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「……負けましたわ。完敗ですわ。白旗を通り越して、もう真っ白な灰になりましたわ」
私は自室の机の上で、あの一冊の「計画書」をじっと見つめていた。
昨夜、バルコニーで明かされた驚愕の真実。
私が必死に練り上げてきた悪逆非道の数々は、すべて殿下の掌の上で「愛らしい余興」として楽しまれていた。
そして、殿下は最初から、私が「無能だから身を引こうとしている」ことを見抜いた上で、逃げ道をすべてコンクリートで固めていたのです。
「お嬢様、ようやく悟りを開かれましたか」
アンナが、どこか清々しい顔で私の隣に立った。
「ええ。もう無駄な足掻きはやめますわ。悪役令嬢、引退です。……今日からは、大人しく殿下の『愛の重圧』に耐えるだけの置物になりますわ」
私は震える手で、火のついたキャンドルを計画書に近づけた。
メラメラと燃え上がる、私の「悪」への情熱。
さようなら、私の高笑い。さようなら、私の毒薬(激辛スパイス)。
これからは、平凡で無能な、ただの「レオンハルト殿下の所有物」として生きていくのです。
「……お嬢様。そんなに悲劇のヒロインみたいな顔をしないでください。世界で一番幸せな監獄に向かうだけですから」
「それが一番怖ろしいと言っているのですわ!」
そこへ、いつものように輝くオーラと共に、レオンハルト殿下が部屋に入ってきた。
「おはよう、マリア! 昨夜はよく眠れたかい? 君が白白した……いえ、白白ではなく白状してくれたおかげで、僕は朝から幸せの絶頂にいるよ!」
「殿下、おはようございます。……もう、嫌がらせはいたしません。私は今日から、あなたの望む通りの『大人しくて従順な婚約者』になりますわ」
私は力なく微笑み、優雅にお辞儀をした。
レオンハルト殿下は、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに狂おしいほどの歓喜を瞳に宿した。
「従順なマリア……! なんて甘美な響きだ。君が僕にすべてを委ねてくれるというのかい? ああ、今日という日を祝日にしなければ……!」
「殿下。一言いいですか。マリア様は単に魂が抜けているだけです。喜びすぎて公務を忘れないでください」
ケイン様が後ろでボヤいているが、殿下の耳には届かない。
「マリア。君が『普通』の婚約者になりたいと言うなら、まずは僕と一緒に、この『愛の契約書』にサインをしてくれないか?」
殿下が取り出したのは、結婚の誓約書……の、下書きのようだった。
内容は「生涯、互いを唯一の存在とし、いかなる時も離れない」という、極めて誠実(で重い)なもの。
「……わかりましたわ。もう、サインでもなんでもいたします」
私はペンを手に取り、書類に名前を書こうとした。
……その時である。
ガタンッ! と、窓の外で大きな音がした。
「ひっ!?」
驚いた拍子に、私の手が滑った。
無能令嬢としての本領が、ここで最悪の形で発揮された。
手に持っていたインク瓶が宙を舞い、中身がレオンハルト殿下の真っ白な正装に、そして……殿下が持っていた「愛の契約書」の上に、盛大にぶち撒けられた。
「あ……ああ……!!」
真っ黒に染まる、殿下の胸元。
そして、契約書の上には、私の不器用な手の跡がインクでベッタリと付き、文字が全く読めなくなってしまった。
「……やってしまった。私、最後の最後で、殿下の大事な服と書類を……」
私は凍りついた。
今はもう、悪役を演じているわけではない。
純粋に、私の「無能さ」が原因で、殿下の名誉と時間を奪ってしまったのだ。
「……で、殿下! 申し訳ありません! すぐに洗わせますわ! 書類も、書き直しを……!」
私は泣きそうになりながら、殿下の胸元をハンカチで拭こうとした。
しかし、レオンハルト殿下は、自分の汚れなど気にする様子もなく、真っ黒に染まった書類をじっと見つめていた。
「……マリア。君という人は、本当に……」
「ご、ごめんなさい! 軽蔑してください! 私はやっぱり、何一つまともにできない無能なんですわ!」
私が項垂れると、レオンハルト様は震える手で、そのインク塗れの書類を高く掲げた。
「見てくれ、ケイン! 奇跡だ!」
「……は?」
「マリアがぶち撒けたこのインク……。よく見てごらん。僕と君の名前を繋ぐように、巨大な『ハート型』になっているじゃないか! これはもはや契約書を超えた、運命の芸術だ!」
「……どこをどう見れば、そのシミがハートに見えるんですの!?」
私は絶叫した。どう見ても、ただの不吉な真っ黒な塊です。
「いや、見える! 誠実な心の目で見れば、君の溢れんばかりの情愛が、インクとなって僕を染め上げているのが分かるよ。マリア……君はわざと失敗することで、僕の服に『自分の印』を刻んでくれたんだね?」
「違います! 完全に事故ですわ!」
「そして、文字が読めなくなったこの書類……。これは『愛に言葉など不要だ』という、君からの無言のメッセージなんだね。ああ、なんて高潔なんだ……。僕は今、君の無能という名の全能感に、完全に屈服したよ!」
レオンハルト様は、インクで汚れた私の手を迷わず取り、その汚れすら愛おしそうに口づけした。
「殿下。そのインク、落ちにくい特殊なやつですから、顔に付きますよ。……まあ、もう手遅れですか」
ケイン様が乾いた笑い声を上げている。
「マリア。君がどれだけ『普通』になろうとしても、君の存在そのものが僕にとっては奇跡の連続なんだ。だから、諦めておくれ。君の失敗も、無能さも、すべてが僕にとっては最高の愛のカタチなんだから」
「…………」
私は、インクだらけの殿下の笑顔を見つめ、静かに悟った。
私はもう、逃げられない。
私がどれだけ失敗しても、どれだけ無能でも、この人はそれを「愛」という名の黄金に変換してしまう。
私の「悪役令嬢」としての看板は、今日、王子の「盲目すぎる誠実さ」という海の中に、深く、深く沈んでいった。
「……わかりましたわ、殿下。私、もう『普通』になる努力もやめますわ」
「おや、それはどういう意味だい?」
「あなたの隣で、一生、盛大に失敗し続けて差し上げますわ! それが私の、あなたへの『嫌がらせ』という名の献身です!」
「ははは! 望むところだよ、僕の愛しいマリア!」
私たちは、インクの匂いが漂う部屋の中で、今日までで一番幸せな(そして一番汚れた)抱擁を交わした。
悪役令嬢への道。
マリアは自らの愛の重さに、そしてそれを上回る王子の執着に降伏し、ついに「幸せになること」を受け入れたのであった。
私は自室の机の上で、あの一冊の「計画書」をじっと見つめていた。
昨夜、バルコニーで明かされた驚愕の真実。
私が必死に練り上げてきた悪逆非道の数々は、すべて殿下の掌の上で「愛らしい余興」として楽しまれていた。
そして、殿下は最初から、私が「無能だから身を引こうとしている」ことを見抜いた上で、逃げ道をすべてコンクリートで固めていたのです。
「お嬢様、ようやく悟りを開かれましたか」
アンナが、どこか清々しい顔で私の隣に立った。
「ええ。もう無駄な足掻きはやめますわ。悪役令嬢、引退です。……今日からは、大人しく殿下の『愛の重圧』に耐えるだけの置物になりますわ」
私は震える手で、火のついたキャンドルを計画書に近づけた。
メラメラと燃え上がる、私の「悪」への情熱。
さようなら、私の高笑い。さようなら、私の毒薬(激辛スパイス)。
これからは、平凡で無能な、ただの「レオンハルト殿下の所有物」として生きていくのです。
「……お嬢様。そんなに悲劇のヒロインみたいな顔をしないでください。世界で一番幸せな監獄に向かうだけですから」
「それが一番怖ろしいと言っているのですわ!」
そこへ、いつものように輝くオーラと共に、レオンハルト殿下が部屋に入ってきた。
「おはよう、マリア! 昨夜はよく眠れたかい? 君が白白した……いえ、白白ではなく白状してくれたおかげで、僕は朝から幸せの絶頂にいるよ!」
「殿下、おはようございます。……もう、嫌がらせはいたしません。私は今日から、あなたの望む通りの『大人しくて従順な婚約者』になりますわ」
私は力なく微笑み、優雅にお辞儀をした。
レオンハルト殿下は、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに狂おしいほどの歓喜を瞳に宿した。
「従順なマリア……! なんて甘美な響きだ。君が僕にすべてを委ねてくれるというのかい? ああ、今日という日を祝日にしなければ……!」
「殿下。一言いいですか。マリア様は単に魂が抜けているだけです。喜びすぎて公務を忘れないでください」
ケイン様が後ろでボヤいているが、殿下の耳には届かない。
「マリア。君が『普通』の婚約者になりたいと言うなら、まずは僕と一緒に、この『愛の契約書』にサインをしてくれないか?」
殿下が取り出したのは、結婚の誓約書……の、下書きのようだった。
内容は「生涯、互いを唯一の存在とし、いかなる時も離れない」という、極めて誠実(で重い)なもの。
「……わかりましたわ。もう、サインでもなんでもいたします」
私はペンを手に取り、書類に名前を書こうとした。
……その時である。
ガタンッ! と、窓の外で大きな音がした。
「ひっ!?」
驚いた拍子に、私の手が滑った。
無能令嬢としての本領が、ここで最悪の形で発揮された。
手に持っていたインク瓶が宙を舞い、中身がレオンハルト殿下の真っ白な正装に、そして……殿下が持っていた「愛の契約書」の上に、盛大にぶち撒けられた。
「あ……ああ……!!」
真っ黒に染まる、殿下の胸元。
そして、契約書の上には、私の不器用な手の跡がインクでベッタリと付き、文字が全く読めなくなってしまった。
「……やってしまった。私、最後の最後で、殿下の大事な服と書類を……」
私は凍りついた。
今はもう、悪役を演じているわけではない。
純粋に、私の「無能さ」が原因で、殿下の名誉と時間を奪ってしまったのだ。
「……で、殿下! 申し訳ありません! すぐに洗わせますわ! 書類も、書き直しを……!」
私は泣きそうになりながら、殿下の胸元をハンカチで拭こうとした。
しかし、レオンハルト殿下は、自分の汚れなど気にする様子もなく、真っ黒に染まった書類をじっと見つめていた。
「……マリア。君という人は、本当に……」
「ご、ごめんなさい! 軽蔑してください! 私はやっぱり、何一つまともにできない無能なんですわ!」
私が項垂れると、レオンハルト様は震える手で、そのインク塗れの書類を高く掲げた。
「見てくれ、ケイン! 奇跡だ!」
「……は?」
「マリアがぶち撒けたこのインク……。よく見てごらん。僕と君の名前を繋ぐように、巨大な『ハート型』になっているじゃないか! これはもはや契約書を超えた、運命の芸術だ!」
「……どこをどう見れば、そのシミがハートに見えるんですの!?」
私は絶叫した。どう見ても、ただの不吉な真っ黒な塊です。
「いや、見える! 誠実な心の目で見れば、君の溢れんばかりの情愛が、インクとなって僕を染め上げているのが分かるよ。マリア……君はわざと失敗することで、僕の服に『自分の印』を刻んでくれたんだね?」
「違います! 完全に事故ですわ!」
「そして、文字が読めなくなったこの書類……。これは『愛に言葉など不要だ』という、君からの無言のメッセージなんだね。ああ、なんて高潔なんだ……。僕は今、君の無能という名の全能感に、完全に屈服したよ!」
レオンハルト様は、インクで汚れた私の手を迷わず取り、その汚れすら愛おしそうに口づけした。
「殿下。そのインク、落ちにくい特殊なやつですから、顔に付きますよ。……まあ、もう手遅れですか」
ケイン様が乾いた笑い声を上げている。
「マリア。君がどれだけ『普通』になろうとしても、君の存在そのものが僕にとっては奇跡の連続なんだ。だから、諦めておくれ。君の失敗も、無能さも、すべてが僕にとっては最高の愛のカタチなんだから」
「…………」
私は、インクだらけの殿下の笑顔を見つめ、静かに悟った。
私はもう、逃げられない。
私がどれだけ失敗しても、どれだけ無能でも、この人はそれを「愛」という名の黄金に変換してしまう。
私の「悪役令嬢」としての看板は、今日、王子の「盲目すぎる誠実さ」という海の中に、深く、深く沈んでいった。
「……わかりましたわ、殿下。私、もう『普通』になる努力もやめますわ」
「おや、それはどういう意味だい?」
「あなたの隣で、一生、盛大に失敗し続けて差し上げますわ! それが私の、あなたへの『嫌がらせ』という名の献身です!」
「ははは! 望むところだよ、僕の愛しいマリア!」
私たちは、インクの匂いが漂う部屋の中で、今日までで一番幸せな(そして一番汚れた)抱擁を交わした。
悪役令嬢への道。
マリアは自らの愛の重さに、そしてそれを上回る王子の執着に降伏し、ついに「幸せになること」を受け入れたのであった。
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