
アレクセイが島を一つ丸ごと貸し切ったらしい。
「……貸し切り、ですか」
揺れる馬車の中で、私は眉をひそめた。
「ハイシーズンに島一つを占有するコストを計算しましたか? 一般開放して入場料を取った方が、収益率は……」
「リーナ」
アレクセイが私の唇を指で塞いだ。
「今は仕事の話は禁止だ。この旅行の目的は『保養』と『愛の育み』だ。損益分岐点は忘れろ」
「……職業病です。電卓がないと手が震えます」
「禁断症状か。……なら、私の手を握っていろ」
彼は私の手を包み込み、指を絡めた。
「私の体温で落ち着くだろう?」
「……少し熱すぎますが、悪くはありません」
私は素直に彼の方へもたれかかった。
窓の外には、のどかな田園風景が流れていく。
こうして二人きりでゆっくり過ごすのは、思えば初めてかもしれない。
***
数日後。
私たちは港から船に乗り換え、目的地の『ソレイユ島』に到着した。
「ここが……」
船を降りた私は、息を呑んだ。
エメラルドグリーンの海、白い砂浜、そして中央の丘に建つ白亜のヴィラ。
絵に描いたような楽園だ。
「どうだ、気に入ったか?」
「ええ。素晴らしい景観です。観光開発すれば、年間数億枚のインバウンド収益が見込めますね」
「だから開発はせんと言っているだろう。ここは私と君だけの楽園だ」
アレクセイは苦笑しながら、私を抱き上げて桟橋を歩き始めた。
「ちょ、歩けます!」
「新婚旅行だ。地面を歩く必要はない」
甘やかされ放題である。
ヴィラに到着すると、そこには人の気配がなかった。
「使用人は?」
「全員、本島に帰した。滞在中の家事はすべて私がやる」
「宰相閣下に炊事洗濯をさせるのですか? 人件費の無駄遣いです」
「愛妻のための労働はプライスレスだ」
彼はそう言って、本当にエプロンを着け始めた。
氷の宰相が、花柄のエプロン(私が選んだ)を着けてキッチンに立つ姿。
このレア映像だけで、旅行費の元は取れたかもしれない。
***
その夜。
波の音だけが響く静かなテラスで、私たちはディナーを楽しんでいた。
アレクセイの手料理は、悔しいけれど絶品だった。
「……美味しいです」
「そうか。君の口に合ってよかった」
彼はワイングラスを揺らしながら、満足げに微笑む。
「リーナ。こうしていると、王都の喧騒が嘘のようだな」
「そうですね。書類の山も、ギルバート殿下のわめき声もありません」
「……幸せか?」
真っ直ぐな問いかけ。
私はフォークを置き、少し考えてから答えた。
「定義によりますが……現在の私の心拍数、血圧、ホルモンバランスは極めて安定し、かつ幸福感を示す数値が上昇しています」
「相変わらず理屈っぽいな」
「つまり、幸せです」
私が認めると、彼は立ち上がり、私の隣に来て跪いた。
「リーナ。私は君に誓った通り、一生君を大切にする。……だから」
彼の顔が近づいてくる。
甘い雰囲気。
完璧なムード。
その時だった。
ピロリロリン!
私のポケットの中で、緊急通信用の魔道具が鳴り響いた。
「……ッ!」
アレクセイの動きが止まる。眉間に深い皺が刻まれる。
「……出なくていい」
「緊急コールです。無視できません」
私は申し訳なさそうに魔道具を取り出した。
発信元は……クリス皇子だ。
「はい、もしもし」
『あ、リーナ!? 助けてくれ! 緊急事態だ!』
通信機から、クリスの悲鳴が聞こえてくる。
「どうしました? 帝国の刺客でも現れましたか?」
『違う! 王城の備品管理システムがダウンしたんだ! トイレットペーパーの在庫がどこにあるか分からなくて、国王陛下がトイレから出られなくなっている!』
「……は?」
あまりに低レベルな緊急事態に、私は絶句した。
「在庫リストは棚の三番目のファイルです。予備鍵は金庫の中」
『その金庫の番号が分からないんだよ!』
「0000です。初期設定のまま変えていませんから」
『えっ、そんな単純なの!? ……あ、開いた! ありがとう、これで陛下のお尻は守られた!』
ブツッ。
通信が切れた。
静寂が戻る。
アレクセイの顔からは、完全に表情が消えていた。
「……トイレットペーパー」
「……のようですね」
「私のハネムーンの夜が、国王の尻事情で中断されたのか」
ゴゴゴゴゴ……。
アレクセイの周囲温度が急激に下がる。南国の夜風が、一瞬でブリザードに変わろうとしていた。
「閣下、落ち着いて。ヴィラが凍ります」
「……クリスの奴、帰ったらタダではおかん。帝国の領土を半分もらい受ける」
「それは国際問題になります」
私は彼の手を取り、冷たくなった指先を温めた。
「気を取り直しましょう。……まだ、夜はこれからですよ?」
私が上目遣いで言うと、アレクセイはようやく殺気を収めた。
「……そうだな。邪魔者は排除した(通信機の電源を切った)。ここからは、私だけの時間だ」
彼は私を軽々と抱き上げ、寝室へと向かった。
「覚悟しておけ、リーナ。今まで我慢していた分、たっぷりと徴収させてもらう」
「……お手柔らかにお願いします。過剰請求は却下しますよ?」
「却下は認めん。強制執行だ」
その夜、南の島のヴィラは、甘く、そして熱い夜に包まれた。
翌朝、私の計算機能(頭脳)が半日ほど再起動しなかったのは、言うまでもない計算外の事態だった。
***
しかし、平穏なハネムーンがこのまま終わるはずもなかった。
二日目。
私たちがビーチで日光浴(という名の肌のメンテナンス)をしていると、水平線の彼方から、一隻の船が猛スピードで近づいてくるのが見えた。
「……なんだ、あれは」
アレクセイがサングラスを外す。
船には、見覚えのある紋章が描かれていた。
「あれは……ガルディア帝国の軍艦?」
「クリスの国の船か? なぜここに?」
船が桟橋に横付けされると、甲板から大勢の兵士たちが降りてきた。
そして、その中心にいたのは――。
「おーい! リーナさーん! 宰相どノー!」
手を振っているのは、クリス皇子……ではなく、彼とよく似た顔立ちの、初老の男性だった。
「誰ですか?」
「……クリスの父親、ガルディア皇帝だ」
アレクセイが呻くように言った。
「やあやあ! 息子がお世話になっているね! 君たちの結婚式の噂を聞いて、どうしても祝いたくて駆けつけたのだよ!」
皇帝陛下は満面の笑みで、巨大なマグロ(一本釣り)を引きずりながら近づいてきた。
「祝いの品だ! さあ、宴会をしよう!」
「……」
私とアレクセイは顔を見合わせた。
「……リーナ」
「はい、あなた」
「追加料金を請求しよう」
「賛成です。『プライベート侵害料』として、帝国予算の一割をいただきましょう」
私たちの静かなハネムーンは、皇帝の乱入によって「マグロ解体ショー&外交接待」へと変更された。
労働基準法適用外のハネムーンは、まだまだ続く。
王都の城門前で、クリス皇子の悲痛な叫びがこだました。
私とアレクセイ(これからは『あなた』と呼ぶ練習中だ)を乗せた馬車が、ゆっくりと動き出す。
見送りに来たクリス皇子の手には、私が作成した『宰相代理業務マニュアル(全五十巻)』が握りしめられていた。
「クリス殿下。お土産は期待していてください」
私が窓から声をかけると、彼は涙目で叫び返した。
「土産なんかいらない! 僕が欲しいのは睡眠時間だ! なんだこのスケジュールの密度は! 宰相ってこんなに働いていたのか!?」
「私の夫は働き者ですので。では、国の運営をよろしく頼みます(丸投げ)」
「鬼ぃぃぃぃ!」
遠ざかるクリス皇子の絶叫をBGMに、私たちのハネムーンは始まった。
***
今回の行き先は、大陸南部に位置するリゾートアイランド『ソレイユ島』。
アレクセイが島を一つ丸ごと貸し切ったらしい。
「……貸し切り、ですか」
揺れる馬車の中で、私は眉をひそめた。
「ハイシーズンに島一つを占有するコストを計算しましたか? 一般開放して入場料を取った方が、収益率は……」
「リーナ」
アレクセイが私の唇を指で塞いだ。
「今は仕事の話は禁止だ。この旅行の目的は『保養』と『愛の育み』だ。損益分岐点は忘れろ」
「……職業病です。電卓がないと手が震えます」
「禁断症状か。……なら、私の手を握っていろ」
彼は私の手を包み込み、指を絡めた。
「私の体温で落ち着くだろう?」
「……少し熱すぎますが、悪くはありません」
私は素直に彼の方へもたれかかった。
窓の外には、のどかな田園風景が流れていく。
こうして二人きりでゆっくり過ごすのは、思えば初めてかもしれない。
***
数日後。
私たちは港から船に乗り換え、目的地の『ソレイユ島』に到着した。
「ここが……」
船を降りた私は、息を呑んだ。
エメラルドグリーンの海、白い砂浜、そして中央の丘に建つ白亜のヴィラ。
絵に描いたような楽園だ。
「どうだ、気に入ったか?」
「ええ。素晴らしい景観です。観光開発すれば、年間数億枚のインバウンド収益が見込めますね」
「だから開発はせんと言っているだろう。ここは私と君だけの楽園だ」
アレクセイは苦笑しながら、私を抱き上げて桟橋を歩き始めた。
「ちょ、歩けます!」
「新婚旅行だ。地面を歩く必要はない」
甘やかされ放題である。
ヴィラに到着すると、そこには人の気配がなかった。
「使用人は?」
「全員、本島に帰した。滞在中の家事はすべて私がやる」
「宰相閣下に炊事洗濯をさせるのですか? 人件費の無駄遣いです」
「愛妻のための労働はプライスレスだ」
彼はそう言って、本当にエプロンを着け始めた。
氷の宰相が、花柄のエプロン(私が選んだ)を着けてキッチンに立つ姿。
このレア映像だけで、旅行費の元は取れたかもしれない。
***
その夜。
波の音だけが響く静かなテラスで、私たちはディナーを楽しんでいた。
アレクセイの手料理は、悔しいけれど絶品だった。
「……美味しいです」
「そうか。君の口に合ってよかった」
彼はワイングラスを揺らしながら、満足げに微笑む。
「リーナ。こうしていると、王都の喧騒が嘘のようだな」
「そうですね。書類の山も、ギルバート殿下のわめき声もありません」
「……幸せか?」
真っ直ぐな問いかけ。
私はフォークを置き、少し考えてから答えた。
「定義によりますが……現在の私の心拍数、血圧、ホルモンバランスは極めて安定し、かつ幸福感を示す数値が上昇しています」
「相変わらず理屈っぽいな」
「つまり、幸せです」
私が認めると、彼は立ち上がり、私の隣に来て跪いた。
「リーナ。私は君に誓った通り、一生君を大切にする。……だから」
彼の顔が近づいてくる。
甘い雰囲気。
完璧なムード。
その時だった。
ピロリロリン!
私のポケットの中で、緊急通信用の魔道具が鳴り響いた。
「……ッ!」
アレクセイの動きが止まる。眉間に深い皺が刻まれる。
「……出なくていい」
「緊急コールです。無視できません」
私は申し訳なさそうに魔道具を取り出した。
発信元は……クリス皇子だ。
「はい、もしもし」
『あ、リーナ!? 助けてくれ! 緊急事態だ!』
通信機から、クリスの悲鳴が聞こえてくる。
「どうしました? 帝国の刺客でも現れましたか?」
『違う! 王城の備品管理システムがダウンしたんだ! トイレットペーパーの在庫がどこにあるか分からなくて、国王陛下がトイレから出られなくなっている!』
「……は?」
あまりに低レベルな緊急事態に、私は絶句した。
「在庫リストは棚の三番目のファイルです。予備鍵は金庫の中」
『その金庫の番号が分からないんだよ!』
「0000です。初期設定のまま変えていませんから」
『えっ、そんな単純なの!? ……あ、開いた! ありがとう、これで陛下のお尻は守られた!』
ブツッ。
通信が切れた。
静寂が戻る。
アレクセイの顔からは、完全に表情が消えていた。
「……トイレットペーパー」
「……のようですね」
「私のハネムーンの夜が、国王の尻事情で中断されたのか」
ゴゴゴゴゴ……。
アレクセイの周囲温度が急激に下がる。南国の夜風が、一瞬でブリザードに変わろうとしていた。
「閣下、落ち着いて。ヴィラが凍ります」
「……クリスの奴、帰ったらタダではおかん。帝国の領土を半分もらい受ける」
「それは国際問題になります」
私は彼の手を取り、冷たくなった指先を温めた。
「気を取り直しましょう。……まだ、夜はこれからですよ?」
私が上目遣いで言うと、アレクセイはようやく殺気を収めた。
「……そうだな。邪魔者は排除した(通信機の電源を切った)。ここからは、私だけの時間だ」
彼は私を軽々と抱き上げ、寝室へと向かった。
「覚悟しておけ、リーナ。今まで我慢していた分、たっぷりと徴収させてもらう」
「……お手柔らかにお願いします。過剰請求は却下しますよ?」
「却下は認めん。強制執行だ」
その夜、南の島のヴィラは、甘く、そして熱い夜に包まれた。
翌朝、私の計算機能(頭脳)が半日ほど再起動しなかったのは、言うまでもない計算外の事態だった。
***
しかし、平穏なハネムーンがこのまま終わるはずもなかった。
二日目。
私たちがビーチで日光浴(という名の肌のメンテナンス)をしていると、水平線の彼方から、一隻の船が猛スピードで近づいてくるのが見えた。
「……なんだ、あれは」
アレクセイがサングラスを外す。
船には、見覚えのある紋章が描かれていた。
「あれは……ガルディア帝国の軍艦?」
「クリスの国の船か? なぜここに?」
船が桟橋に横付けされると、甲板から大勢の兵士たちが降りてきた。
そして、その中心にいたのは――。
「おーい! リーナさーん! 宰相どノー!」
手を振っているのは、クリス皇子……ではなく、彼とよく似た顔立ちの、初老の男性だった。
「誰ですか?」
「……クリスの父親、ガルディア皇帝だ」
アレクセイが呻くように言った。
「やあやあ! 息子がお世話になっているね! 君たちの結婚式の噂を聞いて、どうしても祝いたくて駆けつけたのだよ!」
皇帝陛下は満面の笑みで、巨大なマグロ(一本釣り)を引きずりながら近づいてきた。
「祝いの品だ! さあ、宴会をしよう!」
「……」
私とアレクセイは顔を見合わせた。
「……リーナ」
「はい、あなた」
「追加料金を請求しよう」
「賛成です。『プライベート侵害料』として、帝国予算の一割をいただきましょう」
私たちの静かなハネムーンは、皇帝の乱入によって「マグロ解体ショー&外交接待」へと変更された。
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