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隣国、ヴァラン王国の王都。
馬車を降りたリーナが最初に取った行動は、宿に荷物を預けることでも、観光名所を巡ることでもなかった。
彼女は真っ先に、王都最大の市場へと足を運んでいた。
「……ふむ。小麦の価格が数日前より三%上昇していますわね。物流の滞りか、あるいは投機的な動きかしら。肉類は安定していますが、香辛料の流通経路が不透明……。この市場、改善の余地(マージン)がたっぷり残っていますわ」
リーナは独り言を呟きながら、手帳にせっせと数字を書き込んでいく。
彼女にとって、異国の市場は観光地ではない。
経済の脈動を測るための「巨大な貸借対照表」なのだ。
そんな折、一軒の露店の前で、激しい交渉の声が上がった。
「おじさん、この鉱石、純度が二割も低いじゃないか。これで定価を要求するなんて、僕の時間を泥棒しているのと同じだよ」
声の主は、二十代半ばほどの青年だった。
黒髪を無造作にまとめ、上質な、しかし飾り気のない服を着こなしている。
彼は店主に突きつけるように、掌に乗った小さな魔石を指さしていた。
「な、何を言うんだいお客さん! これは最高級の……」
「最高級の定義を教えてくれるかな? 王宮基準の含有率で言えば、これは二級品。しかもクラックが入っている。この状態なら、市場価格は銀貨三枚。君の提示した金貨一枚との差額、銀貨七枚分。これを君の『誠実さの欠如』へのペナルティとして差し引くのが妥当だと思うけれど、どうかな?」
青年の言葉は、淡々としているが容赦がない。
店主はぐうの音も出ないようで、顔を真っ赤にしている。
「……あら。あちらの方は、なかなか『筋』がいいですわね」
リーナは思わず足を止めた。
感情に任せて値切るのではなく、明確な「根拠」と「論理」で相手を追い詰めるスタイル。
それはまさに、彼女自身が日々行っていることと同じだった。
リーナはすたすたとその青年の隣に並び、店主に向かって声をかけた。
「店主。その方の言う通りですわ。おまけに、そちらの秤(はかり)。支点がわずかに左に寄っていますわね。一回の取引ごとに、客から銅貨二枚分を掠め取る計算かしら? 年間を通せば……あら、重罪になるほどの不当利得になりますわよ」
「ひ、ひえええっ!? なんだいあんたたちは! 結託して嫌がらせか!」
「嫌がらせではありません。市場の適正化ですわ」
リーナと青年。
二人の「冷徹な視線」に耐えきれなくなった店主は、魔石を放り出すようにして「持ってけ泥棒!」と叫び、店を畳んで逃げ出してしまった。
後に残されたのは、目的の品を手に入れた青年と、満足げなリーナ。
青年は驚いたようにリーナを見やった。
その瞳は、深い森のような緑色をしており、知性の光が宿っている。
「……驚いたな。あの秤の細工、一瞬で見抜いたのかい?」
「数字を扱う者として、均衡が崩れているのは不愉快極まりありませんもの。それより貴方、今の交渉。一級品の鑑定能力と、合理的な詰め方でしたわね。素晴らしいわ、時給に換算すればかなりの生産性です」
「時給……。くくっ、面白いことを言う。君もなかなかの『同類』のようだね。名前を聞いてもいいかな?」
「リーナ・フォン・アッシェン。ただの、失業中の経理担当ですわ。……で、そちらの鑑定マニアさんは?」
リーナが問い返すと、青年は不敵な笑みを浮かべた。
「カイルだ。ヴァラン王国の商務卿……つまり、この国の財布の番人を務めている。……君、もしかして今日、僕のところへ履歴書を送りつけてきた公爵令嬢じゃないかな?」
リーナは目を丸くした。
目の前にいるこのカジュアルな男が、あの冷徹な条件を提示してきた商務卿、カイル・ド・ヴァラン本人だったとは。
「……あら。事前の調査では、もう少し『気難しくて愛想のない鉄仮面』だと伺っていましたけれど」
「それは仕事の時だけだよ。プライベートでは、無駄なエネルギーを消費したくないからね。……さて、リーナ嬢。履歴書の経歴は拝見した。王子の負債を完璧に回収した手腕、僕の国でも存分に振るってもらいたい。ただし……」
カイルはリーナの顔に、グイッと自分の顔を近づけた。
物理的な距離は近いが、そこに甘い雰囲気は微塵もない。
あるのは、獲物を見定めている商人の鋭さだ。
「僕の要求は高いよ。成果が出なければ、即座にクビだ。無能を養う予算は一リーブルも用意していない」
「願ってもないことですわ。私も、有能な上司以外に仕える時間は、人生の無駄だと思っておりますもの」
「いい返事だ。……それじゃあ、早速テストといこうか。この市場の流通不備を、明朝までにレポートにまとめてくれ。報酬は……銀貨十枚。満足な内容なら、倍にするよ」
「銀貨二十枚確定(フィックス)、ということで承りますわ」
リーナは自信満々に微笑み、カイルの手を……ではなく、彼が持っていた魔石を指さした。
「そのテスト料、経費として先払いいただけますかしら? 調査に必要な資料代として」
「……ははっ! 本当に、可愛げのない女だ」
「最高の褒め言葉ですわ、カイル様」
握手の代わりに、二人は不敵な視線を交わした。
恋愛の始まりというよりは、巨大な合併事業の契約締結のような瞬間。
リーナの新しい「仕事」が、今、始まった。
馬車を降りたリーナが最初に取った行動は、宿に荷物を預けることでも、観光名所を巡ることでもなかった。
彼女は真っ先に、王都最大の市場へと足を運んでいた。
「……ふむ。小麦の価格が数日前より三%上昇していますわね。物流の滞りか、あるいは投機的な動きかしら。肉類は安定していますが、香辛料の流通経路が不透明……。この市場、改善の余地(マージン)がたっぷり残っていますわ」
リーナは独り言を呟きながら、手帳にせっせと数字を書き込んでいく。
彼女にとって、異国の市場は観光地ではない。
経済の脈動を測るための「巨大な貸借対照表」なのだ。
そんな折、一軒の露店の前で、激しい交渉の声が上がった。
「おじさん、この鉱石、純度が二割も低いじゃないか。これで定価を要求するなんて、僕の時間を泥棒しているのと同じだよ」
声の主は、二十代半ばほどの青年だった。
黒髪を無造作にまとめ、上質な、しかし飾り気のない服を着こなしている。
彼は店主に突きつけるように、掌に乗った小さな魔石を指さしていた。
「な、何を言うんだいお客さん! これは最高級の……」
「最高級の定義を教えてくれるかな? 王宮基準の含有率で言えば、これは二級品。しかもクラックが入っている。この状態なら、市場価格は銀貨三枚。君の提示した金貨一枚との差額、銀貨七枚分。これを君の『誠実さの欠如』へのペナルティとして差し引くのが妥当だと思うけれど、どうかな?」
青年の言葉は、淡々としているが容赦がない。
店主はぐうの音も出ないようで、顔を真っ赤にしている。
「……あら。あちらの方は、なかなか『筋』がいいですわね」
リーナは思わず足を止めた。
感情に任せて値切るのではなく、明確な「根拠」と「論理」で相手を追い詰めるスタイル。
それはまさに、彼女自身が日々行っていることと同じだった。
リーナはすたすたとその青年の隣に並び、店主に向かって声をかけた。
「店主。その方の言う通りですわ。おまけに、そちらの秤(はかり)。支点がわずかに左に寄っていますわね。一回の取引ごとに、客から銅貨二枚分を掠め取る計算かしら? 年間を通せば……あら、重罪になるほどの不当利得になりますわよ」
「ひ、ひえええっ!? なんだいあんたたちは! 結託して嫌がらせか!」
「嫌がらせではありません。市場の適正化ですわ」
リーナと青年。
二人の「冷徹な視線」に耐えきれなくなった店主は、魔石を放り出すようにして「持ってけ泥棒!」と叫び、店を畳んで逃げ出してしまった。
後に残されたのは、目的の品を手に入れた青年と、満足げなリーナ。
青年は驚いたようにリーナを見やった。
その瞳は、深い森のような緑色をしており、知性の光が宿っている。
「……驚いたな。あの秤の細工、一瞬で見抜いたのかい?」
「数字を扱う者として、均衡が崩れているのは不愉快極まりありませんもの。それより貴方、今の交渉。一級品の鑑定能力と、合理的な詰め方でしたわね。素晴らしいわ、時給に換算すればかなりの生産性です」
「時給……。くくっ、面白いことを言う。君もなかなかの『同類』のようだね。名前を聞いてもいいかな?」
「リーナ・フォン・アッシェン。ただの、失業中の経理担当ですわ。……で、そちらの鑑定マニアさんは?」
リーナが問い返すと、青年は不敵な笑みを浮かべた。
「カイルだ。ヴァラン王国の商務卿……つまり、この国の財布の番人を務めている。……君、もしかして今日、僕のところへ履歴書を送りつけてきた公爵令嬢じゃないかな?」
リーナは目を丸くした。
目の前にいるこのカジュアルな男が、あの冷徹な条件を提示してきた商務卿、カイル・ド・ヴァラン本人だったとは。
「……あら。事前の調査では、もう少し『気難しくて愛想のない鉄仮面』だと伺っていましたけれど」
「それは仕事の時だけだよ。プライベートでは、無駄なエネルギーを消費したくないからね。……さて、リーナ嬢。履歴書の経歴は拝見した。王子の負債を完璧に回収した手腕、僕の国でも存分に振るってもらいたい。ただし……」
カイルはリーナの顔に、グイッと自分の顔を近づけた。
物理的な距離は近いが、そこに甘い雰囲気は微塵もない。
あるのは、獲物を見定めている商人の鋭さだ。
「僕の要求は高いよ。成果が出なければ、即座にクビだ。無能を養う予算は一リーブルも用意していない」
「願ってもないことですわ。私も、有能な上司以外に仕える時間は、人生の無駄だと思っておりますもの」
「いい返事だ。……それじゃあ、早速テストといこうか。この市場の流通不備を、明朝までにレポートにまとめてくれ。報酬は……銀貨十枚。満足な内容なら、倍にするよ」
「銀貨二十枚確定(フィックス)、ということで承りますわ」
リーナは自信満々に微笑み、カイルの手を……ではなく、彼が持っていた魔石を指さした。
「そのテスト料、経費として先払いいただけますかしら? 調査に必要な資料代として」
「……ははっ! 本当に、可愛げのない女だ」
「最高の褒め言葉ですわ、カイル様」
握手の代わりに、二人は不敵な視線を交わした。
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